作品タイトル不明
第五話 猿の女房
寧々は不思議な気分でそこにいた。
藤の方様の腕の中で、若君が小さく身じろぎをした。
藤七丸様。
柴田勝家様の御子。
鬼柴田と呼ばれる方の、実の若君。
まだ、本当に小さい。
目を閉じて、柔らかな頬をして、時折小さな口を動かす。
何もできない赤子なのに、その場にいる大人たちの心を、簡単に持っていってしまう。
先ほどまで、柴田様は藤七丸様を抱いておられた。
戦場で名を馳せる鬼柴田。
信長様のため、信行様のため、槍を振るい、兵を動かす方。
その方が、赤子を抱く腕だけは、まるで壊れ物を扱うように慎重だった。
そのお姿を見た時、胸の奥がきゅっと痛んだ。
藤吉郎様にも。
あの人にも、こんな顔をさせてあげたかった。
そう思ってしまったからだ。
藤七丸様が、もう一度小さく声を漏らす。
藤の方様はすぐに若君の背を撫でた。
「そろそろお乳ですね」
その声は、とても自然だった。
子を抱く母の声だった。
柴田様は、藤七丸様を見つめていた。
けれど、ふと私と藤の方様を見比べると、静かに立ち上がられた。
「お藤」
「はい」
「儂は少し外す」
多くを聞く場ではないと、察してくださったのだろう。
藤の方様は、ほんの少しだけ目を伏せ、それから小さく頷いた。
「ありがとうございます、勝家様」
「うむ」
柴田様は、私へ一度だけ視線を向けた。
「寧々殿」
「はい」
「ゆるりとされよ」
短い言葉だった。
けれど、その声は不思議と温かかった。
私は深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
柴田様はそれ以上何も言わず、静かに部屋を出ていかれた。
襖が閉まる。
部屋の中には、藤の方様と、藤七丸様と、私だけが残された。
女だけの場になった。
それだけで、胸の奥に張っていた糸が、少しだけ緩んだ気がした。
藤の方様は、藤七丸様をあやしながら、私を見ていらした。
その目は、責めるものではない。
探るものでもない。
ただ、気づいてしまった人の目だった。
「寧々殿」
「はい」
「差し支えなければ、少しだけ、お話を聞かせていただけませんか」
私は、すぐに返事ができなかった。
言葉が喉の奥に引っかかる。
何を。
どこまで。
誰に。
話せばよいのか分からなかった。
けれど、柴田様が席を外してくださったことで、ここがただの客間ではなくなったことだけは分かった。
ここは、女が胸の内を少しだけ下ろしてもよい場所なのだと。
そう思ってしまった。
私は、木下藤吉郎の女房である。
藤吉郎様は、信長様に猿と呼ばれている。
そう呼ばれても、あの人は笑う。
走り回る。
頭を下げる。
怒られれば大げさに落ち込み、褒められれば子供のように喜び、また次の仕事へ飛び出していく。
人懐こく、よく笑い、よく喋る。
軽い男だと思われることもある。
調子がよい男だと言われることもある。
身分の低さを笑われることもある。
それでも、あの人は前へ進む。
私は、そんなあの人を誇らしく思っていた。
思っている。
今でも。
先ほど、柴田様が仰った。
猿は、よく働く。
よく動く。
よく見る。
よく拾う。
軽いだけの男ではない。
その言葉が、どれほど嬉しかったか。
私は、きっと顔に出ていたと思う。
藤吉郎様は、私に仕事の話をあまりなさらない。
帰ってくると、今日は誰に怒られたとか、信長様がまた猿と呼んだとか、飯がうまかったとか、そんな話ばかりをする。
おどけるように。
私を笑わせるように。
けれど、本当は、外でどれほど走っているのか。
どれほど頭を下げているのか。
どれほど軽く見られながら、それでも役目を拾いにいっているのか。
私は、あまり知らなかった。
だから、柴田様に褒めていただけたことが嬉しかった。
鬼柴田と呼ばれる方が、夫を見てくださっていた。
軽いだけの男ではないと、言ってくださった。
そのことが、胸に染みるほど嬉しかった。
なのに。
嬉しいと思った次の瞬間、私はまた苦しくなった。
そんな夫に、私は何を返せているのだろう。
私は、十六で藤吉郎様に嫁いだ。
そして、今は二十四になる。
八年。
八年、私はあの人の女房でいる。
けれど、私の腹には、まだ一度も子が宿らない。
三年宿らぬ女は家を出よ。
誰が最初に言ったのかは覚えていない。
