軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第四話 観月の宴

朝、机の上に置いたままにしていた招待状を、ようやく開けた。

封を切るのに、銀の文鎮の縁を使った。

ペーパーナイフを取りに行くのが、面倒だった。

面倒だ、と思ったのは、開けるのを少しだけ億劫がっていたからだった。

招待状は、グリーディ伯爵家のものだった。

社交界では、十年ほど前から定例の小茶会を開いていらっしゃる、ご年配のご夫人。

お会いしたいと書いてくださっていた。

日取りは、今週の終わり。

私の好きな曜日の、私の好きな時刻に、設定されていた。

そう書くと、おかしな話のようだが、招待状の時刻には、その人物の格と、相手への配慮が、けっこう、出る。

朝に近い時刻は、簡素な茶会。

夕方近いと、人数が増える、賑やかな茶会。

私が好む時刻、というのは、その中間、午後の少し早めの時刻。

人がそれほど多くなく、お話が落ち着いてできる、あの時間帯のことだ。

私の好む時刻を、グリーディ夫人が、なぜ、ご存じだったのか。

それは、私にはわからない。

ただ、近頃、私の好みを、思いがけない人が、思いがけない場面で覚えていてくださることが、なぜか、続いている。

リーゼに招待状を渡して、お返事を書く便箋を出してもらった。

「お受けになりますか」

「ええ」

「お衣装は」

「同じものでいいわ。藤色のほうを、もう一度」

「かしこまりました」

リーゼはふっと笑いを噛んだ。

笑ったのは、私が、見栄を張らないでいる、ということを、嬉しく思ってくれたからだ。

私は、見栄を張る理由が、最近、減ってきている。

茶会の当日、グリーディ家のお玄関は、若いお屋敷ではなかった。

敷石の継ぎ目は、もう何度も雨にさらされて、自然な濃淡になっていた。

温室は、屋敷の奥の、お庭の真ん中。

通り抜ける廊下の壁に、お父様の代より古い、油絵が二枚かかっていた。

そのうち一枚は、月を描いたものだった。

油絵の月は、絵だから動かない。

当たり前のことを、当たり前に思った。

席に着くと、私の前の卓は、ベルガモットだった。

私はそれを、声を出して喜んだりはしなかった。

喜ぶような顔をしないように、と、頬の力を少し抜いた。

ただ、お湯気を吸い込んで、香りが鼻を通った瞬間、肩のあたりが、知らないうちにすこしだけ、下りた。

それを、グリーディ夫人がじっと見ていらしたのが、目の端でわかった。

夫人は、見ていらしたことに、私が気づいたのを、見て、それから、にこやかにお話を始められた。

「春の雨は、今年は短うございましたね」

「ええ。庭の薔薇も、早くつぼみをつけて」

「リンドレイ家のお庭の薔薇は、確か、白いほうがお先でしたかしら」

「ええ。母が、白いものを好みますので」

「お母様のご加減は、いかが」

「お陰様で、近頃は、よろしくしていらっしゃいます」

「それは何より」

それから少し、お庭の話。

別のご家門の薔薇の話。

お薬草の畑の話。

集まったご令嬢方は、私を入れて四人。

そのうち、お一方は、私と同年代。

お一方は、私より少し年下、社交デビューを終えたばかりの方。

お一方は、私よりずいぶん年上、もうご結婚なさってから何年か経つご夫人。

ノエルは、招かれていなかった。

そう書くと、当然のように聞こえるが、最近、私の出る茶会では、ノエルが必ず一緒に呼ばれることが多かった。

ノエルが呼ばれていない、というのは、グリーディ夫人が、それを選んでくださった、ということだった。

選んでくださった、というのを、口に出して感謝するのは、礼法にあわない。

だから、私は、こちらも口にしなかった。

ただ、お夫人のお話を、いつもより、丁寧に伺った。

しばらくして、年下のご令嬢が、ふっと、口にされた。

「そういえば、お夫人」

「なあに、エルナ」

「ノエル様、最近、観劇のお席に、よくいらしていますわね」

「ええ、よく聞きますね」

「観月の宴も、たしか、桟敷席で。あの夜は、お加減がよろしいと伺いましたわ」

観月の宴。

私のなかで、紅茶の湯気が、急に、すこし冷たくなった気がした。

冷たくなったのは、紅茶ではなかった。

冷たくなったのは、私の指先のほうだった。

紅茶のカップは、変わらず、温かかったはずだ。

「あら、そうでしたかしら」

グリーディ夫人は、ごく自然に応じられた。

自然に応じてくださったのは、わざとだった。

わざと、たいしたことのない話のように、流された。

「私、お加減のお話、別の方からも、別の機会に伺いました気がいたしますの」

「お風邪などは、流行りますものね」

「あの冬は、流行りませんでしたわ」

エルナ嬢は、それを、誰を責めるでもなく、ただ、思い出すような口ぶりで、続けられた。

責めるでもなく、というのは、私の側から見ると、責めているのと、ほぼ同じ重さだった。

責めの言葉でないからこそ、聞いている全員の頭の中で、別々に、その夜の意味を組み立てる時間ができてしまう。

