作品タイトル不明
第五話 贈答の遅れ
朝、起きたとき、枕元に、白い薔薇のつぼみが一輪、置いてあった。
茎の切り口が、まだ濡れていた。
切ったばかりだった。
お母様が、今朝、早くにお庭に降りられたのだ、と、すぐにわかった。
私は身を起こさずに、しばらく、その一輪を見ていた。
お庭に降りる、というのは、お母様にとっては、まだ少しだけ、無理なことだ。
朝の冷えが、咳の元になる。
それを承知のうえで、お母様は、私の誕生日の朝、毎年、一輪だけ、白を選んで切ってくださっていた。
切ったあと、すぐに部屋に戻って、温かい湯を飲む。
そうしないと、お父様に叱られる。
それでも、毎年、切ってくださる。
私は、薔薇の茎を、指でひとつ、まっすぐにした。
まっすぐにする必要は、本当はなかった。
ただ、そうしないと、頬の力が、抜けてしまいそうだった。
朝食の卓に降りたとき、エルディが、座って待っていた。
「姉上、お誕生日、おめでとうございます」
叙任の制服のままだった。
あれから、ほぼ毎日、あの制服を着るようになっている。
仕立て直しを、まだ、出していないらしい。
袖が、少しだけ、長い。
「ありがとう」
「これを」
差し出されたのは、小さな、紙の包みだった。
開けると、なかには、彫りの粗いお守りが入っていた。
館の同期の少年たちから、それぞれ習ったり、教わったりして、自分で彫ったものだろう。
紋様が、少しだけ、傾いている。
傾いているからこそ、エルディが自分で彫ったのだ、とわかった。
「ご当地のお守り? 何のお守りなの?」
「えっと……、たぶん、ご健勝の」
「たぶん」
「いや、ちゃんと、ご健勝のお守り、です。先輩がそうおっしゃっていました」
「ええ」
私は、お守りを、両手で受けた。
エルディは少しだけ、顔を赤くしていた。
弟がこの顔をするのは、お父様の前で叱られたとき以来、久しぶりだった。
「姉上、それで、あの」
「なあに」
「私、館で、姉上のお話を、よくしているのです」
「あら、どんな」
「姉上の、お話の、なんといいますか、ちゃんと、人のお話を聞かれるところを、です」
「……」
「同期の連中が、自分の姉上のお話をよくしますので、それで、私は、姉上のお話を、するのです」
「ええ」
「自慢、ですよ」
エルディはそう言って、ぱっと立ち上がった。
立ち上がる勢いで、椅子の脚が床を擦った。
擦った音を、エルディは、自分でも、聞いていなかった。
それから、私の頬を見ないで、館へ出ていった。
玄関のほうから、扉が閉まる音がしていた。
私は、お守りの紋様を、もう一度、指でなぞった。
傾いている紋様の、いちばん深いところを、なぞった。
朝の便で、最初に届いたのは、花だった。
リーゼが、両手で抱えるほどの花束を、玄関ホールから運んできた。
「奥様。ヴァランシュタイン家から」
「……」
「贈答ではなく、ご祝意のご表明として、と」
リーゼの言い方が、いつもより、少しだけ、慎重だった。
慎重だったのは、その文言が、礼法上の特別な形式に当てはまるからだった。
贈答ではなく、祝意の表明。
これは、贈答品と違って、返しの必要がない。
受け取る側に、家門としての義理を負わせない。
形式上は、ただの「ご健勝のお慶び」を表明する、外交上の手紙の一種。
そういう手紙の一種に、人ひとり抱えるほどの花を添えてくる方は、めったにいない。
「お花は、何のお花かしら」
「春の花を、一通りでございます」
「一通り?」
「お夫人がご注文なさったお花屋では、こういうご祝意のお花を、季節ごとに、一束にしてくださる、定例の品があるそうで」
「ええ」
「ですから、これは、お花そのものとしては、変わったものではないと」
リーゼがそう、言葉を選んでくれた。
リーゼが言葉を選んだのは、ヴァランシュタイン侯爵閣下が、私の個人の好みに合わせて特別な花を選ばれた、というのではなく、定例の祝意の品である、というふうに、私のほうの気持ちが軽くなるよう、説明してくれた、ということだった。
リーゼは、賢い。
それでいて、もう一度、よく考えると、定例の品を、ヴァランシュタイン家がこの時期に注文に出された、ということ自体が、私の誕生日を、お当主が、ご記憶でいらした、ということに、ほかならなかった。
軽くしようとして、リーゼは、結局、私に重さを戻していた。
「お手紙は」
「祝意の便箋に、一文だけ」
私はそれを、開いた。
『春のご健勝を、心よりお祝い申し上げます。お返事は不要にございます』
それだけだった。
便箋のあとの余白が、深かった。
深い余白を見て、私は、はじめて、返事を書きたい、と思った。
書きたい、と思うこと自体が、礼法をいちばん、よくわかっていらっしゃるお当主の、いちばんの目当てだった。
書かなくていい、と書けば、書きたいと思う。
そういうところを、よくご存じだった。
