作品タイトル不明
39.父娘の食卓
ギルドを出ると、ヴァイオレットは陽射しのまぶしさに目を細めた。
森の奥の影に潜んでいた日々が長かったせいか、土の匂いすら新鮮に感じる。
舗装のない通りを、裾を気にしながら歩く。
何気ない町人の視線を背に感じても、今は堂々と歩ける気がしていた。
短く息を吐いて、仕立て屋へと向かう。
歩いて五分ほど。通りの先に、ハサミのマークが描かれた木の看板が軒に下がっていた。
店先では、若い下働きの少年が掃き掃除をしている。
「ごめんください」
扉を押し開けると、カウベルのような鈴が鳴った。
香料と糊の混ざったような匂いが鼻をくすぐる。奥から出てきたのは、恰幅のいい女性と、足を引きずる初老の男性――どうやら夫婦らしい。
「まあ、別嬪さんだこと」
おかみさんが目を丸くし、思わずヴァイオレットも口元をゆるめた。
肩の力がすっと抜けていくのが自分でもわかる。
「あの、リンドウィッチ公爵家のご嫡男の式典に呼ばれていて、何を着ていったらいいかわからなくて……。見繕っていただけますか? あ、これ、ギルド長からの紹介状です」
封筒を差し出すと、亭主が受け取り、中身を確かめながら口を開いた。
「おやまあ、あの堅物が紹介状を書くなんて珍しいな。ほら、お前さん、あの人の養女さんだってさ」
「驚いたな。……でもまあ、幸いだ。ブロケードはしこたま仕入れてるし、腕の鳴る仕事になりそうだ」
おかみさんは早くも嬉々として布棚に駆け寄り、鮮やかな織物の反物を次々と引き出していく。
深い紫に銀糸が走るもの、しっとりとした練り絹、繊細な花文様が織り込まれた白布――目が回りそうだ。
「腰を細く締めたコタルディにするとして……きれいな紫の瞳だから、紫でいいんじゃないか?」
「大人っぽくなりすぎるかしらん。この白い練り絹を見てごらんよ、このツヤったらないだろう。ほんのり透ける感じもまた上品でね……」
「あ、あの……」
ヴァイオレットは申し訳なさそうに口をはさんだ。
「私は、あまり目立ちたくなくて……外の血ですし、場違いと思われるのも困るので……その、見苦しくない程度にお願いします」
おかみさんは目を細めて、ふむふむと頷いた。
「なるほどねえ……まあ、わかったよ。でも“地味な装い”ほど難しいものはない。腕の見せ所ってやつだね」
その言葉にほっとしたような、一抹の不安を覚えたような気分で、ヴァイオレットは採寸に身を任せた。
寸法を測られながら、式のことが頭をよぎる。
どんな人々が集まり、どんな空気が流れるのか――まったく想像もつかない。
それでも、公爵家の顔合わせというのは、今後を左右する重要な場なのだと、ギルド長の言葉で理解していた。
すべてが終わり、仕立て屋を後にするころには、店の入り口には軽く陽が傾きはじめていた。日差しのなかで見ると、反物のきらめきがまた違って見える。
「一週間で仕上げるから、仮縫いの時にまたおいで」
おかみさんの元気な声を背に受けて、ヴァイオレットは店をあとにした。
石段をのぼると、区画の大きな建物が並んでいるのが見えてきた。
門の前には衛兵が立ち、通りを睨んでいる。
石造りの外壁は高く、鉄の門扉には公爵家や名家の紋章がさりげなく刻まれていた。
ギルド長の屋敷は、その中でも比較的こぢんまりとしたものだった。
とはいえ、木の門柱の前には香を焚いた鉢が置かれ、花壇には丁寧に剪定された低木が並んでいる。
壁は白く、陽をよく受ける位置に建てられているのだろう、全体がどこか明るい印象を与えていた。
門をくぐると、庭先では使用人のひとりが鉢植えに水をやっていた。
ヴァイオレットが案内された部屋は二階の角部屋で、窓からは西陽が差し込んでいた。
旅の疲れを洗い流すように、静かであたたかな空気が広がっている。
