作品タイトル不明
第46話 社交の言葉は、学園より粘ります
王宮からの照会状。
差出人のない王宮評価。
婚約候補としての再計算。
この三つが同じ日に机へ乗った時点で、私は休憩を諦めた。
未処理の爆弾を抱えたまま飲むお茶ほど、味のしないものはない。茶葉に失礼だ。
私はロザリア様の部屋を辞し、その足で使用人用の控え室へ向かった。
学園の表側には教師と書記局がいる。
けれど、王都の空気を本当に知っているのは、だいたい裏側の人間だ。控え室、馬車寄せ、茶器棚の前、着替えの衝立の裏。上品な人々が上品な顔で落としていく本音は、床を掃く者の耳に溜まる。
控え室に入ると、数人の侍女が針仕事や茶器の整理をしていた。
手は動いている。目も動いている。口はもっと動いている。
「あら、エーデルフェルト家のお嬢様の侍女さん」
奥の椅子に腰掛けていた年長侍女が顔を上げた。
マーサさん。
王都屋敷勤めが長く、大貴族の茶会控えにも何度も出ている人だ。口は悪い。耳はいい。記憶力はもっと悪質にいい。
「お邪魔します」
「邪魔ではないわよ。ちょうど、あなたのお嬢様の噂をしていたところ」
「本人の侍女の前で堂々と」
「陰で言うより親切でしょう」
親切の形が針山である。
私は空いている椅子へ座った。
「王宮の照会状の件ですか」
「あら、早い」
「こちらも被害者ですので」
「被害者ねえ」
マーサさんは針を布に通しながら、口の端だけで笑った。
「エーデルフェルトのお嬢様、王宮側で名前が出るそうね」
「もうそこまで?」
「王都の噂は、漏れる前から染み出すのよ」
「嫌な言い方ですね」
「嫌なものだもの」
茶器を磨いていた若い侍女が、小さく頷いた。
「学園なら、朝に誰かが転んでも、昼には別の子の失敗で上書きされますものね」
「そう」
マーサさんは針先を止めずに言った。
「でも王都は違うわ。一度ついた染みを、十年後の縁談の書類にまで持ち越すの」
「十年」
「昔ね、ある伯爵令嬢が茶会で一度だけ返答を間違えたの。褒められて、“当然です”と答えた」
「……耳が痛い話ですね」
「心当たり?」
「かなり」
「その場では誰も責めなかったわ。皆、にこにこしていた。でも次の茶会では“気位が高い方”になっていた。その次には“扱いに少し配慮が必要な家”。数年後、縁談の下調べで“母子ともに気難しい傾向あり”と備考欄に残った」
「一度の返答で?」
「最初の一滴は小さいのよ。問題は、それを喜んで広げる布が山ほどあること」
私は思わず指を組んだ。
学園では、噂は走る。
王都では、噂は乾かない。
古いインクの膜みたいに、紙の繊維へ入り込み、後からどれだけ削っても薄く跡が残る。
「つまり、王都では最初からこぼさない準備が必要」
「そういうこと」
マーサさんは布を軽く払った。
「こぼした後の言い訳は高くつくわよ。下手をすると、本人ではなく家に請求が行く」
「家に」
「席順、招待状、紹介文、紹介される相手、縁談の釣書。言葉が、あちこちで姿を変えるのよ」
私は顔をしかめた。
「学園の記録は紙の上に残ります」
「王都は人の舌と家の帳簿に残るわ」
「最悪ですね」
「ええ。最悪よ。しかも本人の前では綺麗に言うの。“ご立派ですわ”“頼もしいですわ”“さすが公爵家のお嬢様ですわ”って」
「毒針にリボンを巻くのは、王都の作法ですか」
「必修科目ね」
吐き気がするほど面倒だ。
ロザリア様に言ったら、扇を閉じる音で返事をなさるだろう。たぶん、かなり大きい音で。
「忠告しておくわ」
マーサさんが、少しだけ声を低くした。
「あなたのお嬢様は今、王都では扱いにくい話題よ」
「なぜですか」
