作品タイトル不明
37.静かな暮らし
朝の空気には、草葉の匂いと、陽にあたためられた土の匂いが混ざっていた。
森の奥で目覚める朝は、音から始まる。
高く澄んだ空にこだまする雲雀のさえずり。
ブナやカシの葉が風にゆれる微かな音。
ヴァイオレットは、薄掛けのリネンにくるまりながらうっすらと目を開けた。
暖房はもういらない。
昨日は散歩をしていたら、額に汗がにじむほどだった。
初夏の気配はすでに、静かに部屋の隅々まで入り込んでいる。
「……もう、こんなに暑くなるなんて」
ブランケットを蹴飛ばし、裸足で床に降りる。
木目調の内装に変えた室内には、昨日仕込んだラベンダーのサシェがほんのり香っている。
前のような城風の装飾も、煌びやかなドレスの山も、もう片付けてしまった。
あれはあれで悪くなかったけれど、今のこの素朴な暮らしのほうが、心にしっくり馴染む。
「よく考えたら、あのドレス、裾が引っかかって大変だったしね……」
苦笑しながら朝の支度を整えると、戸口の前に何かが落ちていることに気がついた。
封蝋も何もない、小さな便箋のような紙。
拾い上げて開くと、予想どおり、ギルド長からだった。
『了解した。無理はしないように。必要があればいつでも戻れ。ただし最低でも週に一度は連絡を。』
それだけ。
まるで報告書の一文みたいだった。
しかし、紙にはもうひとつ、薄布に包まれた小さな指輪が巻き込まれていた。
銀の地金にわずかな装飾が刻まれており、鑑定すると、込められた魔力により一度だけ攻撃を無効化するものだとすぐにわかった。
「……こういうところ、ほんと不器用なんだよなあ」
ぽつりと呟いて、それからふっと笑った。
どう返せばいいのか迷った末、ひとまず指輪を右手の薬指にはめた。
返事は気が向いたら書けばいい。たぶんあの人は、すぐに返事が来なくても気にしないだろう。
「パンでも焼こうかな」
そうつぶやきながら火を起こす。
魔法で創造したオーブンはあるが、生地をこねて、発酵させ、焼きあげる――という一連の工程は、なかなかに手間だ。
それでも、部屋に広がる焼きたての香ばしさは、労力を補って余りあるものだった。
思わず調子に乗って10個も焼いてしまい、食べきれずにいくつかは保存用の容器を作って入れる羽目になった。
「誰かいれば、分けてあげられるのにね……」
ふと呟いて、少しだけ寂しさが胸をよぎった。
昼、草の茂る小道を歩いていたとき、アザミに止まった蝶の翅がふいに目に留まった。
「こんなに色があったんだ」と、思わず立ち止まって見入ってしまう。
グレンダリング公爵家から逃げてきた時は、こんな些細なものに目を留める余裕なんてなかった。
夜、机に向かって日記を書く。
『今日は朝からカッコウの声が聞こえた。森に夏が来る合図だって、どこかで読んだことがある』
『パンの発酵が早くなった。暑さで少し膨らみすぎたかも』
手を止めて、窓の外を見た。木々の向こうに夜が広がっていて、遠くでフクロウの声が聞こえた。
美咲として生きていたころを思い出す。
グレンダリング公爵家から逃げてきた時だけでなく、あの頃も安らぎを忘れていた。
この世界に来てから、いい思いばかりしてきたわけではないが、手を動かすこと、食べること、眠ること――そのひとつひとつに充実感があった。
静かな夜だった。
炎のゆらめきが壁に影を踊らせ、暖炉の前でヴァイオレットはしばらくじっとしていた。
その夜、彼女は夢を見た。
チーズの匂い、笑い声、暖かな光――血戦の誓約者たちと囲んだ、あの食卓。
目覚めたとき、なぜか胸がぎゅっと締めつけられた。
ヘンリーの顔を思い出しても、もう胸は痛まなかった。
(……元気でいてね、みんな)
そう願うことだけは、まだ許されるだろう。
そして、ギルド長の顔も思い出した。
あの無表情で、妙に理屈っぽくて、それでもさりげなく気にかけてくれる奇妙な男。
今なら――一緒にご飯を食べてもいいかもしれない。何を話せばいいかはわからないけれど。