軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七話 逃げても解決はせぬぞ、猿

木下藤吉郎は、今日も走っていた。

いや、実際に足で走っていたわけではない。

信長様の御前で、本当に走るほど命知らずではない。

だが、頭の中は走っていた。

道のこと。

荷のこと。

人の動きのこと。

どこで詰まり、どこで余り、どこへ回せば早いか。

信長様は、こちらが少しでも詰まれば、容赦なく次の問いを投げてくる。

だから、考えなければならない。

走るように。

転ばぬように。

息を切らさぬように。

「では、その荷は川沿いで一度分けた方が早いと申すか」

信長様が問う。

儂は、頭を下げた。

「はっ。道が細うございますので、一度に押し込めば詰まります。ならば途中で分け、軽くして運ばせた方がよろしいかと」

「人は足りるか」

「足りませぬ」

「では駄目ではないか」

「そこで、荷を持たぬ者に持たせます」

「誰だ」

「今、戻りの荷が空になっております者たちにございます。帰り道を空で歩かせるより、少しでも持たせた方がよろしいかと」

信長様の口元が、少し上がった。

「なるほどな。空の手を空のままにせぬか」

「空の手にも飯代はかかりますので」

言った瞬間、隣にいた義銀殿がわずかにこちらを見た。

しまった。

言い方が少し軽かったか。

けれど信長様は笑った。

「お藤のようなことを言う」

「ひぇっ」

思わず変な声が出た。

藤の方様の名が、なぜここで。

義銀殿が、少しだけ口元を押さえている。

「木下殿、そこは怯えるところなのですか」

「義銀殿。藤の方様のお名前が信長様の口から出ると、何か帳面を見られている気になりませぬか」

「分からなくはありません」

「義銀」

信長様が楽しそうに言った。

「お前もそう思うか」

義銀殿は、すっと目を伏せた。

「藤乃叔母上の帳面は、時に信長様のお言葉よりも逃げ場がございませんので」

「言うようになったな」

信長様は機嫌よく笑っておられた。

儂も笑った。

笑って、また頭を回した。

この場は、仕事の場だ。

新しい斯波家を立てた義銀殿は、信長様の下でよく働いている。

元守護家の若君などと見られることもあるが、実際に話してみると、ただの名だけの方ではない。

よく見る。

よく考える。

こちらの言葉を拾い、信長様の問いの意味をすぐに測る。

儂のように飛び回る者とは違う。

けれど、義銀殿もまた、信長様の下で使われる者の顔をしていた。

琴殿――いや、お琴様は帰蝶様のところへ呼ばれている。

信長様の文には、義銀殿と儂、そしてお琴殿も参れとあった。

新しい斯波家へ挨拶に行ったはずが、気が付けば信長様の御前で仕事の話をしている。

何がどうしてこうなったのか。

儂にも分からぬ。

いや、分かる。

信長様だからだ。

信長様だから、そうなった。

それで大抵のことは説明できる。

「猿」

「はっ」

信長様に呼ばれ、儂はすぐに顔を上げた。

「お前、このあたりの人の流れも見ておけ」

「はっ。すぐに」

「義銀、お前は文の方だ」

「承知しました」

義銀殿が頭を下げる。

儂も続く。

その時だった。

廊下の向こうから、人の気配がした。

それだけなら珍しいことではない。

信長様のもとには、常に人が来る。

文も来る。

報告も来る。

叱られに来る者もいる。

だが、その時の気配は少し違った。

控えていた者が、いつもより硬い声で告げた。

「柴田様がお見えになられました」

柴田様。

権六殿。

儂は、反射的に背筋を伸ばした。

信長様の表情が、少しだけ楽しげになる。

義銀殿は、わずかに目を細めた。

嫌な予感がした。

いや。

まだ何も起きていない。

権六殿が来ただけである。

柴田勝家殿。

鬼柴田。

信長様の重臣。

藤の方様の夫。

そして、時々、何も言わずに場の空気を重くする方。

襖が開く。

権六殿が入ってこられた。

大きい。

いつ見ても大きい。

そして、今日の顔は、かなり怖い。

その視線が、儂に向いた。

儂は、反射的に口を開いた。

「そ、それがし、何か粗相をいたしましたか!?」

義銀殿が、隣で小さく咳き込んだ。

信長様が声を立てて笑った。

権六殿は笑わなかった。

まったく笑わなかった。

え。

本当に何かしましたか。

儂は、今日、新しい斯波家へ挨拶に行っただけである。

義銀殿とお琴殿に挨拶し、寧々も連れていき、きちんと頭を下げた。

その後、信長様に呼ばれた。

来いと言われたから来た。

それだけである。

それだけ、のはずである。

権六殿は、じっと儂を見た。

その目が、戦場のものではないのに、逃げ道を塞ぐような重さを持っていた。

「某から言えることは……逃げても解決はせぬぞ、猿」

儂の笑顔が固まった。

「権六殿!?」

声が裏返った。

今のは。

今の言葉は。

何の話でございますか。

逃げる?

儂が?

何から?

