作品タイトル不明
第十話 謝罪は、免罪符ではありません
朝、起きたとき、枕元の薔薇は、もう、首を、垂れていた。
垂れた首の下に、花弁が、二、三、落ちていた。
落ちた花弁を、私は、一枚、指で、拾って、本の頁のあいだに、挟んだ。
挟む本は、お母様が、私に、小さい頃に、読んでくれていた、古い童話集。
それしか、頭に、思い浮かばなかった。
ほかの本では、いけない、と、ふと、思った。
ふと、思っただけだった。
それで、よかった。
着替えの衣装は、本日、お母様が、選んでくれていた。
立夏の夜の藤紫ではなく、もうすこし、落ち着いた、深い、青の色。
正式の場面に出るための、もっとも、動きの少ない色だった。
首元には、お母様の、お祖母様の代からの譲りの、ちいさな、白い真珠の飾り。
お母様は、それを、寝間着のままで、私の首に、ご自分で、掛けてくれた。
「アデライド」
「お母様」
「首元のものは、お母様が、お母様のお母様から、受け取ったもの」
「ええ」
「お母様の代では、力を、貸してくれませんでしたわ」
「お母様」
「貴方の代では、力を、貸してくれるかもしれない」
お母様は、それだけ言って、笑いを、口元に、乗せた。
笑いの中に、力みは、なかった。
力みが、なかったのが、本日のお母様の、いちばん、お元気の印だった。
朝食の卓に、ハーシュが、一通、便りを、運んできた。
「お嬢様、エルディ様から」
「叙任先の館から?」
「ええ」
便箋は、若い少年らしい、すこし、硬い、筆。
言葉は、短かった。
『姉上、本日の席のこと、ハーシュより、伺いました。
姉上の、決断を、館の同期の連中にも、話しました。
皆、姉上の決断を、立派と、申しております。
私も、姉上を、自慢に、いたします。
お父様にも、ご無理を、なさいませんように、お伝えくださいませ。
エルディ』
お父様にも、ご無理を、なさいませんように。
エルディは、お父様のことを、本日、一文、入れていた。
入れたのは、エルディが、お父様の側に、ハーシュからの話のうちで、何か、気づいたから、だった。
ハーシュは、お父様にも、本日の席の話を、進めるあいだ、ハーシュらしい、丁寧な言葉で、エルディに、話を、共有していた様子だった。
話を、共有しながら、たぶん、ハーシュは、エルディに、お父様の年齢のことも、ふと、話していた。
私は、便りを、畳んで、胸元に、置いた。
置いたまま、卓上のお父様の方を、見た。
お父様は、黙って、紅茶を、飲んでいた。
「お父様」
「なんだ」
「エルディから、便りが」
「読みなさい」
「いえ、お父様にも、言葉が、ございます」
「……」
「ご無理を、なさらないでくださいますよう、と」
お父様は、しばらく、紅茶のカップを、見つめていた。
見つめて、ふっと、笑いを、口の端に、乗せた。
「あれは、お前と、似てきた」
「……ええ」
「私と、似てきたのが、本日の席で、私の方では、なくて、お前のほうにだ」
お父様は、それだけ、言った。
言った意味は、すぐには、深くは、訊かなかった。
訊かなかったのは、本日、訊くべき場所が、別にあるからだった。
馬車に乗るとき、玄関の階段で、お母様は、先に、見送りに、立っていた。
「いってまいります」
「ええ。行ってらっしゃい」
「お父様、お引き立てくださいまし」
「アデライド、その言葉は、お父様にではなくて、ご自分に、おっしゃい」
「……」
「貴方は、本日、ご自分の席に、ご自分で、立つのよ」
お母様は、それを、私の額に、軽く、唇を、当てて、送り出した。
唇は、まだ、朝の時刻だったから、わずかに、冷たかった。
冷たい唇の感触が、馬車に乗って、王宮の門を、通るまで、額のあたりに、ずっと、残った。
王宮の、控えの部屋に、通された。
控えの部屋は、庭ではなく、宮殿の西側の、深い部屋だった。
壁は、深い、紺の織物が、並びに、掛かっていた。
部屋の中央に、長卓。
長卓の上に、書類を、いくつか、ハーシュが、すでに、並べて、置いていた。
「お嬢様」
「ハーシュ」
「申請の書類、差し出しの順を、改めて、お確かめいただきます」
書類は、三つだった。
