軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 守る、の、続きを

道の真ん中で、黒い外套が、一つ、立っていた。

遠くからでも、すぐに分かった。軍医局の徽章の、小さな光り方を、覚えている。八年前、師の診察室の横で、見習いとして立っていた頃のマリーカの徽章と、同じ型だった。型は変わらないものだ。変わったのは、徽章の下の、あいつの背の伸び方だけ、だった。

馬車を、止めさせた。

御者が、小窓から、短く「到着」と告げた。俺は、扉を、外側から開けるほうが、早いと、判断した。中から、セレナの目が、俺のほうを、一度、見ていた。

「降りる。マリーカを、入れる」

「……はい」

セレナの声は、か細かった。昨夜からずっと、か細かった。咎めはしない。昨日、あの方の看取りの直後だ。──こちらが、言葉を求める場面では、ない。

マリーカは、馬車の扉の前で、外套の裾を、軽く持ち上げた。乗り込む動作が、軍医の、現場仕事の動作だった。

「ルーカス様、ご連絡、遅くなかったです。街道で合流できたこと、こちらも助かります。──セレナ様、こんにちはー、マリーカですよっ」

セレナの、冷えた手を、マリーカは、両手で、挟んでいた。挟んでから、セレナの膝のほうの毛布を、少しだけ、引き上げた。膝の下の、冷え方を、確認する、あの手順の動き、だった。

「もう少しだけ、揺れの少ない道の速度で、お願いしますねー、ルーカス様」

マリーカの声は、俺には、直接向けられていなかった。向けられていないほうが、助かった。俺は、御者台との小窓を、一度、指の節で、軽く叩いた。御者は、速度を、落とした。

屋敷に、着いた。

マリーカは、セレナを、別室に連れていった。応接間ではない、屋敷の奥の、小さな部屋。軍医の診察は、応接間ではやらない。静かで、光の安定している場所で、やる。──八年前、俺が、師の診察を受けたときの、あの小部屋の構造と、同じ考え方、だった。

俺は、執務室に、一人で、戻った。

戻ってから、しばらく、壁の地図の前に、立っていた。立っていた、という記憶はある。けれど、地図のどこを見ていたかは、思い出せない。指が、国境線の、いつもと同じ位置に、置かれていた。置かれていたことだけは、自分の手の、爪の先の、かすかな力みで、あとから、気づいた。

(……俺が、何かを、落ち着くために、する動作というのは、たいてい、地形の方向に、向くのだな)

その事実を、三十四歳になって、ようやく、自分で認めた。認めたところで、今、落ち着くわけでは、なかった。

夕方近くに、扉が、叩かれた。

「ルーカス様、マリーカ、失礼いたしますー」

軽い声色だった。いつもの、軽い声色。──この声色が、軽いことを、俺は、今日ほど、ありがたいと思ったことは、なかった。あいつが、重い声色で、この扉を、叩いてきていたら、俺は、扉を開ける前に、一度、呼吸を、止めていた。

「入れ」

マリーカは、部屋に入って、まっすぐ、机の前まで、歩いてきた。手に、診察用の小さな帳面を、持っていた。俺は、立ったまま、地図の前から、机の手前へ、戻った。座るか、立ったままかで、一瞬、迷った。座った。

「結論から、申し上げますね」

「ああ」

「ルーカス様。──お子様、です」

マリーカは、机の上に、手のひらを、一度だけ、軽く、置いた。軍医の、事実を、置いた時の、手の置き方、だった。

「まだ、ごく、初期です。体力には、充分気をつけていただいて、しばらくの間、遠出と、長時間の公務は、お控えください。ご飯、しっかり、召し上がっていただいて。これは、妻の、義務じゃなくて、医者からの、指示です。そう、お伝えください」

「……ああ」

声が、出た。

出たけれど、自分の声の速度が、普段より、半拍、遅かった。半拍の遅れが、自分の喉の、八年前の古傷のせいでは、ないことは、自分で、分かっていた。分かっているぶんだけ、恥ずかしかった。恥ずかしさを、マリーカには、悟られなかったふりを、した。あいつは、悟った上で、悟らないふりを、返してくれた。

「セレナ様には、もう、お伝えしましたか」

「……いえ。こちらから、直接、お伝えしました。ルーカス様と、お二人で、今夜、お話しになってくださいねー。私は、明日の朝まで、屋敷に泊めていただいて、それから王都に戻りますー」

「……ハンネスに、言っておく」

「はい、よろしくお願いしますっ」

マリーカは、扉のほうへ、歩きかけて、一度だけ、振り返った。振り返ってから、軽く、頭を、下げた。

「ルーカス様。……おめでとうございます」

俺は、頷いた。頷いただけ、だった。頷いた時の、自分の首の、曲がる角度が、妙に、丁寧だった。

夜、自室に戻った。

セレナは、寝台の端に、腰掛けていた。起きていた。俺が扉を開けたとき、こちらを、一度だけ、見上げた。見上げ方が、いつもの、仕事の話のときの見上げ方と、似ていた。──違ったのは、膝の上の、両手の位置、だった。片方が、もう片方の、指の、付け根のあたりを、静かに、押さえていた。昨日、馬車の中で、お腹のほうに当てた、あの手の、今夜の位置だった。

