軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第45話 殿下は、今さら少し遅いです

廊下の空気は相変わらず不味い。

ただ、前方の障害物だけは様子が違った。

アルベルト殿下が、回廊の中央を空けて立っている。こちらの進路を塞がず、少し横へ寄り、ロザリア様が近づくのを待っていた。

ほう。

ようやく通行区分の規則を覚えたらしい。

「ロザリア」

殿下は、以前よりずっと丁寧に名を呼んだ。

「少し、話をしてもいいだろうか」

ロザリア様は足を止めた。

すぐには答えない。

「内容によりますわ」

すばらしい。

無条件通行許可ではない。門前払いでもない。相手に用件を出させる、たいへん正しい初動だ。

近くの令嬢たちは、資料の頁をめくるふりをしている。紙の音が遅い。盗み聞きにしても仕事が雑だ。

「奉仕祭の件だ」

殿下は言った。

「それから、僕自身の不備についても」

不備。

その単語だけは、少し評価してもいい。

ロザリア様は黙って続きを待った。

「奉仕祭の記録を読んだ」

殿下は、言葉を選ぶように続ける。

「君がどこを見て、何を判断していたか。ようやく確認した」

ようやく。

その言葉は、ロザリア様の前に置くには遅すぎる。

殿下も、それを分かっている顔だった。

謝罪という名の免罪符を自分に発行するのは、やめたらしい。自分の怠慢が作った負債を、ようやく手元の帳簿へ戻した人間の顔だ。

「僕は、君を古い資料の記述通りに運用していた」

殿下は言った。

「君自身という原本を一度も検品せず、噂と要約の写しばかりを信じていた。僕の目は、節穴というより、機能不全だったと言わざるを得ない」

回廊の端で、紙をめくる音が止まった。

今のところで止めないでいただきたい。

あなた方は仕事をしているふりを継続しなさい。下手なのだから。

ロザリア様は静かに殿下を見た。

「そうでしょうね」

ばっさり。

けれど、会話を切ったわけではない。

事実を事実として机に置いただけだ。

「殿下は、わたくしが何を見ていたかより、周囲がわたくしをどう呼ぶかをよくご覧になっていましたもの」

「……ああ」

「奉仕祭でようやく確認した、と言われましても」

ロザリア様は一拍置いた。

「殿下。今さら少し遅いです」

殿下は、まるで自分の発行した不渡り手形を突き返された役人のような、何とも言えない顔をした。

当然だ。

突き返されるだけのものを、これまで積み上げてきた。

それでも、殿下は目を逸らさなかった。

「遅い」

短く認める。

「君にそう言われるのは当然だ」

私は内心で、殿下の査定欄に極小の丸をつけた。

鉛筆で。

消せるように。

「今日ここへ来たのは、謝罪だけを置きに来たわけではない」

殿下は続けた。

「僕が謝って楽になるためなら、来るべきではないと思った」

ほう。

謝罪を自己満足の領収書にしない程度の分別は、どうやら残っている。

「では、何のために」

ロザリア様が問う。

「君の評価が王宮で扱われる」

殿下は、そこで懐から薄い封書を取り出した。

王宮の封蝋。

回廊の空気が、紙一枚分だけ重くなる。

「正式な召喚状ではない。まだ照会だ」

殿下は封書を差し出さず、ロザリア様に見える高さで止めた。

「奉仕祭記録について、王宮側の評価担当から照会が入った。君の行動記録と、これまでの婚約候補としての評価が噛み合わないらしい」

私は、袖の内側で指を動かした。

控え紙を出したい。今すぐ書きたい。だが、ここで出すとロザリア様に嫌な顔をされる。あと三呼吸だけ我慢する。

「噛み合わない、ですか」

ロザリア様は薄く言った。

「便利な言い方ですこと」

「ああ」

殿下は否定しない。

「王宮では今、君をどう扱うべきか揺れている。良い評価として喜ぶ者だけではない。これまでの記録を信じていた者ほど、今回の報告を扱いかねている」

「また、勝手に見方を変えるのね」

ロザリア様の声は冷たい。

「悪く見るのも、良く見るのも、どちらも一方的ですわ」

「そうだ」

殿下は答えた。

「だから、今度はその一方的な処理の中に、僕も無関係な顔で座っているわけにはいかない」

それは少しだけ、使える言葉だった。

守る、などと軽く言わない。

隣に立つ、などと甘く包まない。

自分も処理の側にいた人間だと認めている。