ひとつは、慣例違反の継続的事実、をまとめた、家令長手書きの整理書。
便箋の格の変化、封蝋の変化、筆の変化、文面の長さの変化、差出の便の日付の変化。
六年分が、年代順に、表に、並べてあった。
ハーシュが、一人で、本日まで、整えてくれていた。
ふたつめは、社交慣例上の違反の報告。
観劇の延期。同伴の交代。同伴の拒否。公的な挨拶状への、返事の遅れ。贈答の遅れ。それぞれが、ヴェロニカ夫人と、グリーディ夫人、ほか、ご年配の奥様方による、記憶の証言と一致する形で、整えてあった。
みっつめは、本日、私の口から、王弟殿下に、申し上げる、言葉の原稿。
原稿、というよりも、言葉の要点が、三行ほど、走り書きされているだけのものだった。
私は、それを、読んで、しばらく、考えた。
「ハーシュ」
「はい」
「この原稿、本日、読むかは、わからない」
「ええ。お読みでも、お読みでなくても、構いません」
「読まないほうが、よろしいときが、ございますかしら」
「お嬢様の考えるおりに、考える言葉で、おっしゃることが、本日、いちばん、よろしいかと存じます」
「ええ」
「席は、慣例の、運びに、進められます。お慎重に」
「ええ」
ハーシュは、お父様の側に、一度、声を、掛けた。
お父様は、すでに、部屋の隅で、家令の者と、最終の打ち合わせを、短く、なさっていた。
控えの部屋を、出る時刻になった。
ハーシュが、先に、書類を、持って、出た。
お父様が、続きで、出た。
私は、いちばん、最後だった。
控えの部屋を、出る、ちょうど、その手前で、私は、一度、立ち止まった。
立ち止まったのは、足が、急に、動かなくなったから、ではなかった。
控えの部屋の、壁の織物のなかに、一枚、白い薔薇が、織り出されているのを、見つけたから、だった。
白い薔薇は、お母様の好きな、花。
織ってあったのは、ライラ夫人が、本日のために、部屋を、手配してくれた、その細部までの、おもいやりだった。
「お母様」
私は、小さく、声に、出した。
声は、控えの部屋の、紺の織物に、すうっと、溶け込んだ。
溶け込んだあと、私は、足を、進めた。
正式の部屋は、控えの部屋の、二つ、先だった。
入ると、すでに、王弟殿下、ライラ夫人、クラーケンハイト侯爵ご夫妻、アルヴィス様、クラーケンハイト家令長、お父様、ハーシュ、皆、すでに、席に、着いていた。
ノエルは、本日、席を、外していた。
年齢の若い令嬢を、こうした席に、着けないのが、慣例だった。
ノエルは、本日、当家の屋敷に、残っていた。
私の席は、ハーシュの斜め前。
お父様の斜め後ろ。
王弟殿下が、一度だけ、声を、掛けてくださった。
「リンドレイ伯爵家、ご長女、アデライド」
「はい、殿下」
「家門の申し出による、解消の申請、本日、整いとして、審理いたす」
「ありがたく、頂戴いたします」
「ライラ夫人より、資料の整理を、聞かせていただこう」
ライラ夫人が、席を、立たれた。
立って、家令長の整え書類の要点を、短く、読み上げられた。
読み上げる声は、低くて、聞き取りやすかった。
便箋の格の変化。
封蝋の変化。
筆の変化。
慣例違反の継続的事実。
ご年配の奥様方の、証言。
そのいずれも、一つ一つ、年月の日付、つきで、読み上げられた。
読み上げのあいだに、クラーケンハイト侯爵ご夫妻は、席で、自分の膝のうえに、両手を、置いていた。
ご夫妻の顔は、青ざめてはいなかった。
ただ、両手を、何度か、軽く、握り直した。
握り直す動きが、本日、ご夫妻が、ライラ夫人の話を、慣例どおりに、受け止める決断を、示していた。
アルヴィス様は、ご両親の斜め後ろの席で、顔を、ずっと、紅茶のカップではなく、手元の、席の卓の角に、向けていた。
ライラ夫人の読み上げが、終わった。
王弟殿下が、席を、一度、整え直された。
「資料は、慣例の『明白な礼法違反の継続的事実』の要件を、満たすものと、本日、判じる」
家令の者が、頷いた。
「リンドレイ家の申し出を、受理する方向で、審理を、進める」
「は」
「クラーケンハイト侯爵家、ご当主、異議の有無、述べるがよい」