外交官の生家、と、社交界では聞く。
本当に、そうなのだろう、と、思った。
私は、花束を、玄関の卓ではなく、廊下の途中にある、母の好きな水盤に、リーゼと二人で活け直した。
母が、廊下を通るときに、見えるようにした。
母が、見て、自分のために置かれたものではないと、自分でもわかっている上で、それでも、嬉しい顔をなさる、と、私が知っていたからだった。
午後、もう一便、別の届け物があった。
リーゼが、銀の盆を、いつもより少し低い角度で、運んできた。
顔も、いつもより、すこし、固かった。
「奥様」
「ええ」
「お時間が、空きまして、申し訳ございません」
「リーゼ?」
「クラーケンハイト侯爵家、ご贈答品でございます」
私は、紅茶のカップを、いったん置いた。
贈答品。
今日。午後。
私の誕生日の、午後。
去年も、一昨年も、その前も、同じ時期に、同じ箱で、同じ厚みの紙で、同じ家紋の入った包みで、届いていた。
届く日付も、いつも、本当の誕生日からは、少し、ずれていた。
今年は、ずれが、いつもより、すこし長い。
「お厚紙の包みでございます」
「ええ」
「お中に、毛皮のお襟巻きと、お見受けいたします」
「冬の品ね」
「……はい」
冬の品。
春に届いている。
正確には、もうじき、お庭の薔薇が満開になるという、この、いまの時期に、毛皮の襟巻きが、家紋の包みで、届けられている。
去年の冬には、間に合わなかった。
一昨年の冬にも、間に合わなかった。
その前も。
毎年、間に合わない。
毎年、間に合わないまま、春に受け取り、夏に箱を倉に下げ、秋に出すのも忘れ、結局、次の冬、それより新しい、別の品を、自分で誂えていた。
毎年、毎年。
「ご受領のおしたためを、お書きになりますか」
リーゼは、それでも、礼法どおりに、私に尋ねた。
礼法どおりに尋ねたのは、いつもの私が、いつもどおりに、書いていたからだった。
去年の私は、書いた。
一昨年も、書いた。
書きながら、もう来年からは、もう少し早くお願いしますね、というようなことを、書くのが嫌で、その手紙だけ、つねに二、三度、書き直していた。
書き直すのは、自分が傷つかない言葉を選ぶためだった。
書かなければ、私が傷つく、と、思っていた。
本当は、傷つけているのは、向こうの家のほうだった。
「お返しして」
私は、声に、力を込めなかった。
込めなくても、その言葉は、机のあちら側まで、ちゃんと、届いた。
「お返しして、よろしいのですか」
リーゼが、念を押した。
押したのは、リーゼが、礼法に厳しいからだった。
ふだんから厳しいからこそ、奥様が今日、礼法に従って、返しをなさるおつもりかどうかを、もう一度、確かめておきたかったのだ。
「期日を過ぎた贈答は、慣例に照らせば、辞退するのが礼でしょう?」
「……はい」
「私は、慣例に従うだけ」
「かしこまりました」
リーゼは、深く一礼した。
礼の角度が、いつもより、ほんの少しだけ、深かった。
それは、リーゼが、奥仕えとして、奥様の決断を、迷わず、運ぶ、と、礼で示してくれた角度だった。
「返しの便箋を、書きましょう。事務便箋で」
「事務便箋、で?」
「ええ。先方が、事務便箋でお詫びをくださっていますから、それに、揃えるのが礼ですわ」
リーゼが、ちらっと、私の顔を見た。
私は、目だけ、笑ってみせた。
リーゼも、目だけで、笑い返した。
事務便箋。
封蝋なし。
ただし、文面は丁寧に。
内容は、贈答品の品が、季節を過ぎていること、当方では受領しがたい旨、慣例に従った差し戻しとなる旨、それから、いつも変わらぬご厚意への、お礼。
最後に、もう一文、こう書き添えた。
『ご祝意につきましては、家門ぐるみで、ありがたくお受け申し上げます。お品につきましては、慣例に従い、差し戻しを』
家門ぐるみで、と、書いた。
家門ぐるみで、というのは、リンドレイ家としては、クラーケンハイトの家門の慶事をお慶び申し上げる気持ちはある、という意味だった。
個人としては、もう、なにも受けない、ということだった。
書き分けるだけで、これだけのことが、礼法では言える。
便箋を出して、糊で止めた。
封蝋は、押さなかった。
「リーゼ」
「はい」
「ヴァランシュタイン家のほうへも、一通、お返事を」
「お祝意にお返事は不要、と、お書きでしたが」
「ええ。だから、短く」
「短く」
「『心よりのお気遣い、ありがたく頂戴いたします』だけ」
「かしこまりました」
こちらは、深い緑の封蝋を押した。
家紋の透かしの便箋を、リーゼが、自然に選んでくれた。
午後の、お茶の時刻に、お母様が、お部屋から廊下にお出ましになった。
廊下の水盤の前で、母は、少しだけ、足を止められた。
「アデライド」
「お母様」
「立派なお花ね」
「ええ」
「貴方の?」
「ええ。お祝いに、いただいて」
「どなたから」
「……ヴァランシュタイン家の、お当主から」
