作品タイトル不明
第九話 お姉さまは冷たい
お父様は、宣言したとおり、翌朝、王宮へ、出かけた。
朝の馬車の音を、私は、自分の部屋から、ぼんやり、聞いていた。
お父様がご自分で、庭の門の前に馬車を回させて、ご自分で、乗った気配だった。
家令のハーシュは、お父様より先に、王宮で、夫人方への根回しの挨拶のために、動いていた。
それを、私が知ったのは、午後、ハーシュが、屋敷に戻ってからだった。
お父様は、その日、夕方、疲れた顔で、屋敷に戻った。
疲れた顔は、役所仕事を、一日、なさったあとのものではなかった。
頭のなかで、何かを、いくつも、整理したあとの顔だった。
「ハーシュ」
「はい、旦那様」
「ライラ夫人の屋敷は、庭が、庭らしくない」
「左様にございますね」
「庭、というよりは、寮舎の庭、と申すべきか」
「王家のお仕えのお屋敷でいらっしゃいますから」
「左様か」
それだけ言って、お父様は、書斎に、籠もった。
ハーシュは、それを、見送ってから、私の前で、深く、頭を下げた。
「お嬢様」
「ハーシュ」
「ライラ夫人より、立夏の宵の宴への招きが、正式に、お届けになります旨、お話を、伺いました」
「立夏の宴」
「ええ。王宮の、庭での宴」
「お父様も、お招きを?」
「家門ぐるみで」
「……ノエルも」
「家門ぐるみ、でございます」
ハーシュは、その先を、それ以上、続けなかった。
続けなかったのは、家門ぐるみ、という言葉に、お父様の決断が、すでに、含まれていたからだった。
家門ぐるみ、というのを、お母様は、お父様の代から、長く、聞かなくなっていた。
お母様の加減が、社交の場で、辛くなって以降、お父様は、お母様の代わりに、家門ぐるみの席への、出席を、辞退なさることが多かった。
お父様が、一人で、席に立つか、それも難しいときは、ノエルだけで、席に立っていた。
私は、婚約者の家の側に席があった、というのもあり、家門ぐるみの席に、リンドレイの娘として、長く立っては、いなかった。
その「家門ぐるみ」を、お父様は、本日、王宮で、申し出た。
ライラ夫人は、それを、深く、受けた。
それが、立夏の宴の、招きという形で、当家に返ってくる。
その晩、私の部屋に、お母様が、来られた。
「アデライド」
「お母様」
「立夏の宴の話を、お父様から、伺いましたよ」
「ええ」
「衣装を、私が、選んでもよろしくて?」
「もちろん、お母様」
「ふふ。今度のは、見栄を張りに行く方ね」
「ええ、見栄を、張りに」
お母様は、笑って、それから、しばらく、衣装の話を、ゆっくり、してくれた。
選んだのは、お母様の寝間着の隣の、衣装部屋の、いちばん奥の、もう、長らく、袖を、通していなかった、深い、藤紫のドレス。
お母様が、まだ、お元気だった頃、王宮の祝宴で、一度、着たものだった。
お母様の肌色には、当時、いちばん、似合った一着だった。
「これは、私のための色だったの」
「ええ、お母様」
「でも、いまの私の肌には、合わなくなりましたわ」
「……」
「貴方の藤色には、ちょうど、重ねていただきたい色味なの」
「……お母様、勿体ない」
「いえ。これは、私が選んだ私の色を、いま、私の選んだ娘に、渡すだけ」
お母様は、言葉の中で、私の名前を、ふと、避けた。
避けたのが、たぶん、お母様のおもいやりだった。
避けたほうが、言葉の意味が、はっきり、立つことを、お母様は、知っていた。
立夏の宴は、王宮の庭で、夕方、開かれる。
王宮の庭、というのは、宮殿の東側の、いちばん、広い、芝の庭のこと。
中央に、白い大理石の、長い回廊があり、その回廊の脇に、席が、いくつも、並ぶ。
招きの方の格に応じて、回廊の近くか、庭の遠いほうか、席の位置が、分かれる。
招きの当日、馬車のなかで、お父様は、ほとんど、話さなかった。
お父様の片膝の上に、たいそう、しわのない、正式の手袋が、置かれていた。
お父様は、その手袋を、一度、持ち上げて、着けず、そのまま、置いた。
置く手の動きが、ふだんよりも、わずかに、静かだった。