俺は、寝台の横の、小さな机のほうに、歩いた。

小机の、引き出しの、いちばん上から、筆談ノートを、取り出した。

久しぶり、だった。最近は、ほとんど、使わなかった。──声が、戻ってきてから、声で、済ませる用事が、増えた。声で済む用事を、声で済ませるのが、夫婦の、普通の形、だと、自分に、言い聞かせながら。

今夜は、声では、なかった。

ノートを、机の上に、開いた。ペンを、取った。

(……書け)

頭の中で、命じた。軍の時の、自分に対する命じ方。──動かない体に、無理やり、命令する、あの、短い、内側の声の使い方。

ペン先が、紙の上に、下りた。

下りて、止まった。

ひと息、置いた。

二息、置いた。

書けなかった。

自分の指の、肘の、肩の、どこの関節にも、異常はない。喉の古傷も、今夜は、静か。──なのに、紙の上で、ペン先の、インクが、少しずつ、紙を、滲ませていくだけの、時間が、続いた。

……八年前の、春の、師の診察室で、俺が、白紙のまま、丸めて、捨てた手紙のことを、一瞬、思い出した。

あの時と、紙の白さが、似ていた。

(……あの時は、宛先だけが、書けた)

宛先だけ、書いて、本文が、書けなかった。書けないまま、破って、捨てた。破った紙を、師が、黙って、整理箱の端に、入れておいてくれた。その紙が、マリーカの手で、何年も経ってから、この屋敷の、セレナの手に、届いた。

あの時の、あの紙の、宛先の、いちばん下の名前が、今夜、この机の向こうの寝台の端に、座って、俺を、見ていた。

……あの頃の自分は、家庭、というものの形を、知らなかった。

父は、俺が、物心つく前に、死んだ。軍務中の、事故だった。母は、その後の冬に、体を、崩して、数年、戻らないまま、逝った。祖父母の、遠縁の家に、拾われて、剣を、覚えた。食卓の匂いは、他人の家の匂い、として、覚えた。自分の父親という人間を、自分で、見たことがない。

自分が、誰かの父親になる、という絵を、八年前、あの縁談の席に向かう朝まで、俺は、自分の頭の中に、描いたことが、なかった。

描いてみたのは、あの朝、馬車の中で、喉の、掠れを、押さえながら、一度だけ、だった。

描いてみて、怖くなった。怖くなったことを、師に、相談しようとして、診察室で、喉が、出なくなった。──それが、全部の、始まりだった。

八年、怖さの中身が、変わらないまま、来た。

変わったのは、怖さの、隣に、別の何かが、座ったこと、だけ、だった。

(……セレナ)

頭の中で、名前を、呼んだ。

呼んだ自分の声に、応えるように、ペン先が、ようやく、動いた。

『守る』

ひと言、だった。

書いてから、俺は、ペンを、置いた。

置いた瞬間に、この一言が、足りているか、足りていないかの判断を、自分の頭の中で、放棄した。放棄することが、今夜の、自分にできる、最後の誠実さだった。それ以上を、書こうとすると、書けないまま、また、白紙に戻ることを、俺は、八年前に、身をもって、学んでいた。

ノートを、寝台のほうに、向けた。

セレナは、立ち上がって、机のほうへ、来た。ゆっくりと、だった。足の運びが、いつもより、遅かった。遅い理由は、今日の俺には、もう、分かっていた。

机の前に、並んで、立った。

セレナが、自分のペンを、取った。俺のペンではない、セレナ自身の、いつもの経理用のペン。インクの色が、俺のより、一段、暗かった。

『守る』の下に、セレナが、ひと行、足した。

『一緒に、です』

それだけ、だった。

俺は、その一行を、読んだ。読んでから、ペンの置き方を、少しだけ、変えた。──紙の、空いているほうへ、ずらした。

セレナの頭の、つむじの、少し後ろのあたりに、今朝までの王都の旅の匂いと、春先の薔薇園の匂いと、昨日の馬車の毛布の匂いが、薄く、残っていた。俺は、そのうちの、どれとも違う、柔らかい匂いを、一つ、かいだ気がした。気のせい、かもしれない。気のせいでも、今夜は、良かった。

翌朝、俺は、執務室に、一人で、入った。

壁の、額の、列のいちばん右の端に、新しい額を、一つ、掛けた。中身は、まだ、入っていない。空のまま、掛けた。

何を入れるかは、まだ、決めていない。

昨夜の、ノートの頁を、入れるのが、いちばん順当、だと思う。でも、それは、あのノートの、あの頁そのものを、壁に掛ける、という意味だ。──今夜以降も、たぶん、俺たちは、あの頁の続きを、書く。書くなら、頁を、壁に、固定してしまうのは、早い。

だから、まだ、空。

空のまま、掛けておくことが、今朝の、俺の、返事だった。

窓の外で、春の朝の風が、庭の、白い花壇の上を、通っていた。花壇の、茎の揺れ方が、昨日より、少しだけ、大きかった。

机の引き出しの、いちばん下の、奥の端に、子供用の木剣の、小さいほう──子供用より、もうひと回り小さいやつ──の寸法を書いた紙が、一枚、入っていた。

書いたのは、冬の、レオンが初めて来た日の、夜、だった。

気が、早いにも、ほどがあった。

早くなりすぎた自分を、今朝は、責めなかった。