作品タイトル不明
第一話 二十四通目
朝、玄関の三和土が冷えている。
弟の襟が、わずかに曲がっている。
直してやろうとして、手を止めた。
直すなら、もうあの子は自分で直せる。
今日からは。
「行ってまいります、姉上」
エルディの声は、半年前よりほんの少しだけ低い。
背丈も、私の肩の上を越えそうだった。
叙任の制服は、まだ袖が長い。仕立てのまま受け取った日のままだ。仕立て直す時間がなかった。
「ええ、行ってらっしゃい」
それだけ言って、扉が閉まる前に背を向ける。
振り返って手を振る癖は、エルディがもっと小さい頃のものだ。
今日からは、そういうことを、私のほうがやめなければならない。
廊下の途中で、リーゼが控えていた。
「奥様。お支度を」
「ええ」
奥様。
婚約者があるだけの伯爵令嬢に、リーゼはずっとそう呼んでくる。直すよう言って、直らなかった。
七年いれば、もう癖になってしまったのだろう。
私もいつしか、訂正をやめた。
支度の間、私は計算をしていた。
招待状の宛名。配席表。
公爵夫人が手ずから送ってこられた、春の茶会。
本来であれば、私の席は中央寄りに用意されているはずだ。
リンドレイ伯爵家の長女、クラーケンハイト侯爵家のご令息と婚約しているのだから、それが慣例だ。
慣例だ、と思いながら、化粧を直す手が遅くなる。
慣例どおりにいく日のほうが、この六年、ずっと少なかった。
「お手袋を」
「ええ」
リーゼが差し出した手袋は、縫い目がほつれかけている。
新しい手袋を一組、もう昨年から仕立てに出してある。
出してあるが、まだ取りに行っていない。
取りに行く日のためのドレスが、決まらないからだ。
「行きましょう」
馬車の片輪が、敷石の継ぎ目で軽く鳴いた。
公爵夫人の屋敷の前庭は、もう人が多かった。
私が降りる前から、二、三人の令嬢が顔を寄せて何かを話していた。
私を見て、扇の影に口元を隠す。
そのまま視線が消える。
これも、慣れた。
「アデライド様」
主催者付きの侍女が、芝居の案内係のような手つきで、温室への扉を示した。
配席表は、入口の卓上に伏せて置かれている。
私はそれを覗き見るふりをしない。
覗き見しなくても、自分の席はわかるはずだった。
中央寄りの、左から二番目。
行く。
席に、人がいた。
ノエルだった。
「お姉さま」
妹は、私の席に座っていた。
そうしてもう、立ち上がる気がないらしい。
裾を、丁寧に整えている。
「ごめんなさい、今日、ちょっと頭が重くて。お姉さまのそばだと安心するから、入れ替えていただいたの」
入れ替えた、と妹は言った。
誰が、誰にことわって。
主催者の公爵夫人は、温室の奥で別の夫人と話している。
こちらを見ない。
見ない、というのは、見ないようにしている、ということだ。
私が立っているあいだ、誰も口を開かなかった。
扇だけが、いくつか、軽く動いた。
「……かまいません」
私は、もう一段下の席に着いた。
ノエルが私の本来の席で、軽く笑った。
責めるような顔をされたのが面倒だったのだろう。
私は、責めていない。
責めるのを、もう、ずいぶん前にやめている。
茶葉は、ラプサンだった。
濃く燻した、煙の香りの強い茶葉。
私の前にだけ、それが置かれている。
ほかの卓には、ベルガモットの香りが流れていた。
向こうのテーブルの女性たちが、軽く笑い合っている。
私が、これを飲めない、わけではない。
飲めないわけではないから、家の者は、いつもこれを置く。
妹のための、おとなしい茶葉を、姉に回すわけにはいかないから。
姉は、何でも飲める、ということになっている。
ラプサンを一口、口に入れる。
舌の奥に、煙が刺さる。
そういえば、と思う。
今朝、エルディの制服から、新しい布の匂いがした。
あの匂いだけは、慣れた匂いではなかった。
あの子のものに、私の知らない匂いがついた。
それは、いいことのはずだった。
二口目を飲もうとしたとき、温室の入り口で、靴音が止まった。
侍従の装いをした男だった。
クラーケンハイト侯爵家、と紋章でわかる。
ただし、上等な紋章付きの礼装ではない。
事務方の使者の制服だった。
その手に、白い封筒が一通。
封蝋が、ない。
ない、というのは、本当にない、ということだ。
代わりに、糊で簡単に止められている。
私の正面まで歩いてきて、深く一礼する。
礼の角度が、正確に三十度。
教えられて、ぎりぎり間違えないように覚えた角度だった。
「アルヴィス様より、お詫びを申し上げるよう、承りました」
ノエルが、ふっと顔を上げた。
何か言いたげな目をした。
言わなかった。
温室の卓に、扇を畳む音がいくつか重なる。
紅茶を口に含んでいた老婦人が、カップを置く。
カップの底が皿に触れる音だけが、やけに大きく響いた。
私は手袋越しに、その封筒を受け取った。
軽い。
ずっと最初の頃に届いていた封筒は、もっと重かった。
家紋の透かしの入った便箋を、何枚も重ねていたから。
今、私の手の中にあるのは、事務便箋が一枚きり。
封蝋の重みが、ない。
それだけで、紙の格は、ここまで軽くなる。
私はそれを、開けなかった。
伏せて、卓の上に置いた。
カップの隣に、まっすぐ揃えて。
「そのお詫び、二十四通目ですので結構です」