ノエルは、後便の馬車だった。
ノエルの馬車は、私たちの馬車より、遅れて、屋敷を、出る、と、家令の者が、こちらに告げてくれていた。
お父様が、それを、決めた。
決めたのは、本日、家門ぐるみで、招きを受ける、という趣旨を、一行の出方で、示すためだった。
ご当主と、長女が、先に、屋敷を出て、次女が、後便で、出る。
それが、家門の、ご当主の決断、というふうに、なる。
屋敷を、出る前、玄関で、お父様は、一度だけ、私の顔を、見た。
「アデライド」
「お父様」
「歩くのが、遅くて、よければ、私に合わせなさい」
「……ええ」
「私は、もうあまり、早くは、歩けないのだ」
「ええ、お父様」
それだけ、言った。
言った言葉が、ふだんのお父様らしくは、なかった。
ふだんのお父様は、早足の人だった。
お母様の加減が悪くなる前は、お父様の歩幅に、お母様が、いつも、半歩、遅れていた。
お父様は、それを、振り返らずに、進む人だった。
振り返らない、というのは、お母様の側に、いつも、寂しさが残るところだった。
早く、歩けない、と、本日、お父様は、自分から、言った。
言った意味は、たぶん、足の話だけ、ではなかった。
立夏の宴の会場に、お父様と、到着した。
受付で、家門の名前を、通すと、受付の係の者が、名簿を、もう一度、確認のために、見なおした。
見なおすあいだ、お父様の隣で、私は、立っていた。
受付の者が、顔を、上げた。
「リンドレイ伯爵家、ご当主様、ご長女、アデライド様」
「ええ」
「当家のお席は、白の回廊の、東より、三番目」
「……」
「家令の者が、お席まで、お導きいたします」
家令の者が、深く、お辞儀をして、導いてくれた。
白の回廊の、東より三番目。
それが、本日の、リンドレイ家の、席だった。
席に着くまでの間、庭の遠いほうから、何人かのご年配の奥様方が、視線で、私と、お父様の動きを、追いかけた。
追いかける視線は、もう、私が見慣れた、軽蔑の視線では、なかった。
追いかける視線は、何かを、見届けにきている視線だった。
回廊の、当家の席の、すぐ向こうに、すでに、並びの席があった。
クラーケンハイト侯爵家。
ご当主夫妻、アルヴィス様、そして、後便で、到着するはずの、ノエル。
クラーケンハイト家の席の番号は、いつもどおりだった。
いつもどおり、というのは、変わっていない、ということだった。
変わっていなかった。
リンドレイ家が、上がっていた。
クラーケンハイト家は、変わりがなかった。
それが、本日、庭の、いちばん前の方から、いちばん後ろの方まで、出席の皆様の目に、はっきり、見えていた。
見えていたのは、たぶん、ライラ夫人の手配だった。
見えやすいように、並びの順を、整え直してくれていたのだ、と、私には、わかった。
お父様は、席に着く前に、クラーケンハイト侯爵ご夫妻に、丁重なお辞儀を、なさった。
ご夫妻も、お辞儀を返された。
返すお辞儀の角度は、本日、お父様のお辞儀の角度よりも、わずかに、深かった。
その深さは、礼法上は、社交統括の手配を、受け止めた、ということを、家門の同士で、確かめる、ということだった。
私は、お父様の隣の席に、着いた。
ノエルが、後便の馬車で、到着した。
庭の入り口で、ノエルの足が、一度、止まった。
止まったのは、ノエルが、自分の席の位置を、家令の者から、聞いたときだった。
ノエルの席は、クラーケンハイト家の席ではなく、リンドレイ家の席に、用意されていた。
私の、隣でも、お父様の、隣でもなく、リンドレイ家の席列の、いちばん端だった。
ノエルは、端の席へ、導かれた。
席に着くとき、ノエルは、私の顔と、お父様の顔を、一度ずつ、見た。
顔の表情を、作れなかった。
作れない顔が、本日、ノエルの、いちばん、ふだんの顔に、なっていた。
宴は、王弟殿下の、開きの言葉から、始まった。
言葉は、短かった。
短い言葉のあと、楽団の曲が、庭の遠いほうから、はじまった。
席のあいだを、出席の皆様が、一人ずつ、動くようになった。
