軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二話 便箋の格

夜のうちに、雨が降っていたらしい。

朝、窓を開けたとき、薔薇の蔓に水滴がいくつも残っていた。

昨日、庭師が打ち直していた針金が、雨を吸って、少し色を変えていた。

晴れた、と思ったが、空はまだ、灰色が抜けきっていない。

階下で、母の咳が一度した。

短かった。

ここのところ、母の咳は短い。

薬が、効いている。

私はそれを聞いて、ほっとしたあと、ほっとした自分に少しだけ嫌気がさした。

咳が短いことに、毎朝、いちいち耳をすませてきた七年だった。

そういう癖は、簡単には抜けない。

着替えをして、廊下に出ると、リーゼが盆を持って立っていた。

「奥様。お朝食、こちらにお運びしましょうか」

「ええ」

「それと、お部屋にお運びする前に、もうひとつ……」

リーゼは、盆の脇に、もうひとつ別のものを支えていた。

布で覆われた、四角い、平たい箱。

それが何かは、私にはすぐにわかった。

「奥様の代わりに、私が数えてまいりました」

リーゼはそれだけ言った。

六年分、と言わなかった。

言わなかったのは、こちらの胸を慮ってだ。

「ええ。ありがとう」

「お運びいたします」

「いいえ。私が持つわ」

リーゼは少しだけ目を伏せた。

奥様にお持たせするものではない、という顔。

それでも、私の手が先に箱の縁にかかっていたから、そのまま渡してくれた。

軽い、と思った。

六年分の言い訳が、これだけの軽さに収まる。

部屋に戻って、机の上に置く。

朝食はいつもの場所、窓辺の小卓。

箱は、執務机のほう。

私はパンの皿を端に押しやって、まず箱の蓋を開けた。

中は、上から順に、年代逆順に重ねられていた。

一番上が、二十四通目。

昨日の事務便箋。

糊付けされた口は、まだ、剥がしていない。

私はそれを、机の左端に置いた。

その下から、二十三通目、二十二通目、と順に取り出していった。

取り出すごとに、紙の厚みが、わずかずつ変わる。

事務便箋、事務便箋、事務便箋。

そのうしろから、家紋なしの並便箋。

さらに古いものになると、家紋の透かしが入った、正規の便箋。

一番下、六年前のものを、机の右端に置いた。

一通目。

封蝋が、まだ綺麗な深紅で、丸く乗っている。

家紋が、はっきり押されている。

便箋を出すと、長い文面が、三枚に渡って書かれていた。

筆跡は、アルヴィス様、ご自身のもの。

『観劇の御約束を違えましたこと、心よりお詫び申し上げます。妹君に急なお熱があり、放っておくこともできず、また私の判断が遅れたことが第一の咎にございます。改めてお詫びの機会を頂きとう存じます。次の観劇には、必ずや埋め合わせを――』