いや。

待て。

思い当たることが、ないわけではない。

ないわけではないから、余計に困る。

寧々。

その名が、胸の奥に浮かんだ。

儂は、すぐに笑おうとした。

いつものように。

大げさに首を傾げて、何のことでございましょう、と笑えば、場は少し軽くなる。

そう思った。

けれど、権六殿の目を見た瞬間、笑えなかった。

信長様が、権六殿の手元を見た。

「文か」

「はっ」

権六殿は、懐から文を取り出して差し出した。

「藤乃より、信長様へ」

「お藤からか」

信長様は、実に楽しそうに文を受け取った。

楽しそうに。

本当に楽しそうに開いた。

儂は、その楽しそうな顔を見て、さらに嫌な予感がした。

藤の方様からの文。

権六殿が直接持ってきた文。

そして、逃げても解決はせぬぞ、猿。

これは。

これは、たぶん。

儂は、無意識に膝の上で手を握っていた。

信長様が文を読み上げる。

「『本日、義銀と琴、並びに木下藤吉郎殿をお呼びになられたため、木下殿の奥方、寧々殿を我が家にてお預かりしております』」

信長様の口元が上がった。

儂は息を止めた。

寧々が、柴田邸に。

お預かり。

なぜ。

いや、なぜではない。

儂がこちらへ来たからだ。

義銀殿も、お琴殿も、こちらへ呼ばれたからだ。

寧々だけが、残された。

そのことに、今さら気づいた。

今さら。

「『つきましては、木下殿を寧々殿のもとへ戻したく、木下殿を勝家様に伴わせ、速やかに柴田邸へ戻らせるよう、厳命くださいませ』」

信長様の肩が震えた。

笑っておられる。

笑っておられるが、儂は笑えない。

義銀殿も、すっと目を伏せている。

たぶん、笑っている場合ではないと思っている。

いや、義銀殿の場合、少しだけ申し訳なさもあるのかもしれない。

「『木下殿を速やかに寧々殿のもとへ戻していただけますならば、本日の非礼は見逃します。藤乃』」

読み終えた信長様は、とうとう声を立てて笑った。

「本日の非礼は見逃します、か。お藤め、相変わらず面白い女よ」

面白い。

面白いのでしょうか。

儂は今、笑えませぬ。

権六殿が、真顔で言った。

「信長様。藤乃の手紙の通り、猿を寧々殿のところに返さねば、怒ります」

「もう怒っておるではないか」

信長様が笑う。

「お藤は怒らせると怖いからな。よいよい、猿を連れて帰れ」

「はっ」

権六殿が頭を下げる。

儂は、思わず口を開いた。

「お、お待ちくださいませ!」

三人の視線が、こちらへ向いた。

信長様。

権六殿。

義銀殿。

そして、いつの間にか少し離れたところに来ていた信行様。

え。

信行様、いつから。

「猿」

信長様が楽しそうに呼ぶ。

「はい」

「何だ。帰りたくないのか」

「いえ! 帰りたくないわけではございませぬ!」

「では帰れ」

「はい!」

返事はした。

したが、足が動かない。

寧々が柴田邸にいる。

藤の方様が怒っている。

権六殿が迎えに来た。

逃げても解決はせぬ、と言われた。

これは、どう考えても、ただ寧々を迎えに行くだけの話ではない。

儂の胸の奥が、じわじわと冷えていく。

寧々は、何か話したのだろうか。

藤の方様に。

何を。

どこまで。

儂が外で女を抱いていることか。

後継ぎを得ねばならないと、あちらこちらへ顔を出していることか。

寧々に何も言わず、笑って誤魔化していることか。

いや。

待て。

儂は、寧々を苦しめたいわけではない。

あの女を嫌ったわけではない。

むしろ。

むしろ、寧々だからこそ。

寧々を責められぬように。

誰かに、三年宿らぬ女は家を出よなどと言われぬように。

どこかで子ができれば、寧々を出さずに済むのではないかと。

