軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六話 お返事は二週間後

挨拶状をクラーケンハイト侯爵家に送ったのは、贈答品を差し戻した、その翌日のことだった。

書いたのは、私自身。

便箋は、家紋透かしの、正規のもの。

封蝋は、リンドレイの紋章。

出しの便は、その日のうちに、当家の若い者に持たせた。

文面は、礼法どおりに、簡潔に。

要点は、三つだった。

ひとつ、互いの家門の慶びを、改めてお慶び申し上げる。

ふたつ、贈答品については、慣例に従い差し戻したこと、家門としての判断であって、個人の感情ではない旨。

みっつ、季節の変わり目、ご当主、奥様、ご令息、ご令嬢、皆様のご健勝を、心よりお祈り申し上げる。

差出人はアデライド・リンドレイ。

受取人はクラーケンハイト侯爵家ご当主夫妻。

公的な挨拶状である、ということは、その封蝋を見ただけで、向こうの家の家令にわかるはずだった。

公的な挨拶状には、即日の、ご当主、または奥様、直筆の返事を返すのが慣例。

それが難しい場合でも、二、三日のうちには、家令による応答の便を返す。

一週間を越せば、問い合わせ。

それを越えれば、はっきりとした、不興のしるし。

私の出した便から、返事が来るまで、その間が、ずっと、開いていた。

毎朝、リーゼは「クラーケンハイト家からの便、まだ届いておりません」と告げた。

告げる、というよりも、もう、わかっていることを、互いに言葉にして確認する、朝の習慣になっていた。

ふたつ目の朝、リーゼは少し心配そうな顔をしていた。

五つ目の朝には、もう、心配そうな顔をやめていた。

七つ目の朝には、報告の口調が、すこし、平らになっていた。

慣例に違背したのは、もう、向こうのほうだ。その事実が、リーゼの口調から、当家の中で固まっていく。その速度を、私はだまって、聞いていた。

その朝、ようやく、便が届いた。

「奥様。クラーケンハイト家、家令からの、応答便でございます」

「ご当主様、奥様、どちらかの、直筆ではなく?」

「家令の、お筆と、お見受けいたします」

リーゼはそう、慎重に言った。

私は、受け取って、机の上に置いた。

封蝋は、家紋。

ただし、押し方が、家令の癖だった。

ご当主が押される角度より、ほんのわずか、深い。

深いほうが、家令らしい、礼法どおりの押し方だ。

逆に、ご当主が直接押されると、その方の指の癖で、わずかに紋章が傾く。

封蝋の角度を見て、誰が押したのかが、わかってしまう。奇妙な技術だが、こちらは、もう、長く見てきている。

文面は、家令長の名で、最大限に、丁寧だった。

丁寧すぎる、と、いってもよかった。

丁寧すぎる文面というのは、たいてい、本家の意思の表明を、避けるためのものだ。

『ご家門のお慶び、つつしんで、ご慶賀申し上げます』

『ご贈答品の儀につきましては、改めてご検討の上、後便にて、ご当主からのご応答を差し上げる予定でございます』

『季節の変わり目、何卒、ご自愛のほどを』

要するに、向こうのご当主は、まだ、ご自分の名で返事をなさるかどうかを、決めていない。家令が、それを、丁寧に、知らせてきている。

家令としては、最大限に気をつかった文面だった。

そこに、家令の罪はない。

罪がない、ということに、私は、紅茶を飲みながら、すこしだけ笑った。

笑ったのは、家令を、咎める気が、自分には、もうない、と気づいたからだった。

「リーゼ。今日のお茶会の支度を」

「かしこまりました」

その日のお茶会は、ご年配の侯爵夫人のサロンだった。

王宮春の夜会を、再来週に控え、それまでに、二、三、準備的な集まりがある。

そのうちのひとつ。

屋敷の規模が大きく、ご当主が退役なさった元のお役職の関係で、宮中とも近い。

招きの便は、何週も前から、いただいていた。

リンドレイ家の長女に対して、夫人ご自身から、わざわざ、招きの便が来ていた。

