軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三話 席次の咎

化粧台に座って、リーゼがピンを留めるあいだ、私は招待状を二通、手の中で重ねたり、また少し離したりしていた。

一通は、ヴェロニカ伯爵夫人。

一通は、もうひとつ別の伯爵夫人。

こちらは、お屋敷も新しく、ご当主のお人柄もよく存じあげない方。

本来であれば、お招きいただくほどの近しい縁はない。

それなのに、今週のうちにぜひ、と書いてある。

リーゼがピンを留め終えた。

鏡の中で、私と目が合った。

リーゼは何も言わなかった。

言わなかったのは、二通の招待状が、ほぼ同じ便で届いた、ということの意味を、私と同じくらいわかっていたからだ。

社交界というのは、誰かを下ろしたいとき、また誰かを引き上げたいとき、まず招待状の数で動く。

急に近しくなりたい家から、急に招待状が増える。

急に距離を置きたい家からは、招待状の便が止まる。

私はこの六年、止まる側に立ってきた。

止まる、というのは、家の格が変わったからではない。私個人が、軽んじられていることを家ぐるみで分かっていた、ということだ。

それが、今週、いきなり逆になっている。

「奥様、伯爵夫人のほうから、お先に」

「ええ」

「日取りが、お先にございますから」

「ええ。今日、伺うわ」

「お衣装を、もうひとつ重ねますか」

「いらない。重すぎる衣装で行くのは、見栄を張りに行くようでいや」

リーゼは小さく頷いた。

私が言いたいことを、半分先に理解した顔をしていた。

「お母様には、お知らせいたしましたか」

「いいえ。今日は寝かせていて」

「かしこまりました」

馬車に乗ったとき、ノエルが先に座っていた。

「お姉さま、私もご一緒してよろしいでしょう?」

「招待は、私と妹ご一緒に、ということだったの?」

「ええ。さっき、お屋敷のほうにも別便で来たそうよ」

私はそれに、すぐには答えなかった。

伯爵夫人が、わざわざ別便で妹にも招待を出した、ということだった。

私を中心に呼んでいるはずの茶会に、家から二人を出させる。

それは、私にとっては、不利な配席をするための布石になることが多い。

妹がいれば、家の体面として、私だけを上座に据えるわけにはいかなくなる。

そういうやり方が、社交にはある。

ただ、それを今ここで言っても、伝わらない相手だった。

「ええ。一緒に参りましょう」

「うれしい」

ノエルは膝の上で軽く手を組んだ。

ピンクの絹のドレスは、私が見たことのないもの。

ということは、これも、今週、新しく仕立てたものだ。

仕立て賃が、また父の借財に積まれたのだろう。

そう思って、ふっと、自分の手元を見た。

私は昨年仕立てた、薄い藤色を着ていた。

新しくはなかったが、私の肌色に合う一着だった。

昨年、これを誂えるとき、母は二度、寸法を直してくれた。

病み上がりの細い指で、襟元を整えてくれた。

ピンクと藤色は、馬車の中で並ぶと、すこし、ちぐはぐだった。

到着した邸宅は、新築だった。

玄関の敷石の継ぎ目が、まだ白かった。

温室の扉の蝶番が、ほんの少しだけ、固かった。

押すときに、リーゼが小さく息を詰めるのが聞こえた。

そういう屋敷というのは、たまにある。

お金は十分にかけたが、職人の腕がまだ若い。

主催の伯爵夫人は、玄関で笑顔だった。

私には深い礼をしてくださった。

妹には、もう少しだけ柔らかい笑みだった。

角度の差を、私は数えなかった。

数えなくても、それくらいはわかる。

「リンドレイ嬢、ノエル様、よくいらしてくださって」

「お招きいただき、光栄に存じます」

「お席のご案内を、いま」

席は、配席表に書かれていた。

私の名前は、本来であれば、伯爵令嬢として、上座から二番目に据えられるはずだった。

そこに、私の名前はなかった。

書かれていたのは、上座から四番目。

下げられていた。

ふたつ。

私の本来の位置に書かれていた名は、ノエル。

「お姉さま、ごめんなさい。私、来賓のお席で大丈夫かしら」

「ええ。座って」

