作品タイトル不明
40.力の使い道
ギルド長の屋敷で暮らし始めてから、ヴァイオレットはCランクに昇格した。
しかし、冒険者の血生臭さとは裏腹に、その生活は静かなものだった。
目覚めると、屋敷の窓から差し込む陽光が、厚い石壁に描く陰影が柔らかく、時の流れをゆったりと感じさせる。
リネンのシーツに包まれた身体を起こすと、聞こえてくるのは庭師の鋏の音。
人の気配がある、けれど静謐――その感覚に、ヴァイオレットはかすかな安心を覚えていた。
ギルド長の娘となってから、街ではちらほらと「リンドバーグ嬢」と呼ぶ人も出てきた。
だが彼女の心には、いまだに「血戦の誓約者」の影がちらついていた。
ある日、夕食前の時間にギルド長にそっと尋ねた。
「皆さん……血戦の誓約者の皆さんは、今どうされているのでしょう?」
ギルド長は少し目を細め、戸棚から一冊の報告帳を取り出した。
「気になっていたのだろうと思って、情報はまとめてあった」
その無骨な一言に、ヴァイオレットの胸にわずかな暖かさが灯る。
ページをめくると、まずチャールズの名が目に入った。
軽薄そうな笑顔の裏に、意外なほど堅実な未来があったらしい。
ギルド職員と結婚し、すでに一緒に暮らしているという。
「彼は、もう冒険者としては表に出ることは少なくなるだろう」
そう言ったギルド長の声に、どこか寂しさが混じっていた。
次に目に入ったのはダレンの名だ。
無骨で、誤解されがちだが誠実な盾役だった彼は、なんと今やモテ期に突入しているらしい。
あのドロシーに靡かなかった男という評判が独り歩きし、引く手あまたなのだという。皮肉な話だ。
そして、テレンス。
少年のような容貌を持ち、なぜか浮いた噂ひとつない彼は、弓術の指南役として静かに力を発揮しているという。
確実な生き方を選んでいるように思えた。
対照的に、ヘンリーとドロシーの名は、報告書の中で浮いていた。
パーティーの新規募集は難航し、誰もが腫れ物に触るように彼らを避けているらしい。
2人ではダンジョンに潜るのもなかなか骨だろう。
「少しいい気味だと思ってしまいました」
ヴァイオレットが呟くと、ギルド長は紙を閉じながら、ふっと鼻で笑った。
「感情があるのは、悪いことではない」
ギルドに顔を出すこともできるが、彼らの現状を知った以上、今すぐに会う理由はない。
ヴァイオレットは屋敷の中で時間をつぶすことにした。
昼は召使いの目を盗んで、屋敷の古い箇所の補修を行う。
キッチンの棚は水平を取り直し、下水の流れもわずかに改善された。
屋敷の人々はそれが自然に良くなったと思っているようで、誰もヴァイオレットの介入に気づかない。
そんなある日、ヴァイオレットはギルド長にこう尋ねた。
「……あの、ひとつお願いがあります」
ギルド長は卓上の書類から顔を上げ、彼女に視線を向けた。
やや上がり眉の、感情の読めない顔。
その無表情がかえって、言葉をつかえる。
「体の、悪いところがないか調べたり、治したりする魔法も……私、使えると思うんです。試させてもらえませんか?」
ギルド長は少しだけ、沈黙した。
まるで頭の中で予測を並べて処理するかのように、視線を逸らして思案している。
その沈黙に、ヴァイオレットは思わず言葉を足した。
「――あの。いつまでも健康で、いてほしいので」
そう告げると、ギルド長はふん、と鼻で息を抜くような音を立てて、静かに頷いた。
「いいだろう。上を脱げばいいか?」
あまりにもあっさりした返答に、思わず「この人、意外とチョロいのでは?」と心の中で思った。
ヴァイオレットは椅子の背後に回ると、目を閉じてゆっくりと手をかざした。
まぶたの裏側に浮かぶのは、彼の上半身――そして右肩と前腕に、異なる色でほのかに光る箇所が浮かび上がる。
見た目ではわからなくとも、そこに異物と古傷があるのは明らかだった。
(……自然な状態を、阻害している要因がなくなるように)
心の中で呟き、魔力の糸を静かに流し込む。
まるで細いピンセットで摘み取るような、集中を要する繊細な作業だった。
やがて、彼の肩から、ごく小さな金属片がぽとりと音を立てて床に落ちた。
皮膚の内側から自然に押し出されたように。
それと同時に、古傷の走っていた部位も、少しずつ淡い光に包まれ、やがてなめらかな肌へと変わった。
「……終わりました。異物も、傷も、取れたと思います」
ギルド長は無言のまま肩を回し、腕を曲げたり伸ばしたりした。
「これは…!動かしやすい」
その声色には確かに驚きが混じっていた。
「ここまでやれる者は、そういない。治癒術師より、よほど腕がいい」