けれど、その言葉はどこにでもあった。
女たちの間に。
男たちの口に。
何気ない会話の端に。
笑い話のように。
忠告のように。
当たり前の決まりのように。
三年宿らぬ女は家を出よ。
私は、それを聞くたびに笑っていた。
そうならぬよう、早く子を授かりたいものですね、と。
まだ若いから、と。
そのうち、と。
藤吉郎様は気にしておりませんから、と。
笑ってやり過ごしていた。
けれど、三年は過ぎた。
四年も、五年も、六年も過ぎた。
気づけば八年。
もう、そのうち、では済まなくなっていた。
膝の上の手に、知らず力が入っていた。
茶はまだ温かいはずなのに、指先だけが冷えている。
それでも、私は家を出ていない。
一歩を踏み出せない。
出なければならないのではないかと、何度も思った。
私がいるから、藤吉郎様に子ができないのではないか。
私が退けば、あの人は別の女を迎え、子を得られるのではないか。
そう考えたことは、一度や二度ではない。
けれど、私は出られなかった。
藤吉郎様の女房でいたかった。
あの人の帰る場所でいたかった。
あの人が、へらへらと笑いながら帰ってきて、今日も怒られたと話すのを聞いていたかった。
ずるい女だと思う。
藤吉郎様に子を抱かせてあげられないのに。
あの人の家を続ける子を産めないのに。
それでも私は、あの人の隣にいたいと思ってしまう。
あの人の心が、少しずつ離れているのではないかと思うことがある。
帰りが遅い日。
いつもと違う匂いをまとっている日。
女の香の匂い。
衣に残った白粉の気配。
見慣れない結び目。
隠しているつもりなのかもしれない。
あるいは、隠すほどのことではないと思っているのかもしれない。
けれど、女には分かる。
女房には、分かってしまう。
藤吉郎様は、あちらこちらで女を抱いている。
そういう日の藤吉郎様は、少し不機嫌だった。
妙に口数が少なく、私が茶を出しても、どこか上の空で。
いつものようにおどけて笑うことも少なくて。
私は、その顔を見るたびに思ってしまう。
あの人は、他の女の温もりを忘れたくないのではないか。
私の前に戻ってきても、心はまだ、別の女のところに残っているのではないか。
もし、その女の腹に子が宿れば。
もし、その子が藤吉郎様の後継ぎになれば。
私は、何のためにここにいるのだろう。
そう気づいた時、怒ればよかったのだろうか。
泣けばよかったのだろうか。
責めればよかったのだろうか。
けれど、私の中で最初に浮かんだのは、怒りではなかった。
申し訳なさだった。
ああ。
私が産めないからだ。
私の腹に宿らないから、あの人は別の女の温もりを手放せずにいるのだ。
そう思ってしまった。
思ってしまう自分が、嫌だった。
悔しい。
悲しい。
苦しい。
それなのに、どこかで納得してしまう。
だって、藤吉郎様には子が必要だ。
後継ぎが必要だ。
あの人がどれほど働いても、家を作っても、名を上げても、子がいなければ続かない。
そのことは、私にも分かる。
分かっている。
分かっているから、余計に苦しい。
藤の方様は、藤七丸様を抱いていた。
その腕は慣れているようで、けれど大切そうで。
藤七丸様の頬へ目を落とす藤の方様の顔は、とても穏やかだった。
柴田様もまた、若君を見ている時だけ、少し違う顔をなさる。
ああ。
夫婦で子を見るとは、こういうことなのだ。
同じ子を見て、同じように目元を緩める。
泣けば二人で慌てる。
眠れば二人で息を潜める。
眉が似ていると笑い、強くなると真顔で言う。
そんな日々を。
私は、藤吉郎様に渡せない。
「藤の方様」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
藤の方様は、急かさずに待ってくださった。
藤七丸様が、腕の中で小さく動く。
そのたびに、私の視線は吸い寄せられてしまう。
見てはいけない気がする。
けれど、見ずにはいられない。
「私は」
膝の上で、手を握る。
爪が掌に食い込んだ。
「私は、悪い女房なのでしょうか」
藤の方様の目が、少しだけ揺れた。
私は、慌てて笑おうとした。
いつものように。
何でもないことのように。
「いえ、変なことを申し上げました。忘れてくださいませ」
けれど、うまく笑えなかった。
口元が震える。
目の奥が熱い。
嫌だ。
泣きたくない。