「悪く言っていた人間は、急に褒めにくい。褒めれば、自分が今まで何を見ていたのか問われる。だから、皆しばらく“様子見”という名の値踏みをする」
「値札は本人に見せない」
「そう。見せるのは笑顔だけ」
「笑顔の裏側に、家ごとの損益計算」
「若いのに話が早いわね」
「嫌な教育を受けていますので」
マーサさんは笑って、針仕事へ戻った。
「王都で一番怖いのは、悪口より褒め言葉よ」
「褒め言葉」
「悪口はまだ分かりやすい。でも褒め言葉は、相手の望む形へ相手を押し込む時にも使える」
「“さすが公爵家のお嬢様”と言われたら、公爵家らしく振る舞えという請求書がついてくる」
「その通り」
私はそこで立ち上がった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。お嬢様に伝えておきなさい。王都の褒め言葉は、たいてい裏に請求書が付いているって」
「すでに薄々お気づきです」
「なら優秀ね」
「お嬢様は優秀です。周囲の帳簿が腐っているだけで」
「あら、怖い侍女」
褒め言葉として受け取っておこう。たぶん、毒針ではない。今のところは。
控え室を出ると、学園の声が遠くから聞こえた。
ここでは噂は速い。走って、跳ねて、壁に当たれば別の話題に変わる。
王都の噂は、たぶん服についた香のように残る。
本人が部屋を出ても、誰かの袖に匂いだけが残る。そして後日、別の茶会でまた香る。
面倒だ。
だが、面倒という言葉で片づけるには、相手が粘りすぎる。
ロザリア様の部屋に戻ると、お嬢様は机の前で王宮照会状の写しを見ていた。
公爵家からの手紙、学園の奉仕祭記録、私の控え紙まで並んでいる。
机の上だけ見れば、小さな裁判所だ。
被告席に立つべき人間がまだ来ていないのが惜しい。
「遅かったわね」
「情報収集です」
「また侍女控え室?」
「はい」
「あなた、本当に裏口から世界を把握するのが好きね」
「表口は飾りが多くて見づらいので」
ロザリア様は呆れたように紙を置いた。
「それで?」
「結論から申し上げます」
「嫌な予感しかしないわ」
「お嬢様。王都では、学園より一言が長く残ります」
ロザリア様の指が、机の上で止まった。
「どういう意味」
「学園では、言葉は噂になります。王都では、噂が家の評価になります」
「……続けて」
「一度“扱いづらい”と置かれると、茶会の席順、紹介文、縁談の下調べにまで残ります。訂正には時間がかかります。相手は謝りません。なぜなら、噂の形にした時点で、責任者が消えるからです」
「最低ね」
「はい。最低です」
「噂が、紙より粘るのね」
「紙なら燃やせます。人の舌は燃やしにくいです」
「燃やそうとしないで」
「今のところは」
ロザリア様は椅子の背にもたれた。
「面倒ね」
「はい」
「本当に面倒ね」
「二度言うほどです」
「三度でも足りないわ」
私は新しい紙を取り出した。
ロザリア様が、その紙を見ただけで嫌そうな顔をする。
「また表を作るの」
「はい」
「増えすぎではなくて?」
「王都は、増やしてから潰す場所です」
「最初から潰して」
「無理です」
私は紙の上に表題を書く。
王都社交用 発言流通管理表
ロザリア様が目を細める。
「流通」
「はい。今後は、正しいことを言うだけでは足りません。誰に聞かれ、どの家へ持ち帰られ、どんな形で再利用されるかを見ます」
「頭が痛くなってきたわ」
「特にこの欄が重要です」
私は中央に大きく一つだけ書いた。
悪意ある加工予測
ロザリア様が沈黙した。
「何、その嫌すぎる欄」
「最重要項目です」
「具体的に何をするつもり」
「明日は一日、扇の開き方と閉じ方の角度を確認します」
「扇?」
「はい」
私は扇を指さした。
