作品タイトル不明
第六話 鬼柴田の妻、猿を呼ぶ
寧々殿は、悪い女房ではない。
少なくとも、私はそう思わなかった。
八年。
十六で木下藤吉郎殿に嫁ぎ、二十四になるまで、ずっと女房でいたという。
子が宿らぬことを責められぬように笑い。
夫が外で女の気配をまとって帰ってきても、茶を出し。
家を出るべきではないかと思いながら、それでも帰る場所でいたいと願っていた。
悪い女房なものですか。
私は藤七丸を抱きながら、寧々殿の涙を見ていた。
泣くまいとしている人の涙だった。
けれど、堪えきれず落ちてしまった涙だった。
私は、その涙を知っている。
子が欲しい。
夫の子が欲しい。
家にいてよいのだと、自分で信じられる何かが欲しい。
そう思いながら、それでも誰にも言えず、自分だけを責める夜の重さを、私は知っている。
だから、寧々殿の苦しさは分かる。
分かる。
痛いほど分かる。
……分かるからこそ。
私は、にこりと笑った。
「於光様」
すぐそばに控えていた於光様が、静かに顔を上げる。
「はい」
「文をしたためます。信長様宛てです」
「承知しております」
承知しております?
そう思って振り返ると、そこにはすでに文箱と硯が用意されていた。
筆も。
紙も。
墨も。
すべて整っている。
於光様。
いつの間に。
「藤乃様がそのお顔をなさった時点で、必要かと思いまして」
「……ありがとうございます」
さすがである。
勝家様の姉君。
本当に頼りになる方だ。
寧々殿が、涙の残る顔で私と於光様を見比べている。
少し驚いているようだった。
無理もない。
今までしっとり話を聞いていたはずの相手が、突然、文をしたためると言い出したのだから。
だが、必要なことはすぐにやるべきである。
「それから、寧々殿に小豆の温熱布を。身体を温める薬草のお茶もお願いできますか」
「はい。すぐに用意いたします」
「寧々殿のお身体が冷えぬように。足元も」
「心得ております」
於光様はにこりと笑い、すぐに侍女へ指示を出してくださった。
「藤の方様」
寧々殿が、少し戸惑った声を出す。
「はい」
「私は、その……そこまでしていただくわけには」
「していただいてください」
「え」
「今は、していただいてください」
私はきっぱりと言った。
「泣いた後は、身体が冷えます。冷えはよくありません」
「冷え」
「はい。まず温めます」
寧々殿は、涙の残る顔のまま、少しだけ目を瞬いた。
「まず、でございますか」
「はい。まず、です」
そう。
まず温める。
まず茶を飲ませる。
まず飯を食わせる。
難しい話は、その後だ。
けれど、それとは別に。
木下藤吉郎殿には、戻ってきていただかねばならない。
女房に何も言わず、勝手に外で子を得ようとする。
そのこと自体も腹立たしい。
非常に腹立たしい。
こんな美人を差し置いて、どこかに愛人ですか。
いえ、戦国の世において、それが珍しい話ではないことは分かっている。
分かっている。
後継ぎが必要なことも分かる。
子ができない痛みも分かる。
家を続けるために、子を得ねばならないと思い詰める気持ちも、分からないとは言わない。
けれど。
だからといって。
女房に相談もなく、寧々殿を一人で傷つけてよい理由にはならない。
絶対に、ならない。
私は筆を取った。
藤七丸は、於光様が呼んでくださった侍女に少しだけ預けることにした。
藤七丸は少し不満そうに声を上げたが、於光様がすぐにあやしてくださる。
「少しだけお待ちくださいませ、若君。母君は今、猿を呼ぶ文を書いております」
猿を呼ぶ文。
言い方。
寧々殿が、涙の合間で少しだけ笑った。
よろしい。
笑えるなら、まだ大丈夫です。
私は墨を含ませ、紙へ筆を置いた。
信長様宛ての文である。
失礼があってはならない。
だが、言うべきことは言う。
『本日、義銀と琴、並びに木下藤吉郎殿をお呼びになられたため、木下殿の奥方、寧々殿を我が家にてお預かりしております。
つきましては、木下殿を寧々殿のもとへ戻したく、木下殿を勝家様に伴わせ、速やかに柴田邸へ戻らせるよう、厳命くださいませ。
木下殿を速やかに寧々殿のもとへ戻していただけますならば、本日の非礼は見逃します。
藤乃』
書き終えて、私は少しだけ息を吐いた。
うん。
短い。
分かりやすい。
要点も書いてある。
信長様なら、これで通じるでしょう。
於光様が横から文面を見て、少しだけ目を細めた。
「藤乃様」
「はい」
「本日の非礼は見逃します、でよろしいのですね」
「はい」
「信長様宛てで」
「はい」
「承知しました」
於光様は、それ以上何も言わなかった。
文を書き終える頃には、於光様が授乳の支度まで整えてくださっていた。
藤七丸は侍女の腕の中で、少しだけ不満そうに口を動かしている。
お待たせしましたね。
すぐに戻りますからね。