挨拶を、交わす方が、多かった。
家令の者たちが、紅茶や、果実水を、運んだ。
リンドレイ家の席にも、何人かの方が、挨拶に、来られた。
ご年配の奥様方、お三方。
家門のご当主、お二方。
それぞれの方が、お父様と話をなさり、ついでに、私の前にも、お辞儀をくださった。
私は、それぞれ、返しを、丁寧に、返した。
お父様は、私の隣で、話を、自分で、なさった。
自分でなさる様子は、私にとって、はじめての、お父様だった。
これまで、お父様は、社交の場では、ハーシュ、または、お母様が元気な頃はお母様が、大半の応対を、なさってきていた。
自分で、前に出て話すことが、得意ではなかった。
本日、お父様は、得意ではないことを、自分で、なさっていた。
なさっていた、というのを、私は、隣で、しばらく、見ていた。
「お父様」
「なんだ」
「お疲れに、なられました?」
「いや、これくらいは」
「肩を、すこし、回されますと、お楽でございますわ」
「……お前は、お母様に似てきたな」
お父様は、それだけ、言った。
お母様に似てきた、と、お母様のことを、話に出したのは、お父様としては、たいへんに、珍しいことだった。
しばらくして、宴の席の、向こうのほうで、声が、少し高くなった。
クラーケンハイト家の席のあたりだった。
ノエルが、誰かに、声を、掛けていた様子だった。
誰に、ということは、私の席から、すぐには、見えなかった。
そばで、お父様の席のすぐ後ろに、ふっと、ヴェロニカ夫人が、立たれた。
「リンドレイ伯爵様」
「お夫人」
「ご長女様、本日のお席、おめでとうございます」
「お夫人のお心配り、痛み入ります」
「いえ、私の力ではございませんわ。当家のご当主の決断と、リンドレイのご令嬢の慣例の運び方と、別の方のお見届けの力でございます」
「……」
「ところで、リンドレイのご令嬢」
「はい、お夫人」
「あちらに、ノエル様が、私の縁戚の若い令嬢に、声を、掛けていらっしゃる様子」
「……」
「これから、若い令嬢方の間で、ちいさな、話が、進むかもしれません」
「お夫人」
「ええ」
「お止めには、ならないで」
「ええ。止めませんわ」
ヴェロニカ夫人は、それだけ、笑いを、口元に乗せて、席に、戻られた。
私は、ヴェロニカ夫人の戻る先の、席の方向で、ふと、目を、止めた。
縁戚の若い令嬢、というのは、ヴェロニカ夫人のお茶会のあと、私の話を、夫人と、よく、続けてくれていた令嬢のことだろう、と、すぐに、わかった。
私の席から、立ち上がって、近づくことは、しなかった。
立ち上がらないでも、声は、庭の風に乗って、ところどころ、こちらに、届いた。
「お姉さまは……、もう、お姉さまは……」
ノエルの声、だった。
「お姉さまは、もう、私と、お口も、きいてくださらないの」
ノエルの、声に、半分ほど、涙が、混ざっていた。
ノエルが涙を、使うのは、いつもの、ノエルのやり方だった。
困ると、涙。
叱りそうな相手の気持ちを、涙で、緩める。
そうやって、長く、暮らしてきていた。
その日も、ノエルは、同じように、涙を、使った。
「ノエル様」
縁戚の令嬢の声が、返した。
「ええ」
「ご令嬢のお席は、いつから、中央でいらしたの?」
ノエルが、顔を、上げた気配があった。
「えっ……」
「中央のお席は、本来、リンドレイのご長女のお席でしたわ」
「……ええ」
「私、社交シーズンの記録を、お役所からお取り寄せいたしましたの。お祖母様の代から」
「……」
「アデライド様のお席が、下げになった夜から、ノエル様のお席が、上がった日付まで、正確に、控えがございますわ」
「……」
「ノエル様」
「は……、はい」
「四度の観劇の延期。七度の同伴の交代。十一度の同伴の拒否。そして、二十四通の、お詫び状」
縁戚の令嬢の声は、けっして、高くしなかった。
高くしなかったから、庭の風のなかで、その数字が、ひとつずつ、はっきり、聞こえた。
「お……お姉さまの数を、なぜ」
