作品タイトル不明
26.帰る場所⭐︎
ヴァイオレットは、重く沈んだ足取りで夜の街を歩いていた。
石畳の上に冷えた夜気が這い、彼女の足元をじわじわと凍えさせる。
遠くで響く酔客の笑い声が、別世界の出来事のように聞こえた。
店先の灯りがぼんやりと揺れ、光と影を滲ませる。
街ではこうして日々の生活が営まれているというのに、彼女の胸には、何か取り返しのつかないものを置き去りにしてきたような感覚だけが、重く横たわっていた。
公爵家に記録されるということが何を意味するのか、理解はしていた。
保護という名の束縛。
いずれ求められるのは「血筋の証明」としての振る舞いだ。
ひとたび貴族の枠に組み込まれれば、その生は公のものとなる。
そう思うと、ひどく疲れた。
背に見えない鎖が絡みつくような錯覚を覚え、肩をすくめる。
家の扉を開けると、暖かな空気が流れ込んできた。
室内には灯がともり、暖炉には赤々とした火が燃えている。
食卓のまわりでは「血戦の誓約者」の面々が集い、いつもと変わらぬ日常の喧噪が広がっていた。
チャールズが振り向き、いつものように声をかけようとした。
「お、帰ったか――」
そこで、彼は僅かに言葉を飲み込んだ。ヴァイオレットの表情が、あまりにも暗かったからだ。
「……何かあったのか?」
ヘンリーとダレン、テレンスも顔を上げ、ヴァイオレットの様子を窺う。
彼女は一瞬だけ迷うように目を伏せ、しかし静かに答えた。
「……夕食のときに、お話しします」
チャールズはそれ以上何も言わず、ただ「そうか」とだけ返す。
ほかのメンバーもちらりと視線を交わしたが、無理に詮索しようとはしなかった。
ヴァイオレットは台所に立った。
ナイフを手にしながら、彼女は目の前に並ぶ食材を見つめる。
買い物が面倒だったので、今日はありあわせでできるラクレットにした。
ジャガイモ、バゲット、ハム、ピクルス――ありふれた材料にラクレットチーズをかければそれでいい、シンプルなメニューだ。
日本はスーパーで売っているチーズの種類が少なく、価格も高価だったため、こちらでは手が出しやすいのが嬉しい。ラクレットチーズも帰り道で安価に購入できた。
ラクレットは料理の名前でもあるが、ややこしいことに料理に使うチーズもラクレットという名称だ。
(ラクレット……確か、「削り取る」という意味だったはず)
妙だった。
自分が今話している言語は何なのか。
フランス語なのか、日本語なのか。思考が宙を漂う。
しかし、自分にとって聞こえるのは確かに日本語であり、意味は自然と理解できる。
だが、この世界にフランスがあるわけでも、日本があるわけでもない。
全てはゲームの世界――異物として投げ込まれた自分を、またしても強く意識させられる。
ぞわりと背筋を這い上がる違和感。足元の地面がぐらつくような感覚。
しかし、手元の温かさだけが、彼女を現実に引き戻した。
料理の工程は、そんな奇妙な感覚を薄めてくれる。
チーズがフライパンの上でとろりと溶け、湯気とともに馥郁たる香りが立ち上る。
誰にも気づかれぬよう、そっと鍋敷きに保温の魔法をかけた。
これでチーズが冷めることはない。
一緒に飲む用のワインを取り出す。
辛口の白。
ヴァイオレットは誰のとも知らないワインを勝手に使っているのに、気づけば補充されている。
(……誰のなんだろう)
きっとヴァイオレットが勝手に使っていることに気づいているはずなのに、詮索もされないし、当たり前のように並べられている。
好ましい秘密のコミュニケーションのように感じられたので、そのまま切り出さずにいる。
食卓は賑やかだった。湯気の立つジャガイモやバゲットに、とろりと溶けたチーズをかける。
「ジャガイモにかけるのが一番うまい」
「いや、バゲットだろう」
ヘンリーはバゲット派で、チャールズはジャガイモ派。
彼らの些細な言い合いを、ヴァイオレットは静かに眺めた。
(……ラクレットって、こういう料理だよね)
囲んで食べる幸せ。それを噛み締めるように静かに口に運ぶ。
日本でいう鍋料理のようなものかもしれない。
ヴァイオレットはふと、日本を思い出した。思い出さない方が良かったかもしれない。
(……私は、本当にここにいていいのだろうか)
この世界には「トワイライトの瞳」に登場するヒロインがいるはずだ。
攻略対象キャラも存在していて、ゲームではヴァイオレットの敵となった。
それに、血戦の誓約者は本来四人であったはず。
彼らはただ、優しさで受け入れてくれているだけで、本当に「仲間」としてここにいるわけではないのではないか。
その思いが、じわりと胸を浸食する。
「ヴィー、何を悩んでるんだ?」
ヘンリーの声が、ヴァイオレットの意識を現実に引き戻した。
ヘーゼルの瞳がまっすぐにこちらを見ている。
その優しさに触れた瞬間、涙腺が熱くなった。
(……ダメだ、泣きたくない)
ヴァイオレットはそっと上を向き、瞼を閉じた。
そして、静かに口を開いた。
「……私、秘密にしていたことがあります」
食卓が静まり返る。ヴァイオレットは、自らの秘密を語り始めた。
自分は「ヴァイオレット・グレンダリング」であり、公爵の私生児であること。
聖杯の儀でスキルを得たら、グレンダリング公爵に飼い殺されるという夢を見たこと。
そして、教会に忍び込み、スキルを得て逃げ出したこと。
しかし、リンドウィッチ公爵家に身分を知られ、ギルド長の娘となったこと。
しばしの沈黙の後、口を開いたのはテレンスだった。
「……ギルド長って、リンドウィッチ公爵家の人だったの?」
「今の話聞いて、気になるのはそこ?」
ヴァイオレットは思わず突っ込んだ。
テレンスは肩をすくめる。
「だって魔法がすごそうなのは何となく分かるし。」
「最初会ったときは襤褸を着てたよな」
「平民離れした容姿のくせに使用人してたとか、そのくせ金ももらったことないって聞いてあんまりだと思ったさ」
「……で、明日は何のメシ?」
その言葉を聞いた瞬間、涙があふれた。
抑えようとしても止まらない。
ヴァイオレットは声をあげて泣いた。
今度はもう、こらえなかった。