組み立てる時間が長くなるほど、聞き手はそれを、自分の発見のような気持ちで、覚えてしまう。

「ノエル様」

「ええ」

「お加減、よろしくていらしたのに、お姉様には、別のご予定があると伺ってましたわ」

「ええ……、たしか、そう、でしたかしら」

私は、紅茶のカップに、目を落とした。

落とした視線の先で、私の指は、テーブルクロスの端を、いつのまにか、ほんの少しだけ、つまんでいた。

気がついて、指の力を抜いた。

抜いてから、もう一度、紅茶を、ひと口、含んだ。

あの夜のことを、グリーディ夫人の温室の中で、もう一度、頭が思い出していた。

ただし、私が思い出していたのは、社交界で囁かれる「四通目」の年のことではなかった。

最初の観月の宴の話は、たしか、婚約してすぐの冬のことだ。

私が思い出していたのは、それより、もっと後の、別の年の、観月の宴だった。

ノエルが社交界に出るようになって、二度目か三度目の冬。

その年の観月の宴にも、私は、行かなかった。

正確には、行く予定で、馬車も呼んでいた。

着るものも整えていた。

夕方の便で、お詫び状が届いた。

何通目だったかは、もう、覚えていない。

覚えていないほど、その頃には、数が積もっていた。

『観月の宴の御約束を違えますこと、お詫び申し上げます。妹君が、お加減を崩され――』

馬車を、戻させた。

着付けを、解かせた。

着付けを解いたあと、髪のピンだけ、すぐに抜かなかった。

抜かなかったのは、明日にも次の予定がある気がして、ばかりに思っていたからだ。

その日の夜、私は、もう一通、別の招待があったのを、思い出した。

たいした会ではなかった。

ご年配の伯爵未亡人が、お屋敷の中庭で、近しい方だけで月を見るという、ささやかなお集まり。

クラーケンハイト侯爵家との宴を優先するから、お返事を保留にしていただいていた。

保留にしていただいた、というのを、ご夫人は、嫌な顔ひとつせず、お受けくださっていた。

私は、その夜、急なお詫びを書いて、ご夫人のお屋敷へ伺った。

人数も少なく、お庭も小さく、ただ、月のよく見える、上の階の小さなお席があった。

通されたお席で、お茶をいただきながら、お庭の塀越しに、向こうの家の灯りを、ぼんやり見た。

向こうの家は、王都でも有名な、大きなご家門のお屋敷だった。

その夜、そこで開かれていたのが、もう一つ別の、観月の宴。

お庭が広く、お屋敷も大きく、桟敷席が、お屋敷の二階の外壁から、いくつか張り出ていた。

桟敷席には、お料理と、お酒と、若い方々が並んでいらした。

私のいた小さなお席から、向こうの桟敷席までは、塀を二つ、隔てていた。

顔まで、はっきり見えるような距離ではなかった。

ない、はずだった。

ただ、向こうの桟敷席の灯りは、つよくて、ピンクのドレスの方が、よく目立った。

ピンクのドレスの方は、笑っていらした。

隣に、若いお方が一人。

背丈は、アルヴィス様とは違った。

髪の色も、違った。

別の家の、若い、ご子息だった。

ピンクのドレスの方は、その若い方に、何か、お話しになって、それから、自分の口元に手を当てて、はっきりと、笑った。

お加減が悪い方の笑い方では、なかった。

ノエルは、その年、もう社交界に出ていた。

出ていたから、桟敷席に若い子息と並んでいても、礼法の上では、おかしくはない。

おかしくないのに、私の胸のうちで、何かが、すとんと、落ちた。

私は、それを、見た。

見て、そのあと、目を、逸らした。

正確には、目を逸らした、というよりも、月のほうへ、視線を戻した。

戻したというより、戻すしかなかった。

戻したあと、もう一度、向こうの桟敷席を見ようかどうか、しばらく、迷った。

迷って、結局、見なかった。

見なかったことを、私は、その夜から、ずっと覚えている。

覚えていたのは、見なかったから、だ。

見ていれば、もう一度、確かめれば、私はあの日、家に帰って、別のことを言えていたのかもしれない。

たとえば、お父様に申し上げる。

たとえば、お母様に、ご相談する。

たとえば、アルヴィス様の前で、ノエルにお尋ねする。

そういうことを、できる夜だったかもしれない。

できる夜だったのに、私は、しなかった。

しなかったのは、月のほうが、見ていてつらくなかったからだ。

つらくないほうへ、自分で目を逃した。

それを、自分で覚えている。

私は、覚えている自分のことが、いまでもあまり好きではない。

好きではないが、その夜の私を、責めきれもしない。

責めきれないから、ずっと、何も言わなかった。

何も言わないでいるうちに、そのお詫びは、家の長持の中に、納まった。

納まったあとも、次が、また次が、続いた。

その続きの分まで、私が招いてしまったような気がして、私は、その続きについても、何も言わなくなった。

紅茶のカップの底が、皿に当たって、ことり、と音をたてた。

音をたてたのは、私ではなかった。

グリーディ夫人だった。

「リンドレイ嬢」