クラーケンハイト侯爵は、席で、ふっと、深く、息を、吐いた。
吐いてから、低く、返事を、なさった。
「殿下、異議は、ございません」
「受理、いたす」
「は」
「クラーケンハイト家、ご令息、異議の有無を」
王弟殿下の言葉が、アルヴィス様の席に、向きを、変えた。
アルヴィス様は、席を、立った。
立って、王弟殿下のほうへ、深いお辞儀をなさった。
お辞儀をしてから、私のほうへ、もう一度、深いお辞儀をした。
そのあと、顔を、上げた。
「殿下」
「うむ」
「異議は、ございません。ただ……、一つ、言葉を、頂戴できる、時間は」
王弟殿下が、ライラ夫人のほうへ、視線を、向けた。
ライラ夫人が、慎ましく、頷いた。
「家令長、書記の手を止めよ」
「はい、殿下」
「ご令息、申すがよい。時間を、与える」
アルヴィス様は、しばらく、息を、整えた。
整えていた息の重さが、卓を、すこしだけ、振るわせた気がした。
「アデライド嬢」
「ええ」
「私は……、もう一度、機会を、頂戴できないだろうか」
私は、それに、答えを、返す前に、ハーシュのほうへ、視線を、向けたくなった。
向けなかった。
向けたかったが、向けなかった。
ハーシュは、本日、私の席のために、お父様の代から、整えてくれていた。
ヴェロニカ夫人、グリーディ夫人、ライラ夫人は、本日、私の席のために、庭の薔薇の話を、年月に、重ねてくれていた。
お母様は、本日、私の額に、唇を、当てて、送り出してくれた。
お父様は、本日、自分の歩幅を、私の歩幅に、合わせて、歩いた。
エルディは、本日、館から、便りを、一通、書いてくれた。
そのすべての方が、本日の席に、控えていた。
控えてくれている方々の前で、私は、私の側の、言葉を、自分の声で、言う必要があった。
原稿は、ハーシュの手元に、まだ、畳まれたまま、置かれていた。
私は、原稿を、本日、読む必要は、なかった。
言葉は、もう、私の中で、整っていた。
「アルヴィス様」
「ええ」
「謝罪は、免罪符ではありません」
私は、声を、低く、言った。
低く、言ったが、席の隅まで、届いた。
届く距離が、本日、卓上の長さと、ちょうど、揃った。
「私が、六年で、受け取りましたのは、二十四通の、言い訳でございました」
クラーケンハイト侯爵ご夫妻が、ふと、息を、止める気配があった。
ご夫妻は、本日、はじめて、ご令息の二十四通の、数のうちを、聞いた様子だった。
聞いていた、というよりも、数のうちの意味を、本日、改めて、整理した、というほうが、近かった。
「……」
私は、そこで、いったん、言葉を、切った。
切ったのは、次の一言が、自分の中で、いちばん長く、温めてきた言葉だったからだ。
膝の上の、両手を、私は、一度、軽く、組み直した。
組み直してから、その手を、解いた。
「もう、結構です」
家令長が、書記の手を、本日、止めていた。
止めていた手の影で、ライラ夫人が、ふっと、扇を、一度、動かした。
扇の角度は、王弟殿下のほうへ、ほんの、わずか、向いていた。
「アデライド嬢、私は……」
「アルヴィス様」
「ええ」
「言葉は、もう、結構でございます」
アルヴィス様は、言葉を、続けなかった。
続けなかった口元で、一度、小さく、息を、吐いた。
吐いた息のあと、ふっと、視線を、ようやく、私の顔に、向けた。
向けた視線が、本日、はじめて、私の顔を、見たのだ、と思った。
六年で、はじめて、だった。
見てくれた、ということが、本日、私には、もう、何の意味も、持たなかった。
持たないことを、私のなかで、確かめて、終わった。
アルヴィス様は、深く、深く、お辞儀をした。
お辞儀の角度は、自分の家門の格に、反するほどに、深かった。
反するほどに、深いお辞儀を、本日、私に、向けた。
それでも、私は、お辞儀の角度を、揃えては、返さなかった。
返さなかったのは、本日、私が、それを、返してしまうと、自分の決断が、ぶれる、と、わかっていたからだった。
お辞儀の角度を、ふだんの慣例どおりの、本来のリンドレイ家の長女の返し角度で、返した。
王弟殿下が、席を、一度、整えられた。
