作品タイトル不明
第四話 鬼柴田、猿を褒める
寧々殿を連れて、隣の柴田邸へ戻る。
隣。
本当に隣である。
義銀たちの新しい斯波邸は、柴田邸のすぐ隣に建てられた。
最初は、少し増築するくらいの話だと思っていた。
ところが、気が付けば立派な屋敷が建っていた。
勝家様。
説明は大事です。
今さら言っても遅いのですが。
「本当に、お隣なのですね」
寧々殿が、少し驚いたように呟いた。
「はい。何かあればすぐに駆け込める距離です」
「それは、義銀様も心強うございますね」
「そうですね。駆け込むのは、義銀より小藤太殿の方が多いかもしれませんが」
寧々殿が、口元に手を当てて小さく笑った。
よかった。
少しだけ、表情が柔らかくなった。
斯波邸に残された時の寧々殿は、きちんと笑っていた。
けれど、その笑顔は、きちんとしすぎていた。
強い方なのだと思う。
強いからこそ、困っていても、寂しくても、まず相手に気を遣う。
そういう方は、放っておくと一人で全部抱えてしまう。
私は、それを知っている。
柴田邸に入ると、奥から於光様が顔を出した。
「藤乃様、お戻りでしたか」
「於光様。寧々殿をお連れしました。お茶の支度をお願いしても?」
「もちろんです」
於光様は、寧々殿へ柔らかく頭を下げた。
「木下殿の奥方様ですね。ようこそお越しくださいました」
「急にお邪魔することとなり、申し訳ございません」
「まあ、よろしいのですよ。信長様のお呼び出しは、いつも急ですから」
さらりと言った。
寧々殿が少しだけ目を丸くする。
於光様は、そのまま何事もないように続けた。
「勝家様が見ておいでです」
「勝家様が?」
私の声が、少しだけ上ずった。
於光様はにこりと笑う。
「ええ。藤七丸を、とても真剣なお顔で」
……見て。
見ておいでですか。
抱いているのでしょうか。
泣かせてはいないでしょうか。
お乳の時間も近いのですが。
私は、少しだけ早足になりかけて、慌てて足を緩めた。
寧々殿をお連れしている。
走ってはいけない。
小藤太殿を叱ったばかりである。
自分で走るわけにはいかない。
「藤の方様?」
寧々殿が、不思議そうに私を見た。
「いえ。勝家様が藤七丸を見ていると聞くと、少し気になりまして」
「まあ。柴田様が?」
「はい。本人は平静な顔をしておりますが、藤七丸を抱く時は戦場より緊張しているように見えます」
寧々殿は、一瞬目を丸くした。
それから、また少し笑った。
「鬼柴田と呼ばれる方が、赤子に緊張なさるのですか」
「緊張しています。とても」
「それは……少し、拝見したいです」
「ぜひ」
於光様が、くすりと笑った。
「本当に、たいそう真剣なお顔ですよ」
「於光様まで」
「本当のことですもの」
そう言って、於光様は先に茶の支度へ向かってくださった。
この柴田邸の奥向きは、於光様がよく見てくださっている。
勝家様の姉君であり、私にとっても頼りになる方だ。
その於光様がいるだけで、急な客人を迎える時の安心感がまるで違う。
そうして案内した部屋には、勝家様がいた。
そして、藤七丸を抱いていた。
大きな腕の中に、小さな藤七丸。
勝家様は、恐ろしいほど真剣な顔をしていた。
けれど、その目元はいつもよりずっと穏やかだった。
藤七丸は、勝家様の腕の中ですやすや眠っている。
赤子と鬼柴田。
何度見ても、不思議な光景である。
隣で、寧々殿が小さく息を呑んだのが分かった。
「柴田様、お邪魔いたしております」
寧々殿が、丁寧に頭を下げる。
勝家様は顔を上げた。
「寧々殿か」
「はい」
「よく、いらした」
短い。
けれど、歓迎している声だった。