ここは柴田様のお屋敷で。
私は木下藤吉郎の女房で。
突然お邪魔している身で。
こんなところで、泣くわけにはいかない。
「藤吉郎様は、よく働いております」
私は、何とか言葉を続けた。
「柴田様にも褒めていただけました。あの人は、信長様のお役に立っております。きっと、これからももっと大きくなられる方です」
藤の方様は、静かに聞いてくださっている。
「だからこそ、あの人には子が必要です」
言ってしまった。
口にした瞬間、胸の奥に沈めていたものが浮かび上がってくる。
「私は、八年、あの人の女房をしております」
「寧々殿」
「でも、一度も宿りません」
声が震えた。
もう、止められなかった。
「三年宿らぬ女は家を出よと、よく言われます」
私は笑おうとした。
けれど、笑えなかった。
「私は、八年です」
藤の方様は、何も言わなかった。
何も言わず、ただ藤七丸様の背を撫でている。
その静けさが、かえって優しかった。
「出ていくべきなのだと、何度も思いました」
言葉が落ちる。
ぽつり。
ぽつりと。
「でも、出られませんでした」
最低だと思う。
自分で口にすると、余計にそう思った。
「私は、あの人の女房でいたいのです」
涙が、ひとつ落ちた。
ああ。
泣いてしまった。
「子を産めないのに」
もうひとつ、落ちる。
「他の女のところへ行くのも、仕方がないと思っているのに」
その言葉を口にした時、藤の方様の眉が、ほんのわずかに寄った。
けれど、すぐに何かを言うことはなさらなかった。
ただ、私が次の言葉を出すのを待ってくださっていた。
喉が詰まる。
「それでも、あの人の帰る場所でいたいのです」
私は、両手で膝の上の衣を握りしめた。
「藤の方様」
「はい」
「私は、悪い女房なのでしょうか」
今度は、逃げずに問うた。
藤の方様は、ゆっくりと私を見た。
その目は、やはり責めるものではなかった。
藤七丸様が、小さく声を漏らす。
藤の方様は、赤子の背を撫でながら、静かに言った。
「寧々殿」
「はい」
「貴女は、悪い女房ではありません」
その一言で、息が止まった。
胸の奥に、ずっと固まっていたものへ、そっと手を置かれたようだった。
私は、何かを言おうとして、言えなかった。
藤の方様は続ける。
「少なくとも、私はそう思いません」
その声は、穏やかだった。
けれど、ひどく強かった。
「子が欲しいと思うことも、夫の女房でいたいと思うことも、夫が他所へ向かうことを苦しいと思うことも、悪いことではありません」
涙がまた落ちた。
「でも」
「はい」
「私は、あの人に何も」
「何も、ではありません」
藤の方様は、少しだけ首を横に振った。
「木下殿が帰る場所でいたのでしょう?」
私は、息を呑んだ。
「それは、何もしていないことではありません」
「帰る場所……」
「はい」
藤の方様は、藤七丸様を抱き直す。
その顔に、少しだけ昔を思い出すような影が差した。
「男の方々は、外で戦い、働き、名を上げます。けれど、帰る場所がなければ、ずっと走り続けることになります」
私は、藤吉郎様の顔を思い出した。
帰ってきて、畳に座り込み、大げさにため息をついて。
寧々、今日は信長様にまた猿と呼ばれた。
そう言って笑う顔。
「木下殿は、貴女の前で格好をつけておられるのでしょう」
藤の方様が、少しだけ笑った。
「勝家様が言ったのです、まず間違いないでしょう」
「……はい」
「ならば、それは、貴女に嫌われたくないからではありませんか?」
胸が詰まった。
そんな風に考えたことは、なかった。
離れているのではないか。
心が他へ向いているのではないか。
私では足りないのではないか。
そう思うことは何度もあった。
でも。
嫌われたくないから、格好をつけている。
そう言われると、藤吉郎様の顔が少し違って見えた。
「寧々殿」
藤の方様が、静かに言う。
「ただし」
「はい」
「女房に何も話さず、勝手に外で子を得ようとするのは、木下殿が悪いです」
私は、思わず顔を上げた。
藤の方様の顔は真面目だった。
とても真面目だった。
「藤の方様」
「はい」
「そこまで、はっきりと」
「はっきり申し上げます」
藤の方様は頷いた。
「子が必要だと思うのなら、まず女房と話すべきです」
私は、涙で濡れた目のまま、藤の方様を見つめた。
「でも、それは」