招きの便が来た時点で、夫人が、なにかの意図をもって私を招いてくださっている、というのは、なんとなく、わかってはいた。

屋敷に入ったとき、玄関ホールに、ノエルがいた。

ノエルは、こちらの招待状を、自分で取り寄せて、ついてきていた。

リンドレイ家の馬車には、私が乗っていったから、ノエルは別の便、たぶん、お父様の二番馬車で来たのだろう。

お父様がそれを、許された。

「お姉さま」

「あら、ノエル」

「お夫人がね、私のことも、お招きくださって」

「そう」

「ねえ、お姉さま、その藤色のドレス、私、似合うと思うわ」

「ありがとう」

それ以上、私は言わなかった。

夫人の席は、温室ではなく、屋敷の二階の、お客間。

卓は、円卓。

円卓には、それぞれ、席の名札が置かれていた。

私の名前は、夫人の隣だった。

ノエルの名前は、円卓の、私の対面側。

真向かいの方は、年下のご令嬢方の中ほどに置かれていた。

夫人の隣、というのは、ご当主の夫人が、本日、いちばん話を交わしたいと思っていらっしゃる方の席。

そういう席に、私は据えられていた。

それを、ノエルは、いつも通りの、ご機嫌な顔で、見ていた。

見て、何か、ちょっとした不思議そうな顔をして、それから、すぐに、自分の話に戻っていた。

円卓の若いご令嬢方が、ノエルを取り囲むようにして、話を始めた。

ノエルは、その中心で、いつもの調子で、話をしていた。

夫人は、私と短い話を、しばらく交わされた。

お母様の加減。庭の薔薇。今年の春の気候。

新しい縁談の話は、何もなかった。

縁談の話を、夫人は、わざと、避けてくださっていた。

夫人の隣の席。

そこに私が据えられていることを、円卓のすべての方が、知っている。

知ったうえで、見て、知らないふりをして、自分の前のお茶を飲んでいる。

その席の意味を、本日、ノエルは、ちゃんと読みきれていなかった。

お茶会が、後半に入ったとき、円卓の向こうから、ノエルの声が、すこしだけ高くなった。

「アルヴィス様」

「ええ、ノエル様」

「アルヴィス様って、こう見えてマメな方なのよ」

「ええ、お優しいご令息様ですもの」

「私の手紙にはね、その日のうちに、お返事をくださるの」

円卓の、ノエルの隣に座っていたご令嬢が、ふっと、紅茶のカップから口を離した。

紅茶の湯気越しに、目だけが、すこし、動いた。

あとから思い返せば、その目の動きは、夫人のほうへ向いていた。

「あら、その日のうちに?」

「ええ」

「だって、ノエル様」

「なあに?」

「アデライド様への、ご公的なお挨拶のお返事は、二週間お後だった、と伺いましたわ」

ノエルは、紅茶のカップを、持ったまま、止まった。

止まったあと、ふっと、笑った。

笑ったのは、その質問の意味を、半分だけ、わかっていたからだった。

わかっていたが、まだ、半分だった。

「あら、それは……、それは、ご公的なご挨拶だもの。そんなに、すぐは……」

「すぐは?」

「そんなに、すぐにお返しになる慣例ではないでしょう?」

円卓に、ふっと、沈黙が落ちた。

落ちる、と、私は、紅茶の表面で、それを見ていた。

紅茶の表面に、ガラス越しの日の光が、ひと筋、揺れた。

揺れたまま、誰も、紅茶を、口に運ばなかった。

紅茶のカップに、湯気だけが、まだ、立ちのぼっていた。

私の席のすぐ斜め前。

そこに、ヴァランシュタイン侯爵閣下の、深い緑のお召し物が、見えた。

侯爵閣下は、こちらに、目を向けていらっしゃらなかった。

向けていらっしゃらないまま、ご自分の手元の紅茶のカップを、持ち上げていらした。

持ち上げて、口に運ぼうとなさった手が、ふと、戻された。

戻されて、カップが、皿の上に、まっすぐ、置かれた。

カップが、皿に、当たった。

その音が、円卓の、すべての席に、届いた。

「逆ですな、本来は」

低く、お声が、卓に落ちた。