「ご令嬢のお体が弱くていらっしゃるから、と、お声がけがあったの」

伯爵夫人がそう、補ってくださった。

ご親切な口ぶりだった。

ご親切でなければ、ここまで言葉を尽くす必要はない。

言葉を尽くしている、というのは、後ろめたい、ということだ。

誰のせいで後ろめたいのかは、まだ、わからない。

配席を組むときに、後ろから手紙を入れた家が、別にあるのだろう。

それくらいの想像はついた。

私は何も言わずに、自分の席に着いた。

席につくとき、温室の遠い側の卓に、もう一人、座っていた方がいらした。

ヴァランシュタイン侯爵閣下。

深い緑のお召し物。

封蝋と同じ色だ、と、頭の隅で思った。

侯爵閣下と、私の席は、対角線の遠い側だった。

ご挨拶を交わす距離ではない。

それでも、視線が一瞬、合った。

すぐに、外れた。

外れ方が、慣れていた。

茶会が始まる前、伯爵夫人がご挨拶のお言葉を述べられた。

新しい邸宅、新しい温室、まだ整わない庭。

そういったお話のあいだに、私は卓上を見ていた。

私の前に置かれた茶葉の小さな札。

赤茶色の文字で、「ラプサン スーチョン」。

舌に煙が刺さるあの茶葉。

私の前にだけ、それが置かれていた。

ほかの方の前は、すべて、もう少しおだやかな茶葉だった。

ノエルの前は、ベルガモットだ、と、香りで分かった。

これも、誰の手配だったのか、はっきりわかった。

伯爵夫人が独断で決めるはずがない。

リンドレイ家から、事前に伝えられたのだ。

ご令嬢様はどんな茶葉も大丈夫だから、お気遣いなく、と。

家から伝えたのは、ノエル付きの侍女。

あるいは、それを、ノエル自身が頼んだ。

頼んだとしても、頼んだ自覚はない。

そういう種類の頼みごとだ。

茶葉の話のあと、伯爵夫人が、自分の挨拶を切り上げて、ふと言葉を継いだ。

「お席のご都合で、本日は少し、配席を整えさせていただきました。皆様、お楽しみくださいませ」

整えた、と仰った。

整えた、と仰ったのは、整えたことを誰かに咎められると、思っていらしたからだ。

咎められると思っていなかったら、わざわざ言葉にしなくていい。

温室の遠い側で、紅茶のカップが、ひとつ置かれる音がした。

「珍しい配席ですな、伯爵夫人」

侯爵閣下のお声だった。

低く、急かない声。

責めている調子はなかった。

ただ、お話の流れの中で、自然に出てきた音のような声だった。

「ええ、妹のほうが体が弱うございますので」

伯爵夫人は、にこやかに答えられた。

答えながら、目だけが、少しだけ動いた。

そばに控えていた執事のほうへ。

助けを求めるような動き。

そして、その執事も、目を伏せた。

「左様ですか」

侯爵閣下は、それだけ仰った。

それから、紅茶のカップを取り上げて、一口、含まれた。

ご質問はそれだけだった。

ご質問が、それで終わったから、伯爵夫人は、それ以上、説明する機会を失った。

説明する機会を失った、ということは、説明をしたかったが、できなかった、ということだ。

できなかった理由を、ここの誰もが、口に出さずに、知っていた。

茶会の前半は、ありふれた話で進んだ。

庭の薔薇。今年の春の天気。新しい温室のガラスの厚み。

ノエルは、ご機嫌だった。

来賓の席は、ご令嬢にとっては気分の良い席だ。

注目される。ほめられる。お菓子を勧められる。

ノエルがふと、私のほうを振り返って言った。

「お姉さま、その紅茶」

「ええ」

「お嫌いだったでしょう?」

「……」

「私のために、選んでくださったのね」

ノエルは、本当に嬉しそうな顔をした。

頬が、ほんの少しだけ赤くなっていた。

私のために、と、妹は言った。

そう言うとき、妹の頭の中では、私が私の苦手な茶葉を引き受けて、妹のためにこの茶葉を譲った、というふうに、なっているのだろう。

それが、家でずっと続いてきた説明の仕方だった。

お姉さまは何でも大丈夫だから、ノエルの分まで、引き受けてくださっている。

そう言われ続けてきたから、ノエルは本気でそう信じている。

私はそれに、口元だけ動かして、笑った。

笑ったのは、肯定したからではない。

肯定する以外の表情を、ここで作りようがなかったからだ。