そう思って。

思って。

だが、権六殿の言葉が、胸に刺さった。

逃げても解決はせぬぞ、猿。

儂は、逃げていたのか。

寧々から。

話すことから。

寧々の目を見ることから。

「猿」

権六殿の低い声で、儂は我に返った。

「はい」

「行くぞ」

「……はい」

義銀殿が、申し訳なさそうにこちらを見る。

「木下殿」

「義銀殿」

「寧々殿には、大変失礼をいたしました。私からも後ほどお詫びを」

「いえ、義銀殿が悪いわけでは」

「いいえ。迎える側として、十分な手が打てませんでした」

義銀殿は、そう言って頭を下げた。

儂は慌てた。

「頭を上げてくだされ! 信長様のお呼びでございますし、儂もこちらへ来たのですから」

「それでも、寧々殿を不安にさせたのは事実です」

義銀殿の声は静かだった。

その静けさが、儂の胸にまた刺さる。

寧々を不安にさせた。

儂は、何度そのことから目を逸らしてきたのだろう。

その時、信行様が信長様の手元の文を見て、ゆっくりと眉を寄せた。

「ところで兄上」

「何だ、勘十郎」

「この手紙を見るに……義銀とお琴は、藤吉夫妻を迎えていたところを連れていかれたように思われるのですが?」

信長様は、けろりとした顔で言った。

「それがどうした?」

空気が止まった。

儂は、思わず信行様を見た。

信行様の眉間に、深い皺が刻まれている。

あ。

これは。

これは、信行様が怒る時の顔である。

義銀殿も、そっと目を伏せた。

権六殿は黙っている。

信長様だけが、楽しそうだった。

「礼儀というものをお考えください!」

信行様の声が響いた。

儂は、反射的に背筋を伸ばした。

怒られているのは儂ではない。

今は信長様である。

けれど、なぜか儂まで背筋が伸びた。

「木下夫妻は、新しい斯波家へ挨拶に来ていたのでしょう! その場で当主夫妻と夫をまとめて呼び出せば、奥方だけが残されるのは当然ではありませんか!」

「お藤が預かったのだから問題なかろう」

「その前段階が問題なのです!」

信行様は、額を押さえた。

「兄上は、結果が整えば道中の乱れを気にされなさすぎる!」

「言うようになったな、勘十郎」

「私が言わねば誰が言うのです! 兄上を叱るのは最早私の仕事になっているではありませんか!」

「ははっ! 頼もしい限りだ!」

「兄上!!」

信長様は楽しそうに笑っている。

信行様は本気で怒っている。

権六殿は黙って頷いている。

義銀殿は、目を伏せたまま肩を震わせている。

儂は、どうしてよいか分からず、ただ小さくなっていた。

この場は、怖い。

信長様に怒られるのも怖いが、信行様が信長様を怒る場に居合わせるのも、なかなかに怖い。

いや、面白い。

少し面白い。

しかし今は笑えない。

儂には、寧々のもとへ戻るという大仕事が待っている。

信行様は、深く息を吐いてから、こちらを見た。

「木下殿」

「はっ」

「寧々殿へは、こちらからも詫びを入れます」

「そのような」

「必要です。客として招かれた先で、このような形になったのですから」

信行様は、きっぱりと言った。

「ですが、まずは木下殿が戻るべきでしょう」

「……はい」

「お藤の方が怒っておられるなら、逃げても無駄です」

儂は、思わず信行様を見た。

信行様は真顔だった。

「逃げておりませぬ」

「では、戻りなさい」

「……はい」

逃げていない。

そう言いたかった。

言いたかったが、喉の奥で止まった。

本当に逃げていないのか。

そう問われると、答えられなかった。

信長様が、儂を見て笑った。

「猿」

「はい」

「お藤に喰われぬようにな」

「信長様!?」