遅い。

足りない。

しかし、逃げ道に背を向けたことだけは確認できる。

「殿下が止められますの?」

ロザリア様が聞く。

「簡単には止められない」

「ずいぶん正直ですこと」

「嘘を言っても、君には見抜かれるだろう」

「ええ」

ロザリア様は即答した。

「たぶん、リネットが先に見抜きます」

なぜこちらへ矛先が来るのか。

「お嬢様」

「事実でしょう」

「おそらく」

殿下が苦笑しかけて、すぐに表情を戻した。

「今さらだと分かっている」

殿下は言った。

「けれど、これ以上は遅れたくない。君の名前が王宮側の席で出る前に、君へ知らせておくべきだと思った」

ロザリア様は封書を見た。

王宮の封蝋。

まだ開かれていないらしい。だが、封の端には一度運ばれた時についた擦れがある。すでに複数の手を経由している。つまり、殿下の言う通り、話は内側で動いている。

「奉仕祭の件だけ?」

「違う」

殿下の声が少し重くなる。

「婚約候補としての扱いも含まれる」

近くの令嬢の一人が、露骨に紙を落とした。

下手。

本当に下手だ。

ロザリア様は振り返らない。

「ずいぶん、話が早いのね」

「早すぎる」

殿下は言った。

「誰かが急がせている可能性がある」

そこまで言うのなら、ようやく少しは実務に近い。

私は我慢をやめて控え紙を取り出した。

王宮照会。

奉仕祭記録。

婚約候補評価。

誰かが急がせている。

書くべき項目が多すぎる。まったく、王宮の皆さまは人の昼下がりを台無しにするのが上手い。

「ロザリア」

殿下は改めて言った。

「僕は、王宮で君の話が出た時、古い記録をそのまま読み上げる側には回らない」

「それで?」

「君自身を見ずに作られた評価には、根拠を求める」

「根拠」

「原本。証言。時系列。誰が、どの記録を、どの順に用いたのか」

殿下は封書を見下ろした。

「今まで僕が怠った確認だ」

私は、鉛筆の丸をもう一つだけ濃くした。

ただし、まだ鉛筆だ。

ロザリア様はしばらく黙っていた。

そして、短く言う。

「……そう」

突き返していない。

受け取った。

第43話の研修成果が、こんなところで効くとは。

彼女は殿下を見据えたまま続ける。

「では、見ていてください」

「ロザリア」

「今度は、周囲の言葉ではなく、わたくしが何をするかを」

よし。

私は内心で、机を叩きたいほど満足した。

受領処理、成功。

しかも返答に主体性がある。

記録に残してよい水準。むしろ残すべきだ。

殿下も、その言葉を受け止めた。

「ああ」

静かに頷く。

「見る。逃げずに」

会話はそこで終わるかと思った。

けれど殿下は最後に、封書の端を指で押さえ、もう一つ爆弾を落とした。

「この照会状には、まだ差出人名が正式に出ていない」

「王宮からの照会なのに?」

「ああ。部署名だけだ」

「つまり?」

「誰が最初にこの件を持ち込んだのか、表に出ていない」

なるほど。

王宮という戦場は、遠くで幕を上げたのではない。

もう足元に紙を滑り込ませてきている。

ロザリア様が、静かに息を吐いた。

「面倒ね」

「そう思う」

「殿下がそう思うのなら、相当ね」

「だから、知らせに来た」

「今度は遅れないでください」

「ああ」

殿下は深く頷いた。

ロザリア様が歩き出す。

私は半歩後ろへ戻る。殿下はその場に立ったまま、こちらを見送っていた。

回廊の角を曲がったところで、ロザリア様がぽつりと言う。

「今さらね」

「はい」

「でも、逃げなかったわね」

「はい」

「そこだけは、少しましね」

「鉛筆で丸をつける程度には」

「鉛筆なの」

「消せるように」

「あなたらしいわ」

私は控え紙へ、殿下に見せない角度で書き足した。

王宮照会状。部署名のみ。差出人未記載。

婚約候補扱い、再計算の動きあり。

殿下、遅延案件。利息発生中。

ロザリア様が横から覗き込む。

「最後の一行、必要?」

「大変必要です」

「本人に見せないでちょうだい」

「薬になるかもしれません」

「やめなさい」

「検討します」

「やめなさい」

私は控え紙を閉じた。

殿下という不備は、まだ修正途中。

王宮という帳簿は、すでにこちらの足元まで侵食している。

いいでしょう。

まずは、部署名だけで照会を滑り込ませた卑怯者の筆跡から検品して差し上げます。