「ヴェロニカ夫人のお茶会で、ご年配の奥様方が、確かめになりましたわ」
「……」
「それを、六年間、お受けになった方を、冷たい、と、おっしゃるの?」
ノエルは、しばらく、何も、返事を、しなかった。
しなかったあいだに、ノエルの周りに、いつのまにか、若い令嬢方が、一人、二人、と、集まっていた。
集まった令嬢方は、ノエルの話を、支持するためではなかった。
確かめるため、だった。
確かめているのが、顔のむきで、わかった。
ノエルは、涙を、流したまま、席を、立ち上がった。
立ち上がったあと、しばらく、庭の入り口の方向に、顔を、向けていた。
それから、ふっと、回廊の隅のほうへ、一人で、歩いた。
アルヴィス様が、それを見て、席を、立たれた。
立って、ノエルの後を、すこし、追われた。
アルヴィス様は、無口に、ノエルの傍に、立って、声を、低く、掛けられた。
その声は、庭の風に、乗らなかった。
乗らなかったから、私の席までは、届かなかった。
ただ、話のあいだ、アルヴィス様の顔の表情だけが、私の席から、ちょうど、見えた。
何かを、問う顔。
質問を、返す顔。
ノエルが、答えに、困る顔。
それを、聞いて、アルヴィス様が、ふっと、顔の力を、緩める顔。
緩めた、というよりも、何かが、崩れた顔だった。
崩れるのを、これまで、私は、アルヴィス様の顔の上で、見たことが、なかった。
崩れた顔が、しばらく、ノエルの顔を、見ていた。
見たまま、何も、続けなかった。
続けなかったのが、たぶん、アルヴィス様の、本日、はじめての、決断だった。
そのあと、アルヴィス様は、ノエルを、送る、という様子で、席のほうへ、導いた。
導く足取りは、いつもの、優しい導きとは、違った。
優しい、というよりは、疲れた、導きだった。
私は、自分の席に、座ったまま、それを、見ていた。
見ていたあいだに、ヴェロニカ夫人と、ヴァランシュタイン家のお当主が、庭の遠いほうで、言葉を、短く、交わす場面が、見えた。
ヴァランシュタイン家のお当主は、私のほうへは、本日、視線を向けては、こなかった。
向けてこないことが、本日、いちばん、はっきりした、返事だった。
宴の終わりが、近づいた頃、お父様は、私のほうへ、低く、言った。
「アデライド」
「お父様」
「帰りにしようか」
「……ええ」
「帰りの便を、申しつけてある」
「お母様、先にお待ちですわ」
「ええ」
私たちは、席を、立った。
回廊を、お父様と、並んで、歩いた。
出席の方々が、席のあいだで、深いお辞儀を、返された。
返すお辞儀の角度は、一人、一人、違った。
違う角度のなかで、何人かの方は、本日、はじめて、お父様の顔に、深いお辞儀を、返した。
返す角度の意味を、私は、お父様の隣で、頭の中で、ひとつずつ、数えた。
数えながら、ふと、自分の足音と、お父様の足音が、揃っていることに、気づいた。
正確には、いつから、揃ったのかは、わからなかった。
庭の入り口から、すでに、揃っていたのか、回廊の途中から、揃ったのか。
わからなかった。
わからない、というのは、それだけ、自然に、揃っていた、ということだった。
お父様の歩幅は、私の歩幅より、いつもは、早かった。
お母様の歩幅は、お父様の歩幅より、いつも、遅かった。
私の歩幅は、お母様の歩幅と、ほぼ、同じだった。
本日、お父様は、早く、歩けない、と、玄関で、言った。
言ったとおりに、歩いていた。
歩いていた足が、結果として、私の歩幅と、揃っていた。
それは、たぶん、偶然、では、なかった。
偶然ではない、と、私のなかで、思った。
ただ、思ったまま、お父様の顔は、見なかった。
見なかったのは、お父様も、本日、私の顔を、見なかったからだった。
お父様は、庭の入り口まで、私の歩幅で、歩いた。
歩いて、馬車に乗る前に、一度、深く、ご年配の奥様方のほうへ、お辞儀をなさった。
馬車のなかで、お父様は、何も、話さなかった。
私は、窓の外を、見ていた。
夜気が、すこし、湿っていた。