私はそこまで読んで、紙を元に戻した。

最後まで読まなくてもよかった。

あのとき、私はこれを、信じたのだから。

信じたあとに、観劇には行かなかった。

ノエルの熱は、二日で下がった。

アルヴィス様は、その月のうちにノエルを伴って、別の劇場へ行かれた。

別の、というのは、私と行くはずだった劇場とは、別の、という意味だ。

それから、私は劇場に縁がなくなった。

机の右端と左端を、目で行き来する。

右端、深紅の封蝋、正規の便箋、長い文面、直筆。

左端、糊付け、事務便箋、便箋の上半分にだけ書かれた、短い言葉。

「六年で、紙までこんなに変わるのね」

声に出した。

出してから、聞いていたのが自分だけだったことに気づいた。

リーゼは盆を置いて、いつのまにか下がっていた。

私は左端の封筒を、改めて手に取った。

糊を剥がす。

剥がす感触に、紙の張りがない。

中身は、本当に、一枚だった。

『次は、埋め合わせを』

それだけだった。

便箋の下半分が、白く空いていた。

署名はあるが、アルヴィス様の筆ではなかった。

事務方の、几帳面な、教科書のような字。

これを書いた者は、内容を考えていない。

ただ、口述された文言を写しただけだ。

口述したのが、アルヴィス様ご本人かどうかも、わからない。

たぶん、ご本人ではない。

ご本人が書いていたら、こうはならない。

こうはならないことを、ご本人は、もう面倒だと思っていらっしゃる。

それだけのことだった。

私は便箋を、また元のように畳んだ。

紙の折り目が、すぐに戻った。

新しい紙ほど、折り目は鋭くつく。

古い、最初の頃の便箋は、何度か開かれた跡があって、折り目がもう曖昧になっていた。

何度か開いたのは、私だ。

リーゼが、戻ってきた。

「お茶を、お淹れいたしますか」

「ええ」

茶葉の缶を開ける手が、リーゼの場合、いつもすこし急く。

何かを言いそびれているとき、この人はそうする。

私は何も訊かずに、待った。

湯気が立ったあと、リーゼは小さな声で言った。

「奥様。エルディ様の叙任、お済みになりましたわね」

「ええ」

「お屋敷も、これで……」

そこで言いやめた。

言いやめたのが、正しかった。

「ええ」

私は応えた。

リーゼがそのあとに言いたかった言葉を、私も口に出さないほうがよかった。

お屋敷の財政は、これで一段落だ、というようなことを、奥仕えの人間が口にしてはいけない。

言わなかったのは、リーゼが訓練されているからだ。

そして、訓練されていながらも、半分は言ってしまったのは、リーゼがこの六年を、私と同じ家で、同じだけ見てきたからだ。

「お母様の咳、今朝は短うございましたね」

「ええ」

「薬師様の調合が、合っていらっしゃるご様子で」

「ええ」

「エルディ様も、ご立派になられて」

「ええ」

「奥様」

「ええ」

「奥様、もう……」

リーゼは、それも言いやめた。

そして、今度はもう、続きを言わなかった。

私は茶碗を取り上げた。

湯気の向こうで、机の上の二通の便箋を、もう一度見た。

私が嫁ぐまでの辛抱だ、と、自分にずっと言ってきた。

母の薬代も、エルディの学費も、父が静かに増やしてきた借財も、私が嫁げば、いったんは落ち着くはずだった。

クラーケンハイト侯爵家の名のもとに、リンドレイの娘が入る。

それだけで、つけが効いた商人たちは、もう少し待ってくれるはずだった。

だから、待った。

私が待つのではない。

家のために、私が、待たれる側でいるのだ、と、そう信じてきた。

エルディが叙任を受けた。

それは、家督の見通しがついた、ということだ。

私が嫁がなくても、リンドレイの名は、しばらくは持つ。

つまり、私はようやく、「もう、結構です」と、言える朝になった。

そう、頭の中で言葉にして、自分で少しだけ笑ってしまった。

笑うことではないのに。

笑ったのは、もっと早くこうすればよかった、という気持ちを、笑いのほうに逃がしたかったからだ。

そうでないと、リーゼの前で、別のものが出てしまいそうだった。

涙、ではなかった。

泣いていない。

泣いてはいないけれど、何かが出そうにはなっていた。

名前のつかない、息のようなもの。

「奥様」

リーゼが、茶碗にもう一度、湯を足してくれた。

「ええ」

「お庭の薔薇、今年は早く咲きそうにございます」

「そう」

「奥様の好きな、白いほうから」

「ええ」

私は窓の外を見た。

庭師は、もう昨日の場所にはいなかった。

針金の上で、雨の名残が、ゆっくり乾いていた。

午後、もう一度、執務机に向かったとき、来客があった。

正確には、来客ではなかった。