「リンドレイ家、解消の申し出、本日、これをもって、受理する」
「は」
「家令長、書記、記録に、整えなさい」
「はい、殿下」
「両家の家令、家門への、正式な、通知を」
「はい」
それで、席は、終わった。
席の終わりは、早かった。
開始から、終了まで、一刻にも、満たなかった。
短かったのは、すべての、一つひとつの手続きが、すでに、ご年配の奥様方と、ライラ夫人と、ハーシュの手で、整えられていたから、だった。
クラーケンハイト侯爵ご夫妻が、席を、立つ前、お父様の席のほうへ、深く、お辞儀をなさった。
お父様も、深く、お辞儀を返された。
ご夫妻と、お父様のお辞儀の角度は、揃っていた。
揃っていたのは、これからは、家門と、家門のあいだに、本日の席のあとも、変わらぬ慣例の交わりが、続くということを、互いに、示す、ということだった。
アルヴィス様は、席を、立つとき、もう一度、私の顔のほうへ、顔を、向けた。
向けたが、言葉は、もう、続けなかった。
続けなかったのが、本日、いちばん、アルヴィス様らしい、最後だった。
控えの部屋に、もう一度、戻った。
ハーシュは、書類の片付けを、していた。
お父様は、席の隅で、深く、椅子に、腰を、下ろした。
本日、自分の席のために、ずっと、背筋を、正しくしていたお父様が、ようやく、背を、すこし、緩めた。
「お父様」
「うむ」
「お疲れに、なられましたわね」
「……ああ。これは、相当に、疲れる」
「もう、屋敷に」
「お前は、先に、帰りなさい」
「お父様は」
「私は、ライラ夫人と、もう少し、ご挨拶を、申し上げる」
「ええ。先に、失礼いたします」
「アデライド」
「お父様」
「お前の言葉、本日、立派だったぞ」
お父様は、それだけ、言った。
言ったあと、もう、私の顔のほうは、見なかった。
見なかったのは、お父様らしい、いつものお父様のおもいやりだった。
それを、本日、私は、受けて、笑った。
笑ったあとに、ふっと、自分の目から、湿りが、滲んだ。
滲んだのは、本日、はじめてだった。
滲んだ湿りを、誰にも、見せないように、庭の遠いほうに、顔を、向けながら、控えの部屋を、出た。
廊下に、人は、すぐには、いなかった。
慣例の席のあと、出席の家門の方が、それぞれ、別々の出口に、進む。
そういう動線に、宮殿は、整えてあった。
クラーケンハイト家の一行は、すでに、一階の、正面の出口へ、進んでいた。
ハーシュは、控えの部屋で、お父様の準備の、整理を、していた。
私は、廊下の中ほどで、一度、立ち止まった。
立ち止まったのは、足が、急に、重くなったからではなかった。
廊下の途中、庭に面した、小さな窓があった。
窓の外で、立夏の庭の白い回廊が、遠くに、見えた。
庭は、もう、春の花ではなく、初夏の青葉が、すこしずつ、濃くなっていた。
窓の外を、見ていた、ちょうど、その時に、廊下の後ろから、足音が、一つ、近づいた。
「リンドレイ嬢」
低い、急かない、声だった。
声は、聞く前から、どなたの声か、わかっていた。
「侯爵閣下」
私は、一度、深く、お辞儀をした。
お辞儀の角度は、ふだんよりも、わずか、深かった。
「解消の席、お務めご無事に、よろしうございました」
「ありがとう、存じます」
「席の運びを、庭のほうから、ライラ夫人より、伺いました」
「……」
「一つ、言葉を、差し上げて、よろしいでしょうか」
私は、ふっと、顔を、上げた。
侯爵閣下の顔は、本日、いつもよりも、痩せていた。
痩せていた、というのは、表情の骨が、いつもより、はっきり、見えていたから、だった。
自分のなかで、何か、たいへんに、整えていた、という様子だった。
「ええ。聞かせてくださいませ」
「私は、一度、間に合わなかったことが、ございます」
「……」
「八年、前。外交先から、王都に戻ったとき、私の婚約者は、もう、おりませんでした」
「……」
「病で。急に。私が、任地にいるあいだに」
侯爵閣下は、言葉を、続けるあいだ、一度も、私の顔から、視線を、逸らさなかった。
逸らさなかったのは、逸らして、本日、言葉を、続けないことが、自分でも、わかっていたからだった。
