作品タイトル不明
38.ギルド長との再会
夏の日差しが、空気の輪郭をやわらかく溶かしていた。
土の道はまだ朝露にしっとりと濡れ、麦畑の先にエルムストンの町が見えてきた。
白く塗られた漆喰の壁はあちらこちらで剥げ、粗い石積みの骨格が覗いている。
固く踏み固められた道の湿った土の匂いと、遠くから届く鐘の音が、町の一日の始まりを告げていた。
逃げ出した日から二週間しか経っていないが、それ以上の時間の重みを持って感じられる。
森は静かで、孤独で、思いのほか安らぎに満ちていた。
だが、ずっと逃げてはいられない。
生まれ変わったつもりでも、この街と、この街の人たちとの関係をなかったことにはできないのだ。
私は、あの人たちに恩がある。
ギルド長にも、公爵家にも――。
その想いを胸に、ヴァイオレットは冒険者ギルドの扉をくぐった。
人に噂されるのは嫌だったが、正規ルートで会いに行かないのは気がとがめたので、軽く気配遮断の魔法をかけたまま、窓口の女性に静かに声をかける。
「ヴァイオレット・リンドバーグです。ギルド長に呼ばれておりますので、お目通りをお願いできますか」
案内された階段を上り、無言のまま扉の前に立つ。
名を名乗って指先で軽くノックすると、変わらぬ抑揚で返事があった。
「入れ」
室内は、以前と何ひとつ変わっていなかった。
机の上には整然と書類が並び、ペンは定位置に置かれ、窓のカーテンはぴたりと均等に開いていた。
クレマン・リンドバーグ――ギルド長は顔を上げると、目だけで彼女を見た。
「戻ったか」
「はい。ただいま帰りました」
「二週間。まずまずの逃げ足だな。冒険者としてひとつランクを上げるべきかもしれん」
くすりともせずにそう言い、手元の書類に目を戻す。
けれどその一言の中に、皮肉ではない、かすかな安堵が滲んでいた。
「……ご心配をおかけしました」
「していないさ」
即答だったが、その言葉に裏打ちされた静かな信頼を、ヴァイオレットは感じ取っていた。
「森はどうだった」
「静かで、考えるにはちょうどよかったです。逃げたのはよくなかったけれど、戻ってこようと思えました」
「そうか」
一拍の沈黙が流れた。ギルド長は書類を一枚脇に寄せ、手元の封筒をひとつ持ち上げる。
「……帰ってきて早々、言うのも気が引けるのだが」
声色は淡々としていたが、ほんの一瞬、彼の視線がヴァイオレットの額にとまった。
慎重に様子をうかがうような、気遣うような目だった。
「構いません。なんでしょうか」
「リンドウィッチ公爵家で、嫡男の成人祝いがある。公的な式典だが、顔合わせの場でもある。お前は書類上、あの家の縁者。公爵家の人間として扱われる機会は、今後も出てくる」
封筒を机に置き、ヴァイオレットの前へ押し出す。
「出席するべき、ですか?」
「欠席する自由もある。だが、出ておいた方が後が楽だ」
「……わかりました。出席いたします」
ギルド長は無言で頷いた。
「礼服が要るな。あまり派手ではなく、それでも場にふさわしいものだ。街の仕立て屋に紹介状を書いておく」
「紹介状を書くほど大事でしょうか」
「念のためだ。……支払いは大丈夫か?」
一瞬の間ののち、ヴァイオレットは頷いた。
「何とかなります」
「ならいい」
ペンの音が再び響いた。書類を数枚めくりながら、リンドバーグはふと尋ねる。
「今は、どこに宿を取っている」
「取っていません。森を出てその足で、ここへ来たので」
「……そうか。なら、うちに来ればいい」
ギルド長は何気ないように言ったが、それがどれほどの配慮だったか、ヴァイオレットにはよくわかった。
「頼りなさい。形式上とはいえ、親子なのだからな」
「……ありがとうございます」
「前もって屋敷にいれば、当日の支度も都合がいい。部屋の用意はさせておく」
淡々と語るその声のなかに、どこかぎこちない温度が混ざっていた。
他人同士が、親子という仮面をかぶって関わり合っていた。
「……式までは11日ありますね。大人しくしておきます」
「なるべく目立つな。何かあれば、こちらで処理する」
それが、この男なりの庇護の言葉だった。
「……ありがとうございます、父上」
ヴァイオレットは深く頭を下げた。ギルド長は視線を戻し、また書類にペンを走らせていたが、その口元がごくわずかに動いたようにも見えた。
ヴァイオレットは一瞬迷ったように視線を伏せ、ふと思いついたように尋ねた。
「……そういえば、今更ですけど。奥様に、ご挨拶って……まだしていないんですけど、大丈夫でしょうか」
ギルド長はペンを止め、視線をわずかに彼女に向けた。
「気にしなくていい。……もう亡くなっている」
「……そうでしたか」
「再婚もしていない。子供はいるが、もう自立している。私の家に他人は住んでいない。遠慮する理由はない」
そう言う彼の声は、いつもと変わらぬ無機質な調子だったが、わずかに余韻のようなものが滲んでいた。
「……わかりました。ありがとうございます」
ヴァイオレットは静かに扉を閉じ、階段を下りた。
ギルドの扉を押し開けると、土の通りが広がっていた。
この埃っぽい現実に、また足を踏み入れる。
けれど今は、それを拒まない自分がいる。
あの日泣きながら飛び出した自分とは、きっともう違っていた。