「まあ、寧々を泣かせたなら、多少は喰われてこい」

ひどい。

ひどいお言葉である。

けれど、信長様の目は笑っているだけではなかった。

儂の逃げ場をなくす目だった。

「行け」

「はっ」

儂は頭を下げた。

権六殿が、すでに立っている。

逃げられない。

いや、逃げるべきではない。

そのことは、もう分かっていた。

部屋を出る直前、義銀殿が小さく声をかけてきた。

「木下殿」

「はい」

「寧々殿は、藤乃叔母上のところにおります」

「はい」

「叔母上は、怒る時ほど茶を出します」

儂は、思わず顔を上げた。

「それは、どういう意味で」

義銀殿は、少しだけ困ったように笑った。

「逃げ場をなくすという意味です」

儂は、今度こそ青ざめた。

茶。

温かい茶。

藤の方様。

逃げ場。

全部が繋がってしまった。

権六殿が低く言う。

「猿」

「はい」

「行くぞ」

「はい……」

廊下へ出る。

権六殿の足取りは大きい。

儂はその横を、小走りにならぬよう必死に合わせた。

信長様の御前を出たのに、なぜか戦場へ向かうような心持ちだった。

いや、戦場の方がまだましかもしれない。

敵は見える。

槍も持てる。

逃げ道も探せる。

だが、これから向かう先にいるのは、寧々である。

そして、藤の方様である。

権六殿は前を向いたまま、ぽつりと言った。

「猿」

「はい」

「寧々殿は泣いておったそうだ」

足が止まりかけた。

権六殿は止まらない。

儂は慌ててついていく。

「……泣いて」

「うむ」

寧々が。

泣いた。

儂の女房が。

いつも笑っている寧々が。

儂が帰れば茶を出し、今日は何があったのかと聞き、儂のくだらぬ話にも笑ってくれる寧々が。

泣いた。

胸の奥が、ずしりと重くなった。

「某から言えることは、一つだ」

権六殿は言った。

「はい」

「逃げるな」

短い言葉だった。

それだけだった。

けれど、十分だった。

儂は、ゆっくりと息を吐いた。

逃げても解決はせぬ。

逃げるな。

どちらも同じことを言っている。

儂は、何から逃げていたのか。

寧々と向き合うことか。

子ができぬことか。

自分がまだ家を持つには足りぬ男だと認めることか。

それとも。

寧々を傷つけていると分かっていた自分自身か。

「権六殿」

「うむ」

「寧々は、怒っておりましたか」

権六殿は、少しだけ考えた。

「藤乃が怒っておった」

「それは分かりました」

「寧々殿は、泣いておった」

「……はい」

「怒るかどうかは、これからだろう」

儂は、何も言えなかった。

これから。

そうだ。

これからなのだ。

寧々が何を言うのか。

儂が何を言うのか。

まだ何も始まっていない。

逃げ続けていたから、始まってすらいなかった。

儂は、拳を握った。

手のひらに汗が滲む。

「猿」

「はい」

「寧々殿を泣かせたなら、詫びよ」

「……はい」

「だが、ただ詫びるだけでは足りぬ」

「はい」

「話せ」

その言葉に、儂は顔を上げた。

権六殿は、前を向いたままだった。

「女房に、話せ」

鬼柴田。

無骨で、言葉少なで、戦場の人。

そう思っていた。

けれど、その短い言葉は、やけに胸に刺さった。

「……はい」

儂は、今度こそ深く頷いた。

信長様の御前から出る時よりも、ずっと重い気持ちだった。

けれど、どこかで、ほんの少しだけ息ができる気もした。

寧々のところへ行く。

逃げるためではなく。

話すために。

その日、木下藤吉郎は、戦場へではなく、己の女房の前へ連れて行かれることになった。

鬼柴田に、首根っこを掴まれるようにして。

逃げ道のない、女房のもとへ。