侯爵閣下のお声だった。

誰に向けたお声でもなかった。

ただ、言葉のあるべき場所に、言葉が、置かれた、というだけの、お声だった。

ノエルが、顔を上げた。

「……閣下?」

「ご私信は、慣例で申しますれば、お受けになった側の、お返事の都合を、いつでも、最優先にしてよいものでございます」

「ええ」

「ご公的なご挨拶のほうが、即日のご返信が、慣例とされておりますな」

「……あら」

「ですから、逆でございますな」

「……」

円卓のご令嬢の一人が、扇を、すこしだけ、開いた。

別の一人が、紅茶のカップを、ようやく、皿に置いた。

置く音が、はっきり、聞こえた。

置いたのは、夫人だった。

夫人は、私の隣で、深くは言わなかった。

言わなかったのが、いちばん、雄弁だった。

ノエルは、しばらく、円卓を、見回した。

それから、何かを言いかけて、やめて、ご自分の膝の上で、扇を握り直した。

ノエルが言いたかったのは、たぶん、こうだった。

だって、私の手紙は、お姉さまの手紙よりも、大事な内容なのだから。

私のほうが、可愛がられているのだから。

だから、返事が早いのが、当たり前。

それの、何が、おかしいのか。

そのことを、ノエルは、口にしなかった。

口にしなかったのは、ノエルが、急に、賢くなったからではなかった。

円卓の空気が、ノエルの言いたかったことを、許さなかっただけだった。

許さない、というのは、責めている、ということではない。

ただ、こういうご令嬢方の集まる場所では、そういう言い方を口にすると、その方の格が、自分で下がる。

ノエルは、頭でその仕組みをわかっているわけではなかったが、肌で、わかった。

肌でわかったから、黙った。

黙ったのが、円卓では、まだ、いちばん救いの残る答えだった。

私は、その間、なにも、しなかった。

紅茶の湯気を、見ていた。

それから、夫人の皿の上の、ごく小さな、糖菓を、ひとつ、いただいた。

甘い味が、舌のうえに、ゆっくり、広がった。

「お夫人」

「なあに、リンドレイ嬢」

「この糖菓、お夫人ご自慢のお品ですか」

「ええ。お母様にも、お土産にお包みいたしますね」

「ありがとう存じます」

それ以外の言葉を、私は、本日、口にしなかった。

口にする必要が、なかった。

侯爵閣下も、その一文以外、声を出されなかった。

ご自分の紅茶を、もう一度、持ち上げて、口に運ばれた。

運ばれて、それから、夫人のほうに、わずかに、軽く、会釈をなさった。

会釈は、夫人が、円卓の進行を、進めてくださることへの、お礼の形だった。

夫人は、それを受けて、話を、庭の薔薇のほうへ、戻された。

戻す速さが、夫人の、ご年齢らしいものだった。

年齢を経た方は、こういう、空気の戻し方が、上手でいらっしゃる。

帰りの馬車のなかで、ノエルは、しばらく、何も、話さなかった。

窓の外と、自分の膝の上を、何度か、見比べていた。

それから、ようやく、口を開いた。

「お姉さま」

「ええ」

「私、なにか、変なことを、申しました?」

「いいえ」

「アルヴィス様のことを、自慢、しただけ……」

「ええ」

「自慢、しては、いけなかったかしら」

私は、しばらく、答えなかった。

答えなかったのは、責めているからではなかった。

答えるのに、適した言葉が、まだ、頭の中に、ひとつも、なかったからだった。

「ノエル」

「はい」

「自慢は、なさってよいと思いますわ」

「……ええ」

「ただ、自分の自慢の話を、別のどなたかと比べる形でなさると、話を聞いていた方の気持ちに、傷を残すことがあるの」

「あら、私、誰の気持ちを、傷つけました?」

私は、それに、答えなかった。

答えないでも、それが答えだった。

ノエルは、しばらく、黙っていた。

黙ったまま、屋敷に着いた。

馬車を降りるとき、ノエルは、私の顔色を、もう一度、窺った。