「木下殿のためにもなりません」
藤の方様は、きっぱりと言った。
「貴女が一人で傷つき、木下殿が一人で走り、互いに何も言わず、ただ別の女の腹に望みをかける。それで家が整うとは、私には思えません」
その言葉は、思っていたよりずっと厳しかった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
胸の奥に溜まっていたものを、代わりに言葉にしてもらったようだった。
「まずは、話しましょう」
「話す……」
「はい」
「何を」
「苦しいことをです」
藤の方様は、当たり前のように言った。
「子が欲しいこと。宿らないことが怖いこと。木下殿が他所へ行くのが苦しいこと。それでも女房でいたいこと」
そんなことを。
言っていいのだろうか。
女房が。
夫に。
「言って、よいのでしょうか」
気づけば、そう尋ねていた。
藤の方様は、少しだけ目を細めた。
「言わねば、伝わりません」
その言葉は、優しいのに、どこか痛かった。
伝わらない。
そうだ。
私は、何も言っていなかった。
藤吉郎様が女の匂いをまとって帰ってきても、笑っていた。
お帰りなさいませ、と言った。
今日はお疲れでしたね、と茶を出した。
自分の胸が痛むことも、怖いことも、何も言わなかった。
言えば困らせると思った。
言えば嫌われると思った。
言えば、とうとう家を出る話になると思った。
「怖いです」
正直な言葉が、こぼれた。
「言えば、本当に出ていけと言われるかもしれません」
「その時は」
藤の方様が、少しだけ考えるように間を置いた。
「その時は、一度我が家へ来ればよろしい」
私は、目を見開いた。
「藤の方様?」
「はい」
「そのような」
「よろしいです」
藤の方様は、真顔だった。
「木下殿がそのような愚かなことを言ったなら、一度頭を冷やしていただく必要があります」
「頭を」
「はい」
「藤吉郎様の、頭を」
「冷やします」
あまりに真面目に言われて、私は涙の残る顔のまま、少しだけ笑ってしまった。
「藤の方様は、お強いのですね」
「強くはありません」
藤の方様は少し困ったように笑った。
「忙しないだけです」
その言葉に、胸が少し軽くなった。
藤七丸様が、小さく泣き始めた。
藤の方様はすぐに視線を落とす。
「お乳ですね」
その声が、とても自然だった。
子を抱く母の声だった。
私は、また胸が痛んだ。
けれど、先ほどとは少し違う痛みだった。
羨ましい。
寂しい。
でも、それだけではない。
私も、もう少しだけ、何かをしてみてもよいのではないか。
そう思えた。
藤の方様は、藤七丸様を抱いたまま、私へ向き直った。
「寧々殿」
「はい」
「身体を温めるところから始めましょう」
「……はい?」
思わず、間の抜けた声が出た。
藤の方様は真面目だった。
「冷えはよくありません。食事も見直しましょう。月のものの日取りも、差し支えなければ教えてください」
「え」
「木下殿にも、きちんと協力していただきます」
「藤の方様」
「子を望むのであれば、女だけの問題にしてはいけません」
藤の方様は、当然のように言った。
「夫婦のことです」
夫婦。
その言葉が、胸に落ちた。
私は、藤吉郎様の女房だ。
あの人の帰る場所でいたい。
けれど、それだけではなく。
夫婦として、話してもよいのだろうか。
頼ってもよいのだろうか。
怒っても、泣いてもよいのだろうか。
「まずは、温かいものを食べましょう」
「……はい?」
あまりに思っていた言葉と違って、私は涙も忘れて藤の方様を見た。
藤の方様は、どこまでも真面目だった。
「話は、それからです」
私は、涙を拭いた。
「……はい」
小さく頷く。
藤の方様は、藤七丸様を抱きながら、にこりと笑った。
鬼柴田の妻。
そう呼ばれる方。
けれど、その人は鬼のように恐ろしいのではなく、ただ、目の前の者を放っておけない人なのだと思った。
泣きそうな女がいれば、茶を出す。
話を聞く。
身体を温める。
飯を食わせる。
そして、必要なら夫の頭を冷やすと言う。
私は、少しだけ息を吐いた。
まだ怖い。
藤吉郎様と話すのは怖い。
けれど、もう一人で笑って飲み込むだけではなくてもよいのかもしれない。
その日、私は初めて思った。
猿の女房でいることは、ただ笑って待つことだけではないのかもしれない、と。