作品タイトル不明
32.噂
エルムストンの冒険者ギルドは、昼時ともなればひどく騒がしい。
依頼を探す者、報酬を受け取る者、酒場のようにたむろする者たちの声が混じり合い、薄汚れた空気が漂っていた。
ヴァイオレットは、いつもと変わらぬ足取りでギルドの扉を押し開いた。
(いつもと変わらない……はず、なのに)
その瞬間、彼女に向けられた視線が刺さるようだった。
ひそひそとした囁き。ちらりと向けられる冷たい目。
(……これは)
目に見えぬ壁ができている。
ドロシーが来てからというもの、これだ。
一旦気にしないふりをして、まっすぐクエストボードへと向かった。
少しでも金になるものを探すため、並ぶ依頼書を目で追う。
だが、その行動すら目立つらしく、背後で聞こえる声が耳に触れた。
「おい、あれがそうか?」
「男たちを籠絡してるって女か」
「あんな別嬪がやりたい放題か……」
ヴァイオレットは静かに息を吐いた。
(くだらない)
無視しようとしたそのとき、一人の男が彼女の横にずいと割り込んできた。
「よぉ、嬢ちゃん」
酒臭い息を感じる。
髭面の、明らかに腕っぷしだけが自慢といった風体の男が、にやりと笑った。
「パーティーに色仕掛け使うんなら、俺たちにも相手してくれよ」
周囲から、げらげらと笑いが漏れる。
男はニヤついたまま、ヴァイオレットの肩に手を伸ばした。
その瞬間――
「触れたら、後悔するよ」
ヴァイオレットの声は、低く冷たかった。男が一瞬動きを止める。
しかし、すぐに笑みを深めた。
「おっと、怖い怖い。けどな、坊やみたいな剣士たちに囲われてるお姫様が、一体何してくれるってんだ?」
周囲の冒険者たちがまた笑う。ヴァイオレットは、眉一つ動かさなかった。
(馬鹿馬鹿しい)
ギルドの受付がこちらをちらりと見たが、助け船を出す気はなさそうだった。
(なら、やってもいいよね…【肉体強化】)
男が彼女の腕をつかもうとし、その瞬間――
バキッ
音が鳴る。
ヴァイオレットの動きは、速かった。
男の手を取ると、関節を極めるように力をかける。
「っ、おまっ……!?」
「言ったよね?触れたら、後悔するって」
ぐり、と捻ると、男の顔が歪んだ。周囲が一瞬静まる。
「おいおい、女のくせに、やるじゃねぇか……!」
仲間の一人が茶化すように言う。ヴァイオレットは、男の腕を乱暴に放した。
「無駄話をしてる暇があるなら、少しは働いたらどう?」
吐き捨てるように言うと、彼女は踵を返した。
(……クエストなんて、もうどうでもいい)
このままギルドにいたところで、ろくなことにならない。
食材の買い出しでもして、少しでも気分を変えた方がいい。
市場へ向かう途中、町の雰囲気もまた変わっていることに気づいた。
町の規模はせいぜい人口二〜三千人。大きな変化があれば、すぐに広まる場所だ。
ヴァイオレットはそれなりに愛想を振る舞い、適度に距離感を持っていた。
だからこそ、急に敵意を向けられることはない。
しかし――
「やっぱりね……」
「あの女よ……」
洗濯物を干していた女たちが、彼女を見るなり、含みのある視線を投げてきた。
「女は貞淑であるべき」という考えの者たち。
女冒険者をもともと快く思わない層。
噂を聞いて、納得したような顔をしている。
一方で、男たちの一部は下卑た笑みを浮かべた。
「へぇ、そんな女だったのか」
「一度試してみたいもんだな」
彼らの声が耳に届くたび、ヴァイオレットの苛立ちは募った。
パン屋に着くと、女主人がカウンターの向こうでパンを並べていた。
「あら、ヴィーじゃないか。今日は何にする?」
彼女は、ヴァイオレットが町に来た頃から世話になっている女性だった。
愛想もよく、悪い人ではない。
ヴァイオレットは、少し安堵しながらパンを選んだ。しかし――
「あんたね、」
パンを袋に詰めながら、彼女が口を開いた。
「こんなこと言いたかないんだけどね、悪い噂が立ってるよ」
ヴァイオレットの指が僅かに止まる。
「男たちをたぶらかしてる、ってさ」
女主人は、まるで「知らないと思ってたでしょ?」とでも言いたげな顔で、無邪気に笑った。
「噂はすぐに広まるんだよ」
ヴァイオレットは、無言で代金を置いた。
「まあ、気にしなさんな」
その言葉が、追い打ちだった。
(気にするな、ですって?)
ヴァイオレットは、袋を受け取ると、そのまま店を出た。
パン屋の主人は、悪意があったわけではない。
ただ、あまり考えが及ばない人間だった。
しかし、それが悪意とどう違うのか、ヴァイオレットには分からなかった。
午後の戦闘も、苛立ちの残るものだった。
相変わらず、ドロシーは目立った活躍をしない。
ヴァイオレットは派手な魔法を使えず、フラストレーションが募る。その帰り道――
「ヴィーさまぁ~」
後ろから、耳障りな声が聞こえた。
(また、それ)
ドロシーが甘えたような声で近寄ってくる。
「どうしたの?ちょっと元気ないよ?」
「……別に」
「もしかして、例の噂のこと気にしてる?」
ヴァイオレットの足が止まる。
「大丈夫だって!みんな気にしてないよ♪」
(あんたが広めたくせに……)
「ねえ、あたし、ヘンリーと結婚するんだ!見てこのペンダント!貰っちゃった」
赤い髪に映える、緑の石のペンダント。ヘンリーの、瞳の色だ。
ヴァイオレットはまだプレゼントをもらったことがない。
ふと、ヘンリーを見ると、その眼差しの先には、ドロシーが少し鋭い犬歯を出して悪戯っぽく笑っていた。
夕日の当たる二人が、お似合いに見えて仕方なかった。