作品タイトル不明
49.変装⭐︎
木の扉を開けると、ジャン・アルノーの部屋には、空気を吸い込んだだけで喉が焼けそうなほど濃密な火酒の香りが満ちていた。
壁一面の地図に釘と糸が張られ、天井の梁には乾燥させた薬草が吊されている。机の上には火酒の瓶と欠けたグラス、そしてひとつまみのナッツ。
宿屋兼酒場の地下に住みついて情報屋をするとはたいした変人だとヴァイオレットは思った。
「悪いな、狭くて。俺の王国なんだ、ここ」
ジャン・アルノーは椅子に深く腰掛けながら、靴を履いたまま机に足を投げ出した。
「それで、お前らが欲しい情報は何だ? あいにく、俺は他人の心を読む趣味はないんでな」
ヴァイオレットが前に出る。
「グレンダリング公爵家と関わる陰謀です。港町ラヴォニエやその周辺で起きている怪しい動きを調べています。行方不明者、不審な物資の搬入、偽装文書など……」
ローワンが視線で牽制しようとしたが、ジャンはあっさりとその視線をやり過ごした。
ヴァイオレットはすぐに懐から金貨を三枚取り出して机の上に置いた。
ジャンはそれを指で弾きながら情報を語り始める。
「ひとつ。グレンダリング領と繋がる東の港町――ラヴォニエの港では妙な物資が運ばれている。明らかに別の領地の品なのに、帳簿上はラヴォニエから出荷されたことになってるって噂だ。」
「帳簿が偽装されている、と?」
ヴァイオレットが問い返すと、ジャンは肩をすくめた。
「ふたつ。ラヴォニエの周辺で、若い男が何人も消えている。みっつ。役所の文書庫から重要な記録が消え始めてる。しかも、役所や衛兵は家出や自主的な出奔で片づけてる。匂うだろ?」
三つ目は、とジャンは火酒を一口あおってから低く告げた。
「ラヴォニエを監督するトゥレル伯爵領の文書庫。あそこから保管期限切れの文書が消えてる。都合の悪い過去を隠すために誰かが動いたのかもな」
ヴァイオレットとローワンは互いを見やった。これは単なる偶然ではない。
「なるほど……感謝します」
ヴァイオレットが頭を下げると、ジャンは肩をすくめた。
「礼はいらない。俺はこれが仕事でな」
ジャンはそう言って、火酒のグラスを片手で傾けた。
情報屋ジャン・アルノーとの密談を終えたヴァイオレットとローワンは、早朝に宿を出た。
朝靄の中を足早に進むと、人気のない路地裏に古ぼけた廃屋を見つけ、中へと忍び込んだ。
ひんやりと湿った薄闇の中、ふたりは慎重に辺りを見回した。
「スキルで確認もしたし、追手はなさそう。ここなら人目を気にせずに済むし、変装を済ませてしまいましょう」
ヴァイオレットは静かに言い、ローワンが頷く。
彼女がゆっくりと掌をかざすと、柔らかな光がローワンを包み込み始めた。
指先から放たれた魔法が髪と瞳を覆い、髪が少し伸びる。
黒髪は穏やかな金茶色へ、赤い瞳は鮮やかな緑色へと変化する。
ローワンはややくすぐったそうに身をよじりつつ、変化を受け入れた。
「こればかりは、慣れないな」
ローワンが苦笑すると、ヴァイオレットは優しく笑った。
「もうすぐ終わるから」
次にヴァイオレット自身が変装を行った。
胸元に手を当てて目を閉じ、意識を集中すると、金髪は艶やかな黒髪へと変わり、青紫の瞳は深いターコイズブルーの輝きを帯びる。
肌も浅黒くなり、異国の血を引く美女の姿となった。
ローワンは新しい姿のヴァイオレットをじっと見つめ、そのまま手を伸ばしてヴァイオレットの髪に触れた。
柔らかく揺れる黒髪の先を指先でなぞるように扱いながら、彼はほんの少しだけ声を落とした。
「……どんな色でも、きれいなんだな。お前の髪は」
ヴァイオレットは一瞬、何かが喉元で跳ねるような感覚に襲われた。
心臓が、ぐっと一拍、強く打つ。
「……そんな、褒めても何も出ないわよ」
強がって返しながらも、視線は合わせられなかった。
彼の指先の温もりが、まだ髪に残っているような気がして。
ローワンは気まずそうに手を引っ込め、咳払いをひとつ。
ヴァイオレットはちょっと早口になって言った。
「宿は『夜の水辺亭』にしましょ。ただ、男女二人が一緒に行くと目立つから、別々に入った方が安全だと思うの」
ローワンも同意した。
二人は辺りに人影がないのを再度確認してから、路地裏を別々に出た。
『夜の水辺亭』は港からほど近い、こぢんまりとした宿だった。
ヴァイオレットは宿の主人に簡単な挨拶を済ませ、さほど注目されることなく部屋を取った。
しばらくして別の客として現れたローワンも、ごく自然に別室を確保した。
ふたりは宿の廊下で小さく目配せし、短い確認を交わした。
「港の調査は任せて。あなたは倉庫の積荷をお願い」
「ああ、くれぐれも気をつけろ」