伯爵夫人が、すこし困ったように紅茶を見た。

別の卓のご夫人方が、扇を畳んだまま、目線を上げた。

「ご令嬢は」

侯爵閣下のお声が、また、低く、卓に落ちた。

「確かべルガモットを、好まれるはずでしたな」

ご令嬢、と、いま、おっしゃった。

それは、ノエルのことではなかった。

少し前まで、温室全体が「ご令嬢」をノエルと取り扱う流れにあった。

来賓の席にいて、ピンクの絹を着て、苦手な茶葉ではないほうの茶葉を、優雅にいただいている、ご令嬢。

それを途中で、侯爵閣下が、引き戻された。

ご令嬢、と、私のほうを向かれた。

正確には、私のほうを向いてはおられない。

ただ、紅茶を見ながら仰ったお声が、私の卓の方向に、わずかに開いていた。

ベルガモットを好まれるはずでしたな。

そう、覚えていてくださった、ということだ。

いつのことを、ということまでは、お名前を出されなかった。

お名前を出されないことが、礼法上、もっとも丁寧なやり方だった。

私はそれが、いつのことなのか、自分で思い出さなくてはならない。

思い出した。

三年前。ささやかな茶会。

ご年配の伯爵未亡人がお開きになった会で、私はベルガモットの香りを、お湯気越しに、少しだけ褒めた。

そばにいらしたどなたかが、その短い言葉を、聞いていたかどうか、私自身、覚えていなかった。

覚えていなかったのは、私だ。

覚えていらしたのは、別の方だった。

私は、紅茶のカップに、指を添えた。

ラプサンの煙の香りが、もう一度、強く立ちのぼった。

「お気遣い、痛み入ります」

私はそれだけ、口にした。

誰に、ということを、わざと曖昧にした。

ノエルにも、伯爵夫人にも、そして、温室の遠い側にも。

ノエルが、紅茶のカップを、卓に置く音が、聞こえた。

そのカップを置く音だけが、いつもより硬かった。

ノエルは、自分が何か、わからないところでつまずいた、というのを、初めて、その音で示した。

ただ、何につまずいたかは、まだ気づいていない顔だった。

茶会の後半、アルヴィス様が、ノエルにいくつか話しかけた。

向こうのテーブルだったので、内容は聞こえなかった。

ただ、頻度が、いつもより少なかった。

いつも妹の頬に向ける、あの柔らかい微笑も、今日は少しだけ、奥に引かれているように見えた。

見えた、というのは、私の側の偏りかもしれない。

私はそういうところに目がいくようになっている。

いってしまうのは、もう、しょうがない。

ノエルが、何度かこちらを向いた。

私と、目を合わせて、すぐ逸らした。

逸らすとき、ピンクの絹の袖が、揺れた。

茶会は、ほどなく、お開きになった。

玄関で、ご挨拶の列ができた。

順番にお礼を申し上げて、退出する。

私の前に、何家かが並んでいた。

そのうしろに、侯爵閣下が、おひとりで立っていらした。

順番が、来た。

伯爵夫人にお礼を述べる。

にこやかに、何度も、礼を返してくださった。

礼を返してくださる回数が、入ってきたときよりも、多かった。

それは、伯爵夫人が、ご自身でも、もうこの配席が間違いだったとお気づきだった、ということだろう。

廊下を歩く。

ノエルは、私より少し先を行っていた。

アルヴィス様は、ノエルの隣にいらした。

ふたりの足音は揃っていなかった。

玄関ホールの扉の前で、私はリーゼと合流した。

ストールをかけてもらう。

リーゼが、私の頬を、一瞬、見た。

何か言いたげな顔だった。

言わずに、ストールを整えた。

そのとき、私のすぐ後ろで、別の靴音が止まった。

「リンドレイ嬢」

私は、振り返った。

侯爵閣下が、扉の前で、私に道を譲るように、少しだけ脇に下がっていらした。

私は、礼をした。

「侯爵閣下」

「お加減を、お大事に」

低い、それだけのお声だった。

私は、その言葉を、頭の中で、ゆっくり繰り返した。

お加減。

体調が悪いはずだったのは、今日、ノエルだった。

本日のすべての配席の、いちばん上の根拠が、ノエルの体調だった。

だから、来賓の席はノエル。

だから、ベルガモットはノエル。