「『間に合わない』ことの、怖さを、私は、知っております」
「……」
「だから、リンドレイ嬢の、六年に、私は、踏み込まなかったのです」
「……」
「踏み込んで、私が、間に合うかどうかが、わからなかった」
私は、返事を、言葉に、乗せられなかった。
乗せられなかったのは、言葉が、思いつかなかったから、ではなかった。
乗せると、それが、いまの私には、重すぎる、と、わかっていたからだった。
侯爵閣下は、それを、見ていた。
見て、しばらく、黙った。
黙る時間が、ふだんの侯爵閣下の、いちばん、深い、礼法だった。
そのあと、ふっと、言葉を、続けた。
「リンドレイ嬢」
「ええ」
「貴方が、もう、謝罪を、受け取らずに、済む場所を、整えても、よろしいでしょうか」
婚約の申し入れ、では、なかった。
確約の申し入れ、でも、なかった。
席を、整えても、よろしいでしょうか、という、ただ、質問。
それだけだった。
それだけの、質問のなかに、八年分の、言葉が、入っていた。
私は、返事を、言う前に、一度、自分の口元で、笑いを、試した。
自分のためだけ、の、笑いだった。
笑いを、試した、というのを、自分で、はっきり、自覚したのは、たぶん、本日、はじめてだった。
これまでも、笑いを、してはきていた。
ただ、本日の笑いは、誰のためでも、ない、自分のための、笑いだった。
「ええ」
私は、返事を、返した。
「整えてくださいませ。ただし……、ゆっくりで」
そこで、私は、一度、言葉を、止めた。
止めて、窓の外の、初夏の青葉を、見た。
それから、もう一度、侯爵閣下のほうを、見た。
「ゆっくりで、構いません」
「……ありがとう、存じます」
侯爵閣下は、深く、お辞儀をした。
お辞儀の角度は、本日、小さな窓の外、初夏の庭の青葉の上に、向けて、深かった。
私のほうも、お辞儀を返したが、お辞儀の角度は、本日のすべての席のうちで、いちばん、軽かった。
軽かったのは、本日、もう、お辞儀の角度で、自分の気持ちを、示す必要が、なくなったから、だった。
「一つ、申しても、よろしいでしょうか」
私は、ふっと、続けた。
「ええ。どうぞ」
「私、しばらく、領地の祖母のところへ、参ります」
「ご祖母様の」
「お母様のお母様の、屋敷でございます。空気がよくて、薔薇園が、ございますの」
「……それは、よろしゅうございますね」
「ええ」
「花の便りを、送っても、よろしいですか」
「『贈答ではなく、祝意の表明として』であれば」
「もちろん、でございます」
侯爵閣下は、本日、はじめて、口元に、笑いを、乗せた。
笑いは、ふだんの、礼法のなかの、笑いとは、違った。
違った、というのを、本日、はじめて、見た私のほうでも、はっきり、わかった。
それで、話は、終わりだった。
私は、深く、お辞儀をして、廊下を、進んだ。
侯爵閣下は、その場で、一度、立ち止まって、私の後ろ姿を、見送った。
見送った、というのは、振り返らなくとも、わかった。
宮殿の出口で、ハーシュが、待っていた。
「お嬢様」
「ハーシュ」
「お父様の仕度には、もう少し時間が、かかります。先の馬車に」
「ええ」
「屋敷で、お母様が、待っていらっしゃいます」
「ええ。帰りましょう」
馬車のなかで、私は、しばらく、窓の外を、見ていた。
馬車の揺れに、合わせて、首元の白い真珠が、すこし、動いた。
お母様のお母様の、譲りの、ちいさな、真珠。
お母様の代では、力を、貸してくれなかった、と、お母様は言った。
私の代では、力を、貸してくれるかもしれない、と、お母様は言った。
三代の女が、本日、一つの、首元に、重なっていた。
屋敷に、戻った。
玄関で、お母様が、一人で、立っていた。
寝間着の上に、ストールだけ、羽織っていた。
「アデライド」
「お母様」
「お務め、ご無事で」
「ええ」
「先に、部屋に、入ってちょうだい」
「ご一緒に」
「ええ。一緒に」
お母様は、私の腕に、手を、軽く、添えた。
添える手の力は、弱かった。
弱かったが、しっかり、添えていた。
部屋へ、一階分の階段を、お母様と、一緒に、上がった。