「……ありがとうございます」
「……これは、昔の戦いで刺さった破片だな」
ギルド長は懐かしそうに呟いた。
「私、治療院でも働けそうですね」と言えば、
「これ以上できることを増やして、どうするんだ」と軽くたしなめられた。
確かに、自分が万能であることは、時に立場を難しくする。
治癒魔法を人前で使えば、聖女と呼ばれ、信仰や政治に巻き込まれる可能性もある。
「人前では、やめておきます……」
ギルド長は上着を着直し、再び椅子に腰を沈めた。そして、やや間を置いて言葉を継いだ。
「――その腕を見込んで、できればでよいのだが、もうひとつ、頼み事がある」
その声の調子に、ほんの少しのためらいがあった。ヴァイオレットが顔を上げると、彼は目を細めた。
「リンドウィッチ公爵……現公爵なのだが。あまり人には言っていないが、歯が悪く、内臓に持病を抱えている。式の当日、目立たない別室を用意するから、もし可能なら、彼も診てやってはもらえないか」
ヴァイオレットは思わず息を呑んだ。
リンドウィッチ公爵――この国における五大公爵家のひとつ。
その要人を、彼女のような素性も不明な者が、診るなど。
「グレンダリング公爵家が動いている。近頃、港に他国の貧民が流れ込んでいるのだ。意図的に流れを作っている節がある。混乱を起こして、地元の信頼を削ぐつもりだろう」
ぞくりと、背筋が冷たくなる感覚が走った。まさか、あの公爵の名をここで聞くとは。
「奴らは、他国の貧民を港に住まわせ、混乱を演出している。治安は乱れ、地元の信頼は揺らぎつつある。対抗するためにも、リンドウィッチ家には万全でいてもらわねばな」
「彼らに利があるとは思えません。……なぜ、そんなことを」
「利があるさ。見返りに何かを受け取っている。土地か、武器か、あるいは……」
言葉の端々から、ヴァイオレットにも危機の気配が伝わってくる。政治は戦争と紙一重――そう感じた。
「リンドウィッチ公爵には、健在でいてもらわねばならん」
「わかりました。公の場では控えますが、式のとき、裏で診させていただきます」
「礼を言う。助かる」
食後、ヴァイオレットは部屋に戻ると、そのまま椅子に腰を下ろした。
キャンドルの灯が、机の上で静かに揺れている。
ヴァイオレットは、ぽつりと呟いた。
「……何でも、できるはずなのに」
その声は、自分に言い聞かせるようでもあり、問いかけるようでもあった。
【創造】というスキル。願えば、大抵のものは手に入る。
燃料の要らない暖房も、ふかふかのベッドも、香り高い紅茶も、ドレスも、指先一つで揃えられる。
むしろ、願えば現れるという事実の方が恐ろしく感じられるほどに。
けれど、自分は――
「ずっと、日々の支度に使って、満足していた」
水を沸かす。火を点ける。物を運ぶ。部屋を飾る。衣服を整える。
森に逃げ込んでからの日々は、そうした小さな魔法の積み重ねで構成されていた
。誰かと争うことも、誰かに脅かされることもなく、ただ静かに、自分のためだけに使う魔法。それは確かに、安らぎを与えてくれた。
だが――
指先にふれた、ギルド長のかつての傷。異物を取り除いたときに感じた、人の命の深さ。そこに「癒す」という力を使った実感。彼の言葉。公爵家の病。グレンダリング公爵家の暗躍。
どれもが、力の持つ意味をヴァイオレットに突きつけてきた。
彼女は、ギルド長がそうであるように、リンドウィッチ家の庇護のもとに生きる者になった。
貴族の末端に連なり、今後は否応なしに、政治と、権力と、戦略に関わっていかねばならない。
それは、力を持った者の責務であり、逃げることのできない現実だ。
「……使われるだけになってはいけない。私自身の意思で、選ばなきゃ」
ただ従っているだけでは、いずれ誰かの駒になる。
力を持っているからこそ、それをどう使うか、自分自身で考えねばならない。
誤った使い方をすれば、それは誰かを救うどころか、傷つける凶器になる。
グレンダリング家の所業は、まさにその悪しき見本だった。
「知恵をつけなきゃ……」
政治、経済、宗教、法、歴史――この世界の仕組みを知らなければ、いずれ道を誤る。
魔法が万能であればあるほど、それを制御するための「知」が必要になる。
力に飲み込まれないために、自分自身をしっかりと持っていなければならない。
書棚から、布張りの一冊を抜き取る。表紙には『諸侯と領民の関係史』と書かれていた。
「……まずは、ここから」
椅子を引き、頁を開く。細かな文字がびっしりと並んでいるが、不思議と目がすべらなかった。
淡い夜の光の中、屋敷の一室から、ヴァイオレットのページをめくる音だけが響いていた。