口にしてから、自分の声が普段より低いことに気がついた。
震えてはいなかった。
震えるほどには、もう、思っていなかった。
温室が、静かになった。
「お姉さま」
ノエルだった。
眉を、ほんの少しだけ寄せている。
泣くのを、こらえるような顔。
私はその顔を、よく知っている。
「お姉さま、そんな言い方……アルヴィス様はちゃんと謝ってくださっているのよ?」
ちゃんと、と妹は言った。
私はそれに、答えなかった。
答えるべき言葉が、なかったからではない。
答える資格が、私の前で泣きそうな顔をする妹にあるかどうか、わからなかったからだ。
紅茶を、もう一口、飲んだ。
煙の味が、今度ははっきりとわかった。
そのとき、温室の奥で、誰かが薄く笑った気配があった。
笑った、と書くと、事実より少し強い。
ほんの、口の端が動いた程度のこと。
そして、それはすぐに消えた。
向ける角度を、間違えていなかったのだろう。
私のほうを見ていなかったから、私からも見えるはずがなかった。
それでも、見えた。
ヴァランシュタイン侯爵閣下。
亡くなった先代閣下のあと、三年前に当主になられた方だ。
社交界で、何度かお見かけしたことがある。
言葉を交わした記憶は、ない。
ただ、いま、私が温室の中央から外されていたとき、あの方の席は動いていなかった。
それは、私だけが気がついたことだろうと思う。
私はカップを置いて、扇を取り上げた。
茶会は、それから少し早めに切り上げられた。
公爵夫人が、私のところまでは来なかった。
来なくてよい、と私が思ったことを、あの方も察してくださっていたのだと思う。
それは好意だった。
ただし、ここではっきり好意を示すと、別の家門の機嫌を損ねる。
だから、来ない。
そういう種類の好意も、ある。
帰りの馬車の中で、ノエルは何度か私の顔色を窺った。
「お姉さま、怒っていらっしゃるの?」
「いいえ」
「だって、私……」
「いいえ、ノエル」
それしか答えなかった。
怒っていた、わけではない。
怒っていない、わけでもなかった。
ただ、ノエルにそれを話して伝わるとは思えなかった。
妹はしばらくして、窓の外を見はじめた。
私の机の前で見るのと、馬車の窓の外で見るので、横顔の影の落ち方が違う。
そんなことを思うのは、私の悪い癖だ。
本筋と関係ないところに、目が逸れる。
我慢が長いと、こういうところに、頭が逃げる。
屋敷に戻ったとき、玄関でリーゼが待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ええ」
「お預かりしてもよろしいですか」
リーゼは、私の手元を見ていた。
封筒を、私はずっと右手に握っていたのだった。
気がつかなかった。
卓上に置いてきたつもりで、いつのまにか持ち帰っていた。
正確には、卓上に置いてきて、屋敷の者が見栄を保つために、誰かが、馬車の座席にそっと戻したのだろう。
ノエル付きの侍女のしごとだ。
「ええ。納めて」
「かしこまりました」
リーゼは深く頷いて、奥へ下がった。
六年分のお詫びが収まっている木箱の蓋が、軽い音を立てて閉まる音が、廊下の向こうから聞こえた。
二十四通目。
そう、心の中で数える。
数えなくても、もう、覚えている。
私は自分の部屋に戻った。
ドレスのまま、長椅子に腰を下ろした。
着替えなければならなかったが、しばらくは、立ちたくなかった。
エルディは、今ごろ叙任の宣誓を終えて、館で同期の少年たちと食事をしている時間だ。
新しい仲間ができる。
私の知らない名前が、これから、あの子の口から少しずつ出てくるようになる。
それは、私が嫁いだあとに起きるはずの、未来のはずだった。
私は嫁いだあとから、それを、たまの帰省で少しずつ聞かせてもらうはずだった。
いま、私はまだ嫁いでいない。
そして、たぶん、嫁がない。
椅子の背に、頭をそっと預ける。
窓の外で、薔薇の蔓を留める針金を、庭師が打ち直している音がしていた。
夜、灯火を落とす前に、リーゼが入ってきた。
「奥様」
「ええ」
「いえ、お知らせするほどのことでも、ないかとは思うのですが」
リーゼは口ごもった。
七年いる人がこの口ごもり方をするとき、本人はもう半分言うつもりでいる。
「お屋敷の門のところで、お客様用の馬車が、ひとつ、停まっていったそうにございます」
「停まっていった?」
「ええ。取次は求めず、すぐにお帰りになったと」
「どこの」
「それが……」
リーゼは少しだけ、視線を下げた。
「ヴァランシュタインのご紋章、だったそうにございます」
私はそれに、すぐには答えなかった。
部屋の灯火が、ひとつ、揺れた。
「……そう」
「いかが、いたしましょうか」
「いいえ。何も」
リーゼは頷いて、退がった。
灯火の油が、ぱちりと小さく爆ぜた。
それから、長いこと、何の音もしなかった。
私はその静けさの中で、ようやく今日いちにち、ずっと自分が止めていた息を、ゆっくりと吐いた。
明日からの、社交界。
そこで、何かが、もう動き始めているのだろう。
その動きの先頭に、何があるかは、まだ私にも見えていない。
ただ、扉の閉まったお詫びの木箱の中で、二十四通目だけが、ほかの古い封筒に混ざりきれずに、いまだに少しだけ、新しい紙の匂いを残しているのが、なぜか分かる気がした。