そのお加減を、心配する一言があるとしたら、いま、それは、ノエルに向けられるべきはずだった。

侯爵閣下の、低い、急かないお声は、ノエルの背中ではなく、私の頬のほうに、向かっていた。

「……ありがとう存じます」

私は、それだけ、お返しした。

「失礼いたします」

「ええ」

侯爵閣下は、また少し、脇に下がってくださった。

私が先に通る、というのを、譲ってくださった。

礼法上は、私のような立場の女が、侯爵に道を譲られる、というのは、本当はない。

ない、というのを、ご自身でも知っていらした。

知ったうえで、譲ってくださった。

馬車に乗り込むとき、ノエルが、もう先に座っていた。

「お姉さま、変な茶会だったわね」

「そう?」

「ヴァランシュタイン侯爵様、ずっとお黙りでいらして」

「お黙りで、いらしたかしら」

「ずっと、お黙りでいらしたわ。あんなにお黙りな方が来てくださると、場が締まりすぎるって、お父様もおっしゃっていたわよ」

私は、それに、何も応えなかった。

応えるべきことが、ノエルには伝わらないからだ。

侯爵閣下は、本日、三度、お言葉を口にされた。

珍しい配席ですな。

ご令嬢は、確かベルガモットを好まれるはずでしたな。

お加減を、お大事に。

三度しか、口にされなかった、と書くと、足りないように聞こえるかもしれない。

ノエルにとっては、足りなかったのだろう。

ノエルにとって、社交の場で、男の方がお黙りで座っているというのは、座が締まる、ということだった。

そういう感じ方をする人は、たしかに、いる。

私にとっては、三度で、十分すぎた。

馬車のなかで、私は、膝の上で手を組んだ。

組んだ手の指先が、わずかに冷たかった。

ストールを巻きなおすふりをして、その冷たさを、自分の腕でくるんだ。

ノエルは、窓の外を見ていた。

横顔は、いつもより、すこし固かった。

「お姉さま」

「なあに?」

「アルヴィス様、今日、いつもと違っていたわ」

「……そう」

「お姉さま、何か、なさったの?」

「いいえ。何もしていないわ」

「ほんとう?」

「ほんとうよ」

何もしていない、というのは、嘘ではなかった。

私は、今日、何も言わなかった。

席を下げられて、何も言わなかった。

苦手な茶葉を出されて、何も言わなかった。

妹に「私のために選んでくださった」と言われて、何も言わなかった。

笑っただけだ。

何もしていない、私の代わりに、別の方が、お言葉を三度、口にされた。

それを、何もしていない、と言うべきかどうかは、わからない。

わからないので、ノエルにも、説明できない。

説明できないことを、ノエルがこれから一人で気づくかどうかも、私には、わからない。

屋敷に戻ったとき、玄関でリーゼが小さく言った。

「奥様」

「なあに」

「お母様、今日はずっと、お加減がよろしいご様子で」

「そう」

「お夕食は、お部屋で召し上がるとのことです」

「ええ。私も、今夜は部屋で」

「かしこまりました」

階段を上がるとき、私は、上がりきる前の踊り場で、一度だけ立ち止まった。

窓の外、夕暮れの空に、低く、小さな雲がいくつか流れていた。

侯爵閣下のお声が、まだ、耳のうしろに残っていた。

お加減を、お大事に。

そのお声が、誰のために発せられたのか、私はもう、自分で勘違いしようがなかった。

勘違いできるほどには、私は鈍くないし、勘違いしてもいい立場でもなかった。

ただ、今夜は、それを誰にも言いたくなかった。

言わずに、自分の中だけで、もう少しだけ、温めておきたかった。

私は階段を上りきって、自室の扉を閉めた。

扉の閉まる音が、いつもより、わずかに、軽かった。

その夜、グリーディ伯爵家から、招待状が届いた。

差出人は、社交界では十年来、定例の小茶会を開いてこられた、ご年配のご夫人。

日取りは、今週の終わり。

私はそれを、机の上に、まだ封を切らずに置いた。

封を切るのを、明日に回す、というのは、私のここ六年、ずっとなかったことだった。

六年のあいだ、私は、招待状をいただいたら、その日のうちにご返事を書く側だった。

明日に回す。

そういう余裕が、私の側に、少しだけ、戻りはじめていた。