作品タイトル不明
44.ローワンとの出会い
ヴァイオレットはこの数週間、あえて市場や酒場のような人目につく場所を避けて過ごしていた。
クレマンの屋敷に身を置き、最低限の用事だけを済ませる日々。
けれど、そろそろ外の空気にも触れてよさそうだ――そう思えるようになったのは、街角で自分の噂話が耳に入らなくなってきた頃だった。
かつて、「あの女、娼婦にでもなるのかと思ってたぜ」などと下卑た笑いとともに噂されていたのを、彼女は知っていた。だが今や、それを口にする者はいない。
むしろ、リンドバーグ家に迎えられた貴族の娘が、自ら身分を隠して庶民の暮らしに紛れていた――という話に変わっていた。
口にこそ出さずとも、かつて嘲笑していた者たちは肩身を狭くしていた。
(もういい。今度は堂々と歩いていける)
そう思えた時、ヴァイオレットはひとつだけクレマンに願い出た。
「もっと勉強したいんです。学園は貴族のしがらみなどがありそうで、苦手意識があるんですが、今の世の中や、政治や、ものの考え方を」
クレマンは目を瞬かせ、そして静かにうなずいた。
「本来ならば学園に通うのが手っ取り早いが、まあよい。女性の半数は通わないし悪目立ちすることもなかろう。私も多少は教えられんこともないが、細かい話は性に合わん。人をあたってやる」
その数日後に紹介されたのが、ロドルフ・グレイヴナーだった。
かつて宰相オークンデイル(先日パーティーで会った緑の青年の父だ)の補佐官を務めていた男で、今は引退し、書物を相手に余生を過ごしていた。
「必要なのは、知識の整理と、視点の広げ方でしょう」
初対面でそう言ったロドルフの声には、決して上から目線ではない落ち着きと余裕があった。
ヴァイオレットは、求めていたのはまさにこういう人だとすぐに理解した。
勉学と並行して、冒険者としての活動も続けていた。
地味な任務もひとつひとつ真面目にこなし(断れる立場でもない)、Bランク昇格も見えてきた。
そんなある日、クレマンから呼び出しがかかった。
ギルドの二階、重厚な扉の先にあるギルド長室。
その部屋にはすでに、ひとりの青年がいた。
背筋の伸びた、端整な青年だった。赤い瞳が印象的で、漆黒に近い髪はさっぱりと整えられている。
彼の立ち居振る舞いには貴族らしい節度があったが、それ以上に、野に育った者のような自然さがあった。
「紹介しておこう。こちらはローワン・レイノック侯爵家の三男。冒険者ランクはA。実力も人柄も申し分ない」
クレマンの声には珍しく、わずかに誇らしげな響きが混じっていた。
貴族でありながら己の腕一本で地位を築いたギルド長にとって、ローワンはどこか昔の自分を重ねる存在だった。
「ローワン・レイノックです。槍を使います。よろしくお願いします」
彼は簡潔に名乗ると、深々と一礼した。型どおりの所作だが、そこに傲りはなかった。
「ヴァイオレット・リンドバーグです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
二人の間に沈黙が流れる。
しかし、慇懃無礼でも馴れ馴れしすぎることもない――適切な距離を保った、第一印象としては悪くない出会いだった。
クレマンはそんな様子を黙って観察していた。
口には出さないが、彼の中ではすでに「このふたりが将来、家のためにもなる組み合わせになるのでは」という思いが芽生えていた。
「任務の内容だが……」
そう言ってクレマンが机上に書類を広げた。
「グレンダリング公爵領寄りのヴェルトリッシュ伯爵領で新たなダンジョンが発見された。情勢的に公的な派遣は難しいため、リンドウィッチ公爵家から非公式に調査を依頼された」
ローワンが黙って頷く。ヴァイオレットもまた、真剣な表情で耳を傾けていた。
「この任務にはもう一組、Bランクパーティー「踊る斧」が同行する」
クレマンがその名を口にした瞬間、ローワンがわずかに眉をひそめた。
「踊る斧……」
「実力はある。だが、口と態度には期待するな。平民上がりで、気骨はあるが礼節には難がある」
クレマンの言葉は、彼らへのある種の評価でもあり、警告でもあった。
(……たしか、「踊る斧」は全員が茶色い髪と目で、粗野なふるまいをしていたはず)
ギルドで見かけたこともあり、ヴァイオレットの記憶にも、彼らの姿がぼんやりと浮かんでいた。
歯の隙間から舌が覗くような男もいたし、顔の長さが尋常でない者、顎のない輪郭の者もいて、見た目が重要視される貴族社会ではありえないことだった。
だが、そうした見た目とは裏腹に、彼らの腕前は確かだった。
粗野で無遠慮ではあるが、任務の成否を左右するような失策はしない。だからこそ、貴族家からの依頼に呼ばれたのだろう。
「……よろしくお願いします」
ヴァイオレットが改めてローワンに向き直って一礼すると、ローワンもまた静かに頷いた。
「こちらこそ。迷惑をかけないようにします」
礼儀はあっても、そこに特別な好意や情熱はない。
ただ、同じ任務を担う者としての信頼の芽が、まだ硬い土の中で息をしている――そんな空気だった。
「明日には出立できるよう準備しておけ。お前たちの仕事ぶり、楽しみにしているぞ」
そう言ってクレマンは机に視線を落とし、手元の書類に目を通し始めた。それが、面談の終わりを告げる合図だった。
ダンジョン前の仮設拠点に到着すると、すでに「踊る斧」のメンバーは集まっていた。
ごつごつした装備に、見栄えよりも実用を重視した体格の男たち。
四人組のそのパーティーは、一目見ただけで一癖も二癖もあることがわかるような雰囲気をまとっていた。
「おや、これが追加メンバーってやつか?」
ひとりがふてぶてしい笑みを浮かべて声をかけてくる。
「ヴァイオレットと申します。よろしくお願いします」
礼儀正しく応じると、鼻で笑われた。
「ヴァイオレットと申しますぅ~」
「申しますぅ~だとよ!ハハ」
「へえ、Cランク嬢が公爵家の依頼にねえ。……Aランクの護衛付きで」
「飾りか、餌か、どっちかってとこか?」
ひそひそと囁く声は、明らかに聞かせるつもりで放たれていた。
ヴァイオレットは表情を崩さなかったが、視線を逸らした。
その反応に腹を立てたのか、ひとりがわざとらしく言った。
「まあ、俺たちは足手まといにはならないようにしますから、ねえ?『Aランクのお守り役』さん」
ヴァイオレットではなく、ローワンを見て言った。
「ローワンだ」
ローワンは眉をひそめててぶっきらぼうに名乗った。
「俺はガンツ。斧担当な。あと、こっちは――」
「ヨレフ。得物は槌だ」
「マルゴ。短剣と罠の処理」
「ゾーリャ。回復と弓だ」
それぞれが素っ気なく名乗る。
クレマンが言っていた。彼らの言葉には期待するな、と。
まあ、無理に関わる必要もない。
「出発は明朝だ。今夜のうちに準備を整えておけ」
ローワンの指示に、踊る斧のメンバーたちは適当に手を振って応じた。
ヴァイオレットは樽に腰かけて装備の点検をしながら、ふとローワンの方を見た。
彼は静かに、自分の剣を磨いている。
松明の火に照らされたのは、まるで何も聞いていなかったかのような、無心の横顔だった。
(……少し、頼ってもいいかもしれない)
心のどこかに、そんな思いが芽生え始めていた。