作品タイトル不明
50.滑った舌
ヴァイオレットが足を運んだのは、港に隣接する小さな酒場だった。
昼間だというのに店内は活気に満ちており、船乗りたちが陽気に騒いでいる。
なんとなく、見た目の年齢を5つほど加えてみた。
海の男にお子ちゃまは響かないだろう。
席につくとすぐに、一人の毛深い男が絡んできた。
「見ない顔だな、嬢ちゃん。一杯どうだ?」
ヴァイオレットは冷静に微笑みつつ、やんわりと断った。
「悪いけど、一人が好きなの」
だが男は引き下がらず、さらに近づいてくる。
「そんなつれないこと言うなよ。海の男と酒を飲めば、どんな闇夜だって日の出を待たずに明るくなるもんだぜ?」
ヴァイオレットは静かに返した。
「詩人リュシアンの言葉よ、『酒で照らされる世界の明るさは、朝日を待たずに消え去る』って。信用ならない光だわ」
男は一瞬ぽかんとし、すぐに大声で笑った。
「はは! 嬢ちゃん学があるな! ひょっとして字も書けるのか?」
「ええ……まあ、普通には」
ヴァイオレットが答えると、男は急に真顔になった。
「なら頼みたいことがある。俺は字が書けねえ。手紙を代筆してくれないか?」
「手紙? だったら町の書記官に頼めば?」
男は苦々しく舌打ちした。
「あのクソ野郎には頼めるか!金次第で誰にでもベラベラ話す奴だ。宿の上に部屋を取るから、そこで書いてほしい」
ヴァイオレットは用心深く目を細めた。
「本当に代筆だけでしょうね?」
男は慌てて両手を挙げた。
「おいおい、勘弁してくれよ。あんたはいい女だが、手紙を書いてもらわなきゃ俺は何だって手につかねえ。本当に代筆だけだ」
「駄賃はもらうからね」
ヴァイオレットは内心ため息をつきつつ、男について宿の上階の小部屋に向かった。
部屋は狭く薄暗かった。ヴァイオレットがろうそくに火をつけると、男はしきりに貧乏ゆすりをしながら、紙とインクを彼女に差し出した。
「さて……内容を言うぞ。『例の物資を港に運べ。さもなければ、お前の秘密をばらすぞ』だ」
ヴァイオレットはその粗野な言葉を丁寧な文章に書き直した。
「――『拝啓。貴殿におかれては、なお健在にてあられることと拝察いたします』……っと。脅しでも最初は礼を欠かさず始めるものよ」
男が「へえ」と驚いた顔をしたのを横目に、彼女はさらさらと筆を走らせていく。
「次は本題ね。『件の物品を速やかに届けられよ。さもなくば貴殿の秘め事、世に知らしめることになる』……こんなところでいい?」
男は感心した様子で頷いた。
「ああ、それでいい」
ヴァイオレットが中段までしたためると、ペンを止めて顔を上げた。
「さて、締めくくりはどうします?」
男は調子に乗って口を滑らせた。
「締めは『トゥレルとお前をぶちのめす日が楽しみだ』だな!」
ヴァイオレットは驚き、思わず聞き返した。
「トゥレル伯爵!?」
男は「あっ」と口を塞いだが、もう遅かった。
「おい、嬢ちゃん……こりゃまずいな。悪いが、あんたも無関係じゃいられなくなった」
男は短剣に手をかけるが、ヴァイオレットは咄嗟に声を上げた。
「待って! あの、それなら、この手紙の配達を私に任せてください!」
「配達……?」
「ええ。私には逃げる理由がないわ。あなたが届けたら足が付くから困るんでしょう。私以上に、届けることに必死な人間はいないはず」
男は鋭い視線を彼女に向けたが、やがて重いため息をついて短剣から手を離した。
「わかった、配達を任せる。相手はトゥレルの家令だ。直接本人に届けろ。裏切れば命はないぞ」
ヴァイオレットは頷き、静かに手紙を受け取った。
夕方、宿に戻るとローワンがヴァイオレットの部屋で待っていた。
彼は心配そうに眉を寄せて彼女を見た。
「無事だったか?」
「うん、どうにか。けど少し危なかったかも」
ローワンはため息をつき、真顔で言った。
「だから言っただろう。無茶はするなと」
「あはは!なんだか本当にギルド長そっくりね」
ローワンは不服そうだったが、ヴァイオレットは無視して声を潜め、続きを話す。
「思ったよりも深刻よ。トゥレル伯爵の名前が出てきたわ」
「俺も倉庫で物資の不審な動きを確認した。一部だけ二階の別室に運ばれるんだ。運ばれている荷物だけ変わった印が押されてる。いよいよ核心に近づいてきたようだな」
ふたりは重い沈黙の中で顔を見合わせ、この町の陰謀の深さを改めて認識した。