「王都では、お嬢様が息を吐くタイミングを一瞬間違えただけで、“不快を示した”“不敬である”“相手を見下した”と、あちら側が喜々としてラベルを貼りに来ます。扇の角度も証拠扱いされます」
「扇の角度まで?」
「もちろんです」
「社交界、暇なの?」
「暇な人間ほど噂に勤勉です」
ロザリア様は自分の扇を見下ろし、ものすごく嫌そうな顔をした。
「この子が急に凶器に見えてきたわ」
「使い方次第では凶器です」
「あなたに言われると洒落にならないのよ」
「では、明日の訓練予定に入れます」
「入れないで」
「入れます」
「命令よ」
「侍女としては承りますが、公文書としては却下します」
「あなた、また公文書になるのね」
「王都仕様です」
ロザリア様は額に手を当てかけて、途中でやめた。
その動作すら、王都では「疲労」「不快」「拒絶」のどれかに加工される可能性があると気づいたのだろう。
えらい。
もう毒に気づき始めている。
「逃げることもできます」
私はあえて言った。
ロザリア様が、ゆっくりこちらを見る。
「王都の席に出ない。学園内に留まる。体調不良や準備不足を理由にして距離を取る。選択肢としてはあります」
言いながら、少し嫌になる。
でも、選ばせずに進めるのは違う。
ロザリア様はしばらく黙った。
窓の外から、遠くの授業鐘が聞こえる。
部屋の中では、紙の角が机に触れる小さな音だけがした。
「逃げれば」
やがて、ロザリア様は言った。
「また誰かが、代わりにわたくしを説明するのでしょう」
私は何も言わない。
「悪く説明するか、良く説明するかは分からないけれど」
ロザリア様は続ける。
「どちらにしても、一方的ね」
彼女は机の上の王宮照会状を見た。
公爵家の手紙を見た。
最後に、私の新しい表へ視線を落とす。
「面倒ね。けれど、もう逃げる気もないわ」
その一言だけで十分だった。
私は新しい紙の端を指で押さえる。
逃亡予定なし、と書きたい衝動を、今回は飲み込んだ。怒られる未来があまりに鮮明だったからだ。
代わりに、次の項目を書く。
毒針と褒め言葉の判別。
扇の角度。
沈黙の長さ。
相手が持ち帰りやすい一文。
ロザリア様が、項目を見るたびに表情を曇らせていく。
「最後の一つ、何」
「こちらから持ち帰らせる言葉です」
「持ち帰らせる」
「はい。王都の方々は、どうせ何か持ち帰ります。なら、こちらで包んだものを持たせた方がいい」
「あなた、本当に性格が悪いわ」
「実務的です」
ロザリア様は、扇を閉じた。
今度は音が小さい。
さっそく調整したらしい。
よい。
とてもよい。
私はペン先を整え、王都社交用の欄を一つ増やした。
持ち帰らせる正解文。
「リネット」
「はい」
「また嫌な項目を増やしたでしょう」
「必要項目です」
「見せなさい」
「今はまだ未整備です」
「見せなさい」
「では、簡易案を」
私は少し考え、余白に書いた。
ロザリア・エーデルフェルトは、厳しい。だが、場を守るために厳しい。
ロザリア様はそれを見て、黙った。
「……悪くないわ」
「でしょう」
「でも、自分で言うには嫌ね」
「言わせません。相手に持ち帰らせます」
「どうやって」
「そこが腕の見せどころです」
私はペン先を、静かに研いだ。
王都社交用、流通管理表。
まずは褒め言葉と毒針の仕分け。次に、扇の角度。最後に、相手の舌へ載せる持ち帰り用の正解文。
お嬢様の正しさを、社交界のどぶ川みたいな舌に溶かされないよう、どう包み、どこで渡し、誰に運ばせるか。
考えるだけで、仕事が山ほどある。
私は笑いそうになる口元を、ペンで隠した。
さて。
まずは、王都で最初に毒針を差し出してくるお行儀のよい誰かを、こちらの言葉で解剖して差し上げましょう。