お母様は、それを、すぐに、深くは尋ねなかった。
深く尋ねなかったのは、お母様が、もう少しだけ、お元気だった頃に、すでに、社交界での、似たようなお話を、お聞き及びだったからかもしれなかった。
「そう」
それだけ仰った。
「お母様」
「なあに」
「今年の薔薇、ありがとう存じます」
「いいえ。あれくらいは、母として、毎年、私の役目ですから」
「……」
「ところで、アデライド」
「はい」
「クラーケンハイトのお家から、今日、お贈り物は、ございました?」
「……ええ。届きました」
「お受け取りに?」
「いいえ。慣例に照らして、差し戻しを」
お母様は、少しだけ、ご自分の手を、口元に当てられた。
当てられたのは、お笑いになるためだった。
お笑いになるのを、こらえているのではない。
お笑いになる準備をなさったのだ、と、私はわかった。
「では、お父様には、お母様から、お話しいたしますね」
「お母様、お加減は」
「今日は、よろしくしています」
「では、お願いいたします」
お母様は、お部屋に戻る前に、もう一度、花を見られた。
それから、ふっと、お笑いになった。
「春のお花を、一通り、束ねていただくと、こんなにも、にぎやかなものね」
「ええ」
「お母様の若い頃は、こういうお花は、贈っていただけなかった」
「……」
「お父様には、お分かりにはならなかったでしょうから」
お母様は、それだけ仰って、お部屋に戻られた。
リーゼが、後ろから、わたしに、低く言った。
「お母様、ご機嫌でいらっしゃいますね」
「ええ」
「お元気の元のものを、何か、お召し上がりかしら」
「ふふ。たぶん、薔薇」
夕方、お父様が、私の部屋の扉を、軽く叩かれた。
「アデライド、入っていいか」
「はい、お父様」
お父様は、立ったまま、長くは入ってこられなかった。
立ったまま、卓の上の事務便箋の写しを、ちらっと、ご覧になった。
「お前」
「はい」
「返しを、出したそうだな」
「ええ」
「クラーケンハイトに?」
「慣例に従い、差し戻しをいたしました」
「……そうか」
「お父様」
「いや、いい。それでいい」
お父様は、それだけ仰った。
それだけ仰って、扉を、ご自分で閉められた。
それでいい、と、お父様は仰った。
六年で、初めて、私の決断について、お父様が、それでいい、と仰った気がした。
気がした、というだけだ。
本当のところは、わからない。
わからないが、扉が閉まったあとの、廊下に、お父様の靴音が、いつもよりすこし、ゆっくり、遠ざかった気がした。
私は、自分の机に、もう一度向かった。
朝、エルディがくれたお守りを、机の隅から、私の指の届くところに、移した。
傾いた紋様が、こちらを向いていた。
夜。
灯火を落とす前に、リーゼが、お部屋に入ってきた。
今夜は、扉を叩く力が、いつもより、すこしだけ、強かった。
「奥様」
「ええ」
「ご報告するべきか、迷うのですが」
「迷うときは、なさるのがいいわ」
「クラーケンハイト侯爵家から、差し戻しに対する応答が、まだ、来ておりません」
「ええ」
「ただ、お屋敷の門のところで、お使者の馬車が、本日、三度、止まったとの報告が、ございました」
「三度」
「行きは、ご当家から王宮の方角へ、ご令息様。次に、ご当家から、社交統括のお屋敷の方角へ、お使者。最後に、ご当家から、はっきりわからない方角へ、もうお一方」
「……」
「奥様、社交界では、贈答の差し戻しのお話が、まこと、たいそうな騒ぎ、と」
「そう」
「『差し戻し』というのを、贈答そのものよりも、慣例に照らした正式な応答として、お受け止めの方が、ほとんどでいらっしゃるそうにございます」
「ええ。それは、そうでしょうね」
「お夫人方の何人かは、ご自分の冬の品が、春に届いていたことを、改めて、思い出されたとも」
「……あら」
「ですから、騒ぎでございます」
私は、机の上の事務便箋の写しを、もう一度、見た。
それから、隅のエルディのお守りを、見た。
それから、廊下の水盤に活けてある、ヴァランシュタイン家の春の花を、思い出した。
慣例に従っただけだった。
慣例に従う、と決めるのに、私は、六年かかった。
六年かかったあとに従ったら、社交界が、騒いでいる。
騒いでいるのは、社交界の側だった。
私は、騒いでいない。
騒いでいないのに、騒がせる側に、私は、いつのまにか、移っている。
それでいい、というお父様のお声を、もう一度、頭の中で、聞きなおした。
「リーゼ」
「はい」
「お休みなさい」
「お休みなさいませ」
灯火を落とした。
枕元の薔薇のつぼみは、夕方のうちに、少しだけ、口を開いていた。
明日には、もう、半分まで開くだろう、と思った。
開くのが楽しみだ、と、自分のなかで、声に出さずに、思った。
楽しみだ、と、誰かに告げないで思える夜は、これが、はじめてだった。