「はい、お夫人」

「お庭、もうすこし暖まりましたら、ご一緒に歩きませんか」

「ええ。ぜひ」

夫人は、エルナ嬢のお話を、それで、切られた。

切ってくださったのが、エルナ嬢に対してではなくて、私に対しての配慮だった。

気づいた私は、お夫人に、お顔を上げて、お礼の角度の浅いお辞儀をした。

浅くしたのは、ここで深くお辞儀をすると、お夫人のお気遣いが、目立つ。

目立ったら、お夫人の意図が、薄まる。

浅いお辞儀を、お夫人もちゃんと、お受けくださった。

私は、それから、自分の中の、観月の夜の話を、もう一度、机の引き出しのような場所にしまった。

しまえる、ということが、今日、わかった。

六年、しまえないでいた話を、ようやく、しまえるようになっていた。

「もう、昔のことですから」

私は、誰にともなく、そう言った。

エルナ嬢が、口を開きかけて、結局、何も言わなかった。

何も言わなかったのは、私の口調が、責めても、誇ってもいなかったからだろう。

ただ、終わったことを、終わったこと、として置いた、というだけの言い方だった。

そういう言い方には、その先を続けにくい。

続けにくいから、エルナ嬢は、温室の窓のほうを見て、別の話に移ってくださった。

お庭を歩いたとき、夫人は、私と並んで、白い薔薇の苗を見せてくださった。

「来年は、リンドレイ家のお母様にも、いくつかお分けいたしましょう」

「お母が、たいそう喜びます」

「お母様が、白を好まれるというお話を、伺っておりましたから」

「……お夫人」

「ええ」

「いつ、伺ったか、お差し支えなければ」

「ヴァランシュタイン家のお当主から、いつだったかしら、お話の中で、ふと」

夫人は、ふと、と仰った。

ふと、というのは、まことに自然な口ぶりだった。

自然な口ぶりだったが、ヴァランシュタイン家のお当主は、ふと、人のお屋敷の薔薇のお色まで、口にされるような方だっただろうか。

私は、苗の白い葉に、指先で、軽く触れた。

葉は、まだ、すこし冷たかった。

帰りの馬車のなかで、リーゼが言った。

「奥様」

「なあに」

「グリーディ夫人、お優しい方でいらっしゃいますね」

「ええ」

「お母様のお話まで、お気にかけてくださって」

「……ええ」

「不思議でございますね」

「ええ。不思議」

リーゼは、それ以上、深くは訊かなかった。

訊いてもいいところを、訊かなかったのは、リーゼがこの七年で身につけた、いちばん大事な技術だった。

その夜、お父様の書斎の前を通ったとき、執事のハーシュが、お父様と何かお話をしていらした。

扉は閉じていて、声は聞こえなかった。

ただ、声の調子だけが、いつもと違った。

お父様は、ふだん、ハーシュには深いお話をなさらない。

今夜のお話は、すこし長く、すこし、低かった。

私は、扉の前で、足を止めなかった。

止めれば、聞いてしまう。

聞いてしまえば、それは、お父様の側にとっても、よくない始まり方になる。

階段を、いつもの速さで上がった。

踊り場で、ふと、止まった。

階段の踊り場の窓から、夜空が見えた。

今夜は、月が、よく見えていた。

あの冬の夜のような、強い灯りに照らされた月ではなく、家のお庭の上に、静かに、ひとつだけ。

私は、月を、見た。

見るだけ、見た。

見ても、見なくても、変わらないものだった。

変わらないけれど、見ても、もう、目を逸らさずに済んだ。

夜が深くなってから、リーゼが、わたしの部屋の扉を、軽く叩いた。

「奥様」

「ええ」

「お休み前に、お知らせしておこうかと」

「なあに」

「クラーケンハイト家のお屋敷から、お使者の馬車が、二度、出入りしたと、門番が」

「二度?」

「ええ。一度はご当家のご令息様、もう一度は、ご令嬢様。お時間が、すこし、空いていたそうでございます」

「……」

「ご令嬢様の馬車のほうが、行きはお屋敷の方角、お帰りは、別の方角に向かわれたとのことで」

私は、すぐには、応えなかった。

応えなかったのは、ノエルの行き先のことではなかった。

ノエルの行き先のことは、もう、私の関わるところでは、なかった。

気にかかったのは、アルヴィス様のお馬車の用件のほうだった。

用件は、私には、まだ、わからない。

わからないが、明日のうちに、また一通、何かが届くだろう、ということだけ、わかった。

「ありがとう、リーゼ」

「はい」

「お休みなさい」

「お休みなさいませ」

灯火を、ひとつ落とした。

落としても、机の上の招待状の山が、闇のなかで、ぼんやり、白く浮かんで見えた。

明日からも、また、続く。

ただ、続いてくる側のものが、これまでとは、すこしずつ、変わってきている。

変わってきていることを、私はもう、見て、見ないふりをすることを、しなくなった。

それだけが、あの観月の夜の自分に、いま、少しだけ、追いついたような気がした。

私は布団に入って、目を閉じた。

閉じたまぶたの裏に、白い薔薇の苗の、まだ冷たい葉が、しばらく残っていた。