何度も指を鳴らして拡張した、森の物置小屋のあの空間とは違う。
ここでは、自分の魔法で世界をねじ曲げなくても、もともと整えられた秩序がある。
まだほんの少しの居心地の悪さは残るが、それでも、安心できる場所のように思えた。
しばらくして、扉の外からノックの音が響いた。
「お嬢様、夕食のご用意が整っております」
召使いの女性の声が柔らかく告げ、ヴァイオレットは返事をして部屋を後にした。
食堂は屋敷の中央に位置していた。
大きすぎず、けれどもゆとりのある作りで、長いテーブルには亜麻色のテーブルクロスがかけられている。
燭台の明かりが壁に淡く反射し、ひとりとひとりのための、穏やかな晩餐を照らしていた。
ギルド長はすでに席に着いていた。視線が合うと、わずかに頷かれる。
「お邪魔します」
ヴァイオレットが静かに席につくと、それを合図にしたように、使用人たちが食事を運んできた。
まず最初に置かれたのは、小皿に盛られた根菜のマリネだった。
酢の加減がほどよく、季節のハーブが香る。
見た目は素朴だが、ひとつひとつの素材が活きていた。
そのあと、温かいポタージュが供される。
とろりとした食感に、炒めた玉ねぎの甘さがじんわりと広がる。
添えられたパンは薄く切られ、表面は香ばしく、ほのかにローズマリーが香っていた。
血戦の誓約者たちと囲んだ食卓では、鍋の煮込み料理を皆で取り分けることが多かった。
賑やかで楽しかったが、こうして静かに、一つひとつの皿に向き合うこともまた、悪くない。
「不自由はないか?」
不意にギルド長が口を開いた。相変わらず抑揚のない声だが、言葉の裏には、彼なりの気遣いがあった。
「……はい。まだ少し、落ち着かない部分もありますが。でも……安心できます」
それは嘘ではなかった。
森での孤独も、自分にとっては大切な時間だったが、今この食卓に座っていることで得られる静けさは、また別の意味で心を休めてくれていた。
メインディッシュは、香草とともにじっくり煮込まれた鶏肉のポトフだった。
じゃがいもや人参が甘く、骨から肉がほろりと外れるほど柔らかい。
「街に戻ってすぐに、これだけのごちそうを口にできるとは思っていませんでした」
「食は生活の基本だ。胃袋が満たされれば、考えも穏やかになる。魔法よりもよほど人を治す」
ギルド長はそう言って、食後の果物に手を伸ばした。
いちごと、少し酸味のある赤スグリが彩りよく並べられている。
「こういうの、久しぶりです」
ヴァイオレットは、いちごを一粒つまんで口に運ぶ。甘さが口に広がり、自然と頬が緩む。
「一人だけだと食事も手間でしたから。気を抜くと料理というよりは補給になってしまって」
「一人分の食事とはそういうものだ。二人分以上であってこそ、食は『食卓』になる」
その言葉に、ヴァイオレットはふと血戦の誓約者たちと囲んだ食事の光景を思い出した。
ラクレットを囲んで笑いあった時間。
あれは、間違いなくかけがえのない食卓だった。
「……あなたと、こうして食事をするのは、初めてですね」
「そうだな」
ギルド長は頷いたが、それ以上は何も言わなかった。
お互い、果物の皿の端に残ったいちごを静かに口に運ぶ。
やがて食事が終わり、使用人が皿を下げていく。
ヴァイオレットはナプキンをたたみ、ゆっくりと立ち上がった。
「ごちそうさまでした。……とても、おいしかったです」
「それは良かった」
ギルド長は変わらぬ調子でそう返したが、その声にはほんの少しだけ柔らかさがあった。
夜風が、廊下を抜けてかすかに吹き込む。
ヴァイオレットは階段を上がりながら、ふと立ち止まって廊下の窓から外を見た。
紺色の夜空の中で、通りの灯りが遠く、黄色く揺れていた。