取次は門で済まされたらしい。

リーゼが、銀の盆に、一通の書状を載せて入ってきた。

「奥様」

「どちらから?」

「ヴァランシュタイン侯爵様より」

私は、すぐには手を伸ばさなかった。

伸ばさなかったのは、昨日の夜のことを、思い出していたからだ。

門のところで、馬車がひとつ、停まっていった、と、リーゼが言った。

取次は求めず、すぐに帰った、と。

あれが、昨日のうちの、ほんの前置きだった、ということだ。

「お受け取りに?」

「ええ」

私は、ようやく手を伸ばした。

紙が、重かった。

昨日のものとは、まるで違う重み。

便箋の格が、指のつけ根ですぐにわかる。

封蝋は、深い緑だった。

中央にヴァランシュタイン家の紋。

押し方が、まっすぐで、深い。

代筆ではない押し方だ、と、これも指でわかる。

封を切ると、便箋は、一枚。

ただし、便箋そのものは、上等な、家紋透かしのもの。

余白が広い。

書かれているのは、ひとことだけ。

『春の茶会、ご健勝でなによりでした』

筆跡は、知らなかった。

言葉を交わしたことはほとんどないから、お筆を見るのも、おそらく今日が初めてだ。

ただ、誠実な人の字だ、というのは、見ればわかる字だった。

ご健勝で、なによりでした。

私は、書状を膝の上に置いた。

それから、しばらく、もう一度読みなおした。

ご健勝で、なによりでした、と、書いてあった。

昨日の茶会で、私が席を二段下げられたことを、あの方は、見ていた。

事務便箋の使者が、封蝋のない封筒を私の前に置いたことも、見ていた。

私が、それを伏せて卓に揃えたことも、見ていた。

それを見たうえで、ご健勝で、なによりでした、と書く。

それは、何かを言ってくる、ということではない。

何かを言ってこない、ということを、わざわざ言ってきている、ということだった。

私は、よくわからない感情で、書状の縁を、指でなぞった。

ご健勝で、なによりでした、というのは、礼法上、もっとも踏み込まない言い方だ。

何も、求めていない。

何も、勧めていない。

ただ、無事を、確認している。

無事を確認するためには、無事でないかもしれない、と、思っていたということだ。

思っていたということは、見ていたということだ。

見られていなかった、と、ずっと思っていた。

そう思って、六年いた。

「リーゼ」

「はい」

「お返しの便箋を、出してくれる?」

「奥様の、一番、よろしい便箋でよろしゅうございますか」

「ええ。家紋の透かしの入ったもの。深い色の封蝋も」

「かしこまりました」

リーゼが下がってから、私はもう一度、机の右端と左端を見た。

右端、深紅の封蝋の一通目。

左端、糊付けの二十四通目。

その間に、ヴァランシュタイン侯爵家の、深緑の封蝋を、置いてみた。

並べると、深紅と、深緑は、似ても似つかなかった。

ただ、紙の格が、揃っていた。

誠意の重さの、紙の側の表れが、同じだった。

一通目を最後まで開いたあの夜と、いま、私の中で、何かの順番が静かに入れ替わっていた。

便箋を、リーゼが運んでくる音が、廊下のほうから聞こえてきた。

私は、ヴァランシュタイン家の書状を、まだ机の上に置いたままにしていた。

封筒に戻すには、もう少し、見ていたかった。

「リーゼ」

「はい」

「私はね、ずいぶん長いこと、見られていなかったと、思っていたわ」

「……奥様」

「……一人だけ、いてくださったのね」

リーゼは、便箋を机に置く手を、止めなかった。

止めずに、ただ、置き終えてから、深く一礼した。

「左様に、存じ上げます」

その一礼の角度が、昨日の使者よりも、はるかに、深かった。

夕方、もう一通、別の家から書状が届いた。

差出人は、社交界では知らぬ者のないヴェロニカ伯爵夫人。

日を改めて、お茶を一緒にいかがか、というお誘いだった。

ただし、ただのお誘いではなかった。

便箋の隅に、ごく小さく、走り書きのように、こう添えられていた。

『内々の、お話を少々』

私はその一行を、しばらく見ていた。

何の話か、書かれていなかった。

書かれていないが、書く人の格を考えれば、見当はついた。

つかなかったのは、それが、私にとって有利な話なのか、そうでないのか、ということだった。

ヴェロニカ夫人がどちらの側に立つ方なのか、私はまだ知らないでいる。

机の左端の、糊付けの便箋を、私はもう一度、指で押さえた。

紙は冷たく、軽かった。

明日からは、また別の部屋で、別のお茶が淹れられる。

そこで、誰の前にどの茶葉が置かれているのかを、私はちゃんと見なければならない。

その夜、母の咳は、もう、聞こえなかった。