上がるあいだ、お母様の歩幅と、私の歩幅は、最初から、揃っていた。
揃ったのは、今度は、お父様のとき、よりも、自然だった。
階段の踊り場で、お母様は、一度、ふっと、笑った。
「アデライド」
「ええ」
「お母様、本日、白い薔薇を、一輪、切るのを、忘れたわね」
「……お母様」
「明日、切りますわ」
「……ええ。明日、切ってくださいませ」
「貴方が、ご祖母様の屋敷へ、出かける前に、白を、ひと束、持たせますね」
「……ええ。お母様」
お母様は、それだけ、言った。
屋敷の、廊下の水盤に、ヴァランシュタイン家から、一束、春の花が届いた日のことを、私は、ふっと、思い出した。
あの日の、花の、一通りは、もう、半分以上が、枯れていた。
枯れの、淡い、色のなかに、お母様が、本日、屋敷の中の、別の水盤に、新しく、一輪、足していた。
その、白い、ちいさな、一輪を、お母様は、本日のために、用意していた。
私は、部屋に入って、お母様のベッドの脇に、一度、腰を、下ろした。
腰を下ろして、お母様の手を、握った。
握って、しばらく、何も、話さなかった。
何も、話さない時間は、本日、いちばん、長い時間だった。
長かったが、重くは、なかった。
夕方、ハーシュが、お父様と、屋敷に戻った。
家令の者が、屋敷の門のところで、ヴァランシュタイン家の馬車が、一度、ゆっくり、通り過ぎるのを、見届けた、と、リーゼに、伝えた。
通り過ぎ、というのを、本日、私は、聞いても、もう、声を、上げる必要を、感じなかった。
馬車は、通り過ぎる、ということだけで、言葉を、置いていってくれた。
置き方は、もう、見慣れていた。
これからも、たぶん、何度も、見慣れていく。
夕食の卓に、お父様、お母様、私の、三人で、席に、着いた。
お父様は、本日、疲れの、顔をしていた。
疲れの、顔は、お母様の手を、卓越しに、一度、ふっと、握った。
握る動きは、最近の、お父様には、なかった動きだった。
「お父様」
「うむ」
「明日、エルディに、便りを、書きます」
「ええ。書いてやりなさい」
「ご祖母様の屋敷に、しばらく、行くおりに、エルディの叙任先の館にも、一度、立ち寄るつもりで」
「それは、いい」
「お父様、ご一緒に、見舞い、出かけになりますか」
「……ああ。私も、行こう」
お父様は、それだけ、言った。
お母様が、お父様の隣で、ふっと、笑った。
笑うお母様の顔は、屋敷の、夕方の灯火の下で、本日、一日のうちで、いちばん、明るかった。
夜、灯火を、落とす前に、ふと、机のうえに、本日の朝、挟んでいた童話集を、開いた。
挟んだ薔薇の花弁が、まだ、しめっていた。
そのまま、本のあいだに、置いておいた。
私は、机の引き出しを、開けた。
引き出しのなかには、紺色の封蝋の書状と、深緑の封蝋の書状が、並んで、しまわれていた。
そこに、私は、もう一通、開けたばかりの、深緑の封蝋の書状を、足した。
足してから、引き出しを、閉めた。
明日、ご祖母様の屋敷へ、出かける支度を、リーゼと、始める。
薔薇園のことを、お母様から、もう少し、聞いておきたかった。
祖母の屋敷の、朝の空気のことも。
エルディの叙任先の館にも、立ち寄る。
あの傾いた紋様のお守りを、もう一枚、彫ってもらえるかどうか、訊いてみよう、と思った。
今度は、お母様の分を。
そういうことを、ひとつずつ、頭のなかで、並べた。
並べているあいだ、二十四通のお詫び状のことは、一度も、思い出さなかった。
思い出さなかった、ということに、灯火を消したあとで、気がついた。
気がついて、それから、もう、何も、考えなかった。
枕元の、花瓶の白い薔薇が、夜の部屋のなかで、静かに、立っていた。
明日の朝には、もう一枚、花弁を、落としているだろう。
落ちた花弁を、私は、また、本のあいだに、挟むかもしれないし、挟まないかもしれない。
そのどちらでも、よかった。
私は、目を、閉じた。
明日の朝が、いつもより、すこし、楽しみだった。
楽しみだ、という気持ちのほうへ、自分で、目を、向けられた。
向けても、もう、つらくならなかった。
それだけが、本日、いちばん、長く残った。