私は、笑わなかった。

笑わなかったのは、笑顔を作るほどには、本日、まだ、心が動いていなかったからだった。

リーゼが、玄関で待っていた。

「奥様」

「ええ」

「お便りが、一通、王宮便で、届いております」

「……王宮便?」

「差出人は、王宮社交統括夫人、ライラ様」

私は、その場で、足を止めた。

止めたあと、ノエルが、私の脇を、すこしだけ気にしながら、玄関の奥へ歩いていったのを、見送った。

ノエルが、廊下のほうへ消えてから、私はリーゼと一緒に、書斎の方へ移った。

便箋は、王宮の正規便箋だった。

透かしに、王家の紋章。

封蝋は、深い、紺色。

ライラ夫人の押し方。

正規の角度。正規の深さ。

すこしの、ためらいもなかった。

『来週の王宮春の夜会、招待状を、改めてお届けいたします。お席次に、わずかなご変更がございますので、ご確認くださいませ』

それだけの、文面だった。

便箋の同封に、新しい招待状が、もう一通、入っていた。

リーゼが、それを開いた。

席次表が、お役人らしい、几帳面な書き方で、書かれていた。

リンドレイ伯爵家、ご令嬢、アデライド。

その名前のすぐ後ろに、席の番号。

その番号を、リーゼが、もう一度、確認した。

「……奥様」

「ええ」

「お席が、二段、上がっております」

「……」

「お夫人、差し戻しを、お確かめになったのでしょうか」

「差し戻しのことを、お知らせしたわけではないけれど」

「ですから、奥様」

「ええ」

「お知らせしなくても、お知りに、なる方なのだ、と」

私は、それに、返事を、しなかった。

返事を、しなくても、リーゼには、もう、わかっていた。

慣例を、慣例どおりに、行使する。

それだけのことを、私はした。

それだけのことを、夫人は、見ていた。

見て、慣例に従って、私の席を、整えてくださった。

それだけのことだった。

慣例と慣例で、こうして、人が、ひとり、引き上げられている。

私は、便箋の封蝋に、ゆっくりと、指を当てた。

深い、紺色の蝋は、もう、固く、冷たくなっていた。

明日の朝には、リンドレイ家から、ライラ夫人の屋敷に、丁寧な返事を、出さなければならなかった。

文面は、もう、私の中で、できあがっていた。

封蝋は、家紋。

便箋は、最上等のもの。

筆は、もちろん、私自身の手で。

「リーゼ」

「はい」

「夜会の、衣装を」

「お選びになるおつもりで?」

「ええ。今度は、見栄を張りに行くわ」

リーゼは、ほっと、笑った。

笑ったあと、すこし、目を細めた。

「お母様にも、お見立てをお願いいたしますか」

「ええ。お母様に、頼んで」

私は、机に向かった。

封蝋の紺色を、もう一度、見た。

来週、王宮の夜会の場で、席の番号を、改めて確認する。

番号には、本当は、意味はない。

意味はないが、その夜、その番号の席に座っているのが、私である、ということを、出席の皆様の目が、見る。

見ることが、社交界の動きを、つくる。

慣例は、暴力ではなかった。

暴力ではない作法が、こうして、ひとつずつ、私のために、整えられはじめていた。

整え方を、私は、これまで知らなかった。

知らなかったから、六年、待っていた。

待っていれば、誰かがどうにかしてくれる、と思っていた、つもりは、なかったのに。

ふと、心の隅の方で、待っていた自分が、いたのかもしれない。

それは、もう、これからは、しないつもりだった。

これからは、自分でも、作法を使う側に、いるつもりだった。

慣例を、見ていてくださる方が、いる、ということを、知ってしまった以上は。

私は、便箋を、机の引き出しに、しまった。

ヴァランシュタイン家からの、深緑の封蝋の書状の、ちょうど、隣に。

紺と、深緑。

重ねて引き出しに置くと、二つの色が、互いを、損なわないことがわかった。

引き出しを、閉めた。

閉めた音は、いつもより、ほんの少し、軽かった。