作品タイトル不明
33.崩れる秩序⭐︎
数日後、夜の静寂を破るように、扉が乱暴に開け放たれた。
玄関から重たい物が転がり込む音がする。
ヴァイオレットは、屋根裏部屋の薄暗がりで目を開けた。
部屋の中に漂うのは静寂、だが、その向こうから漂う異様な気配に、彼女はゆっくりと身体を起こす。
階下から聞こえる呻き声と、鈍い物音。
彼女は寝巻の上に軽く上着を羽織ると、短剣を手に取り、足音を忍ばせながらはしごを降りた。
灯りのついた食堂には、三人の影が立っていた。
ヘンリー、チャールズ、テレンス――彼らの間に、もう一つの人影があった。
ダレンだった。
彼は、泥と血にまみれていた。
顔には殴られた痕があり、腫れた頬から血が滲んでいる。
上着は破れ、袖口には拳の形に似た汚れがついていた。
ダレンは、入り口の壁にもたれかかるようにして立っていた。息が荒く、目はぼんやりと焦点が定まらない。
彼の姿を見たヘンリーは、ため息をつき、何も言わずに椅子を引き寄せた。
その時、階上から眠たげな声が聞こえた。
「……なに、うるさい……」
ドロシーが寝ぼけたような声で顔を出した。
彼女は半分目を閉じたままダレンを見て、薄く笑った。
「何それ……ほんとボロボロじゃん……。はぁ……もう、夜中なんだから静かにしてよね……」
それだけ言い残すと、彼女は踵を返して屋根裏へと戻った。
誰も、何も言わなかった。
ヴァイオレットは、ダレンの前に歩み寄り、彼の傷を改めて見た。
殴られた痕。裂けた唇。血と酒の混じった吐息。
「座って」
彼女が低く言うと、ダレンは椅子に身を落とした。
彼は腕を組み、床を睨みつけている。
「……何があった?」
ヘンリーが尋ねた。
ダレンはしばらく沈黙した後、口を開いた。
「……話す必要、あるか?」
「お前がこの有様で帰ってきて、黙ってろって言うのか?」
チャールズが鋭い口調で言う。
ダレンは、仕方なく口を開いた。
酒場は、いつも通り騒がしかった。
だが、その賑やかさの中には、いつもと違う不快な空気があった。
「なぁ、聞いたか?例の『ヴィー』の話」
その言葉に、ダレンの耳が反応した。
「男を手玉に取ってるってよ。しかも、あの血戦の誓約者の連中もまるっと骨抜きらしいぜ」
「特にダレンって奴、やばいらしいな。独占したくて、他の男を遠ざけてるとか?」
「そりゃあんな美人に取り憑かれたら、気も狂うよな!」
下品な笑い声が飛び交う。
ダレンは、静かに酒杯を置いた。
不快だった。
ただ、それだけだった。
彼は立ち上がると、会話の主たちのテーブルへと歩み寄った。
「……それ、どこで聞いた」
低い声で問いかける。
男たちは一瞬驚いたが、すぐにニヤついた。
「おいおいおいおい、ご本人のお出ましだぜ」
「あらら、独占したがってるって話は、どうやらマジだったみたいだな」
「女に入れ込んでるのは本当みてぇだな?」
ダレンは、声を荒げた。
「ヴィーはそんな女じゃねぇ」
彼の真剣な眼差しに、一瞬だけ周囲が静かになる。だが、次の瞬間――
「ほら、否定すればするほど怪しいってもんだぜ?」
「なぁ、そんなにイイ女なのか?」
「お前が独占しようとするくらいだからな!」
「黙れ」
その言葉が引き金だった。
相手の男がダレンの肩を突き飛ばした。
ダレンは即座に拳を振るった。
男の顎が跳ね上がり、椅子が倒れる。
「やりやがったな!」
瞬間、酒場は騒然とした。
テーブルが倒れ、酒瓶が割れる。
周囲は手を叩いて囃し立てたり、口笛を吹いたり、あげく賭けを始める始末だ。
「見ろよ、女に夢中になった結果だ」
「ほんとに独占したかったんだな!」
笑い声が渦巻いた。
ダレンは、誰が敵なのか分からないほどに混乱する中で、殴り、蹴られ、押し倒された。
床に倒れ込んだダレンは、箒を持った女主人に追い出された。
(……やっちまった)
「……で、このザマか」
ヘンリーが冷ややかに言った。
ダレンは唇を噛みしめたまま、顔を伏せた。
ヴァイオレットは無言で彼の傷口に指を滑らせ、静かに回復魔法をかける。
腫れた頬や裂けた唇がゆっくりと癒えていく。
「すまない……俺は、お前を侮辱する奴が許せなかっただけなんだ」
ヴァイオレットは、彼を見た。
「……私は、怒ってないよ」
ヴァイオレットの声は静かだった。彼女は、テーブルに手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
「ねぇ、ヘンリー」
「……なんだ?」
「あなた、どう思ってる?」
ヘンリーはしばらく考えた後、肩をすくめた。
「噂なんて、放っておけば消えるんじゃないか?」
ヴァイオレットはヘンリーに返答することなく、屋根裏へ向かった。
開け放したままだった屋根裏の小さな窓から、夜の冷たい空気が流れ込む。
部屋の中は、彼女が整えたままだった。
防寒の魔法を施した壁、暖かな寝床。
(ここには、もういられない)
ヴァイオレットは、背嚢を開くと、屋根裏にあったものを次々と収納していく。
簡易ベッド、鏡、歯ブラシ、基礎化粧品――生活のすべてを収めた背嚢が重くなった気がした。
ドロシーは、変わらずぐうぐうと寝息を立てていた。
この状況で、彼女だけが何も感じずに眠っている。
「……バカバカしい」
小さく呟き、彼女はドアへ向かった。
「待て!」
誰かが声を上げた。
ヘンリーだったかもしれない。
彼の声は、自分を止めようとするものだったのか、それともただ事態を引き留めようとするものだったのか。
ヴァイオレットは振り向かなかった。
ドアを開けると、冷たい夜風が彼女を迎えた。
月明かりの下、ヴァイオレットは町の通りを駆け出した。
涙がぼたぼたと流れる。
心の奥に閉じ込めていたものが、すべて溢れ出した。
足が速くなり、呼吸が荒くなる。
消えたい。隠れたい。何もかも忘れたい。
彼女は無意識のうちに魔法を連発していた。
【気配遮断】【透明化】【無音化】
夜の町から彼女の気配は完全に消えた。
走って、走って、走り続けた。
町を抜け、森の暗闇へと飛び込んだ。
魔力が暴走しそうなほど感情が昂ぶる中、ヴァイオレットはようやく足を止めた。
森の中に佇みながら、彼女は静かに魔法を展開した。
草木がざわめき、小さな建物が現れる。
グレンダリング公爵家から逃げるときに使った物置小屋だった。
人目を避けるための魔法をかけながら、扉を開ける。
(ここなら、見つからない)
冷たい夜気の中、ヴァイオレットは目を閉じた。
町での出来事が、まるで夢のように遠ざかる。
逃げる日々が、妙に懐かしく思えた。
「……私、何をやってるんだろう」
誰に聞かせるでもなく呟くと、彼女は、そっと膝を抱えた。
やがて、嗚咽が静かな森の夜に溶けていく。
涙を流しながら、ヴァイオレットはようやく少しだけ心を落ち着けた。
魔法の壁に守られた小さな空間で、彼女はまるで子供のように眠りへと落ちていった。