そう思いながら、私はまず文を畳む於光様を見た。
「すぐにお送りしますか?」
「いいえ」
私は笑顔のまま答えた。
「勝家様に直接届けていただきます」
於光様は一瞬だけ瞬きをした。
それから、静かに頷く。
「承知しました」
寧々殿は、小さく息を呑んだ。
「柴田様が、直接……?」
「はい」
「そのような、大事に」
「なっています」
私は、きっぱりと言った。
「大事にします」
寧々殿は、また言葉を失った。
その顔には、戸惑いと、恐れと、少しだけ別の感情があった。
自分のために誰かが怒っていることに、どう反応してよいか分からない顔だ。
私も、そうだったことがある。
自分が悪いと思い込んでいる時に、誰かが代わりに怒ってくれると、驚く。
なぜ怒ってくれるのか分からない。
そんなことをされる資格があるのかと思ってしまう。
けれど、寧々殿。
貴女は、怒られてよい側ではありません。
守られてよい側です。
しばらくして、勝家様が部屋へ戻ってきた。
藤七丸を抱いている時とは違う、いつもの大きな足取りである。
けれど、部屋に入る前に一度だけ足を止めた。
中の空気を察したのだろう。
「藤乃」
「はい、勝家様」
「呼んだか」
「はい」
私は文を差し出した。
「この文を、信長様へ届けていただけますか」
勝家様は文を受け取った。
文を読み、少しだけ眉を動かした。
それから、低く言った。
「信長様は笑うな」
「笑っていただけるなら何よりです」
「信行様は胃を押さえる」
「それは申し訳なく思います」
それから、私を見た。
「怒っておるな」
「はい」
私は、にこりと笑った。
「物凄く怒っております」
寧々殿が、隣で小さく肩を震わせた。
勝家様は、ふっと口元を緩めた。
本当に、ほんの少し。
けれど、私には分かった。
笑いましたね、勝家様。
「承知した」
「それから」
「うむ」
「木下殿にお伝えください」
勝家様は、黙って続きを待つ。
私は笑顔のまま言った。
「私が、物凄く怒っていると」
勝家様は、もう一度、ほんのわずかに笑った。
「承知した」
「あと、寧々殿をお返しするかどうかは、木下殿の出方次第です」
寧々殿が、はっとこちらを見る。
「藤の方様」
「はい」
「そのようなことをすれば、藤吉郎様が」
「来ます」
勝家様が短く言った。
寧々殿が勝家様を見る。
「猿は来る」
「柴田様」
「来なければ、某が連れてくる」
その声があまりに当然のようだったので、寧々殿は完全に言葉を失った。
私は、少しだけ胸がすっとした。
そう。
来ていただきましょう。
女房を一人で泣かせておいて、来ないという選択肢はありません。
勝家様は文を懐に入れた。
「行ってくる」
「お願いいたします」
「うむ」
勝家様は寧々殿へ視線を向けた。
「寧々殿」
「はい」
「ゆるりと待て」
その言葉は短かった。
けれど、寧々殿の目が揺れた。
「……はい」
勝家様はそれだけ言うと、部屋を出ていった。
襖が閉まる。
部屋の中には、私と寧々殿、於光様、そして藤七丸が残された。
私は侍女から藤七丸を受け取り、授乳のために屏風の内へ入った。
藤七丸は、待たされた分だけ少し不機嫌そうに声を上げたが、すぐに乳を探して落ち着いた。
小さな口が動く。
小さな手が、私の衣を握る。
私は藤七丸の背をそっと撫でながら、屏風の向こうの気配を聞いた。
於光様が、寧々殿へ小豆の温熱布と薬草茶を用意してくださっている。
「寧々殿、こちらを膝に」
「これは」
「温めた小豆を布で包んだものです。熱すぎればすぐに仰ってください」
寧々殿が、恐る恐る受け取る気配がした。
しばらくして、小さな声が落ちる。
「温かい……」
「はい。お腹や腰、足元を冷やさぬようにしてください」
「このようなものが」
「小豆は便利です」
私は屏風の内から頷いた。
「食べてもよし、温めてもよし」
於光様が、ほんの少し笑った気配がした。
「藤乃様は、すぐに食べ物の使い道を増やされますね」
「無駄にはできませんので」
「存じております」
於光様はにこりと笑っているのだろう。
声だけで分かる。
やがて藤七丸は、少し落ち着いた。
お腹が満ちたのか、また眠りに落ちかけている。
私は衣を整え、藤七丸の背をそっと撫でた。
於光様が屏風を少しずらし、私が座へ戻れるようにしてくださる。
本当に、ありがたい。
私は藤七丸を抱いたまま、寧々殿の前へ戻った。
寧々殿は、小豆の温熱布を膝に置き、薬草茶を両手で持っていた。
一口飲んだのか、少しだけ眉が下がっている。
「苦いですね」
「薬草ですので」
「はい」
「でも、身体は温まります」
「……はい」
寧々殿は、もう一口飲んだ。
私は藤七丸を抱きながら、寧々殿の向かいに座る。
さて。
怒りの文は出した。
木下殿は呼ぶ。
信長様には非礼を見逃す条件も出した。
勝家様も動いた。
では、今度はこちらだ。