湿っていたのは、立夏とはいえ、夕方の庭が、まだ、春の名残の風を、残していたからだった。
「アデライド」
「お父様」
「明日、ハーシュに、王宮の婚姻登録庁への、便を、書かせる」
「……お父様」
「お前の側からの、正式な、解消の申し入れだ」
「……」
「明白な礼法違反の継続的事実、というのを、家令長と、ヴェロニカ夫人と、ライラ夫人で、整えてくださった。証言は、家令長と、ヴェロニカ夫人」
「……」
「クラーケンハイト侯爵家にも、家令を通じて、すでに、話は、進めている。先方のご当主も、本日、納得の様子だった」
「……」
「お前の口から、改めて、王弟殿下にお伝えする、席を、整える」
「お父様」
「……」
「お父様、本日、お疲れに、なられたのですね」
「……ああ。これは、相当に、疲れる」
そう言ったあと、お父様は、ふっと、笑った。
笑ったのは、お父様としては、屋敷を、出てから、本日、はじめてだった。
笑いの中身は、辛さでもあり、安堵でもあり、たぶん、お父様自身でも、はっきり、分けられなかった。
私は、それに、何も、返さなかった。
ただ、馬車の窓の外で、王宮の灯火が、すこしずつ、後ろに、流れていくのを、ふたりで、見ていた。
屋敷に、着く前、ふと、お父様が、ぼそっと、言った。
「歩幅、合わせるのは、案外、難しいな」
「お父様」
「お前にずっと、母様にも、申し訳ないことを、していた」
私は、それに、返しを、言わなかった。
言わなかったのは、ことばを、思いつかなかったからだった。
思いつかなかった、というよりは、思いついた言葉が、いま、ここで、口にすると、お父様にも、私にも、痛い、と、わかっていたからだった。
馬車の灯火の影で、お父様の目のうちが、また、わずかに、湿っていた。
ノエルは、その夜、後便の馬車で、屋敷に、戻った。
戻ってから、自分の部屋から、出てこなかった。
家令の者が、食事を、部屋まで、運んだ。
運んだ、その食事は、手をつけずに、戻された、と、リーゼが、私に告げた。
「奥様」
「ええ」
「ノエル様、お夕食、まったく、召し上がらず」
「……そう」
「アルヴィス様も、屋敷に、お送りには、ならなかった様子で」
「ええ」
「お送り、なさらなかった、というのは、礼法上は」
「……ええ。本日、本来は、お送りなさるはずの夜だった、ということ」
「……」
「リーゼ」
「はい」
「ノエルの部屋には、本日、何も運ばないで」
「お夕食も、もう、運びにはなりません」
「ええ」
「奥様、ノエル様、声が、部屋から、聞こえます」
「……泣いて?」
「ええ」
「……そう」
私は、それを、しばらく、自分の中で、受けた。
受けたあと、もう一度、お母様の白い薔薇の枝が、何輪、開いていたかを、思い出した。
思い出した、というよりも、お母様の顔が、思い出された。
お母様は、今夜、たぶん、ノエルの泣き声を、聞いてはいない。
聞かない位置に、部屋がある。
聞かない位置にしておくのは、お父様の、長年の気遣いだった。
お父様は、自分の長女と、自分の次女のあいだに、深い格差を、置いていた父だった。
その父が、本日、私の歩幅に、自分の歩幅を、合わせた。
そう、自分のなかで、もう一度、思い直した。
思い直しても、お父様を、すっかり、許す気持ちには、まだ、至らなかった。
至らないが、至らない自分も、責めようがなかった。
私は、灯火を、落とした。
落とすときに、机のうえに、もう一通、便りが、置いてあるのに、気づいた。
便箋は、家紋透かしの、正規のもの。
封蝋は、深い、緑。
ヴァランシュタイン家のお当主からだった。
私は、それを、開けるのを、明日に、回した。
回したのは、本日、もう、受け止めるものが、多すぎたからだった。
多すぎたまま、眠りに、つくのも、ふだんの私には、難しかったが、本日は、不思議と、安らかに、目を、閉じることが、できた。
閉じた、まぶたの裏に、立夏の庭の、白い回廊が、しばらく、残った。
残った回廊の上を、お父様と私が、揃った歩幅で、歩く音だけが、しばらく、低く、響いていた。