「寧々殿」
「はい」
「少し、身体のことを伺ってもよろしいですか」
寧々殿は、緊張したように背筋を伸ばした。
「はい」
「月の障りは、規則的に来ますか?」
寧々殿の顔が、少し赤くなった。
無理もない。
人前で話すことではない。
けれど、ここにいるのは私と於光様だけだ。
於光様は静かに控え、必要以上に口を挟まない。
寧々殿は、少し戸惑いながらも答えた。
「おそらくは……来ていると思います」
「日取りを記したことは?」
「考えたこともありませんでした」
「では、次から記しましょう」
私はすぐに言った。
寧々殿は目を瞬く。
「記す、のですか」
「はい。いつ始まったか。何日続いたか。次にいつ来たか」
「そのようなことまで」
「大事です」
私は真面目に頷いた。
「子を望むなら、まず身体の流れを知りましょう」
寧々殿は、小豆の温熱布へ視線を落とした。
「……失礼な話ですが」
「はい」
「月の障りは、昨日終わったところで」
私は動きを止めた。
昨日終わった。
終わった日ではない。
大事なのは、たしか、始まった日。
始まった日から数えるのでしたよね。
ええ。
たぶん。
たぶんですけれど、大事なのは記録です。
「始まったのは、いつですか?」
寧々殿は少し考えた。
「五日ほど前だったかと」
「では、まずその日を一日目として記しましょう」
「一日目」
「はい。今日から次の月の障りまでの日数も数えます」
「次まで」
「はい。次に来た日も記します。何日続いたかも」
「……はい」
寧々殿は、まだ戸惑っている。
無理もない。
そんなことを記せと言われたことなどなかったのだろう。
私だって、詳しいわけではない。
正直なところ、うろ覚えも多い。
けれど、うろ覚えでも、何も考えずに苦しむよりはましだ。
分からないなら、記す。
記せば、見えるものがある。
帳面と同じである。
米も、兵糧も、人手も、月の障りも。
見えないものは、まず記す。
「寧々殿」
「はい」
「これは、貴女だけが頑張る話ではありません」
寧々殿が、ゆっくり顔を上げた。
「木下殿にも、きちんと協力していただきます」
「藤吉郎様にも」
「はい」
「でも、そのようなことを」
「夫婦のことです」
私は、藤七丸の背を撫でながら言った。
「子を望むのなら、女だけの問題にしてはいけません」
寧々殿は、唇を結んだ。
その目には、不安がある。
けれど、先ほどまでのように一人で沈んでいる目ではなかった。
少なくとも、何かを聞こうとしている目だった。
「まずは、身体を温めます」
「はい」
「食事を見直します」
「はい」
「月の障りの日取りを記します」
「はい」
「そして、木下殿と話します」
寧々殿の肩が、少し強張った。
「……はい」
「怖いですか」
問うと、寧々殿は小さく頷いた。
「怖いです」
「でしょうね」
私は頷いた。
「ですが、話さねば伝わりません」
「はい」
「泣いても構いません」
寧々殿が私を見る。
「怒っても構いません」
「怒っても」
「はい」
私はにこりと笑った。
「むしろ、一度くらい怒った方がよろしいかと」
於光様が、横で静かに茶を注ぎ足してくださる。
「藤乃様」
「はい」
「ほどほどに」
「心得ております」
寧々殿が、少しだけ笑った。
よかった。
また笑えた。
「藤の方様」
「はい」
「私、怒れるでしょうか」
「怒れなければ」
「はい」
「私が代わりに怒ります」
寧々殿は、今度こそ声を漏らして笑った。
涙の跡がまだ頬に残っている。
けれど、笑っている。
それでよい。
まずは、それでよい。
「ただし」
私は少しだけ声を落とした。
「この先どうするかは、木下殿の出方次第です」
寧々殿の笑みが、少し緊張に変わる。
けれど、もう逃げるような顔ではなかった。
「はい」
「木下殿が、貴女と向き合うならよし」
「はい」
「逃げるなら、捕まえます」
「捕まえる」
「はい」
「藤吉郎様を」
「はい」
私は真面目に頷いた。
「猿ですから、逃げ足は速そうですが」
寧々殿は、目を丸くした。
それから、堪えきれないように笑った。
於光様も、口元を隠している。
藤七丸が、私の腕の中で小さく声を上げた。
まるで、笑い声につられたようだった。
私は藤七丸を抱き直しながら、寧々殿へ言った。
「大丈夫です」
「はい」
「勝家様が呼びに行きました」
「……はい」
「鬼柴田からは、猿も逃げられません」
寧々殿は、小豆の温熱布を膝に置いたまま、ゆっくりと頷いた。
その顔には、まだ不安がある。
怖さもある。
けれど、ほんの少しだけ、温まったように見えた。
身体だけではなく。
心も、ほんの少し。
ならば、今はそれで十分だ。
私は藤七丸の背を撫でながら、静かに息を吐いた。
さて。
木下殿。
お戻りをお待ちしております。
鬼柴田の妻は、猿を呼びました。
あとは、猿の出方次第です。