寧々殿にも伝わったのだろう。
少しだけ緊張を解き、穏やかに微笑む。
「急なことで、申し訳ございません」
「そなたが謝ることではない」
勝家様は、低く言った。
「猿が呼ばれたのだろう」
猿。
やはりそう呼ぶのですね。
寧々殿は一瞬だけ目を瞬いたが、すぐに困ったように笑った。
「はい。主人は信長様に呼ばれました」
「うむ」
「主人がご迷惑を」
「猿は、よく働く」
勝家様の声は、相変わらず短い。
けれど、その言葉に、寧々殿の表情が少し変わった。
「……主人が、でございますか」
「うむ」
勝家様は藤七丸を抱いたまま、少しだけ頷いた。
「よく動く。よく見る。よく拾う」
「拾う、でございますか」
「人の動き、荷の流れ、道の詰まり。そういうものを拾う」
寧々殿は、驚いたように勝家様を見た。
私は、そっと寧々殿の様子を見守る。
木下藤吉郎殿。
明るく、人懐こく、調子がよい。
けれど、その明るさの奥で、ちゃんと人と場を見ている方だ。
勝家様がこうして褒めるのは珍しい。
勝家様は、人を軽く褒める方ではない。
まして、信長様の近くでよく動く木下殿について、わざわざ言葉を重ねるなど、かなり珍しいことだった。
「猿は、軽く見られる」
勝家様が続けた。
「はい」
寧々殿は、少しだけ目を伏せる。
その返事には、覚えのある重みがあった。
きっと、何度も聞いてきたのだろう。
猿。
調子のよい男。
身分の低い男。
よく走り回る男。
そう見られる夫のことを。
「だが、軽いだけの男ではない」
勝家様は言った。
「信長様が使うのも分かる」
寧々殿は、息を止めたようだった。
それから、ゆっくりと頭を下げる。
「……ありがとうございます」
その声は、本当に嬉しそうだった。
「主人は、私に仕事の話をあまりしてくださらないので」
「そうなのですか」
私が問うと、寧々殿は少しだけ苦笑した。
「はい。帰ってきても、今日は何を食べた、誰に怒られた、信長様にまた猿と呼ばれた、そんな話ばかりで」
「木下殿らしいですね」
「ええ。あの人らしいです」
寧々殿は笑った。
けれど、その笑みの奥に、少しだけ寂しさが混じる。
「私の前では、いつも笑ってばかりで。疲れた顔も、苦しい顔も、あまり見せてくださらないのです」
その言葉に、私は少しだけ胸が痛んだ。
夫が外で働く。
妻は家を守る。
それは、この時代では珍しいことではない。
けれど、知らされないことと、信じて待つことは違う。
寧々殿は、夫を信じている。
木下殿を大切に思っている。
だからこそ、外での働きを知れたことが、こんなにも嬉しいのだろう。
「外でどのように働いているのか。どれほど頑張っているのか。私は、あまり知らないのです」
寧々殿は、膝の上で手を重ねた。
「私に心配をかけぬようにしてくれているのだとは、分かっているのですが」
分かっている。
だから言えない。
分かっている。
だから寂しい。
そういう言葉なのだと思った。
「猿は、よく働く」
勝家様は、もう一度言った。
「信長様のお声がよくかかるのも、そのためだ」
「はい」
寧々殿は頷く。
その顔は嬉しそうだった。
本当に嬉しそうだった。
けれど、勝家様はそこで、ぽつりと続けた。
「だが、流石に今日は一言申しておく」
寧々殿の顔色が変わった。
「い、いえ、柴田様。そのような。主人が悪いわけではございません」
慌てて頭を下げようとする寧々殿を、勝家様は不思議そうに見た。
「猿が悪いとは言っておらぬ」
「ですが、信長様へ何か申し上げるなど」
「寧々殿、ご安心ください」
私は横からそっと口を挟んだ。
寧々殿が、こちらを見る。
「藤の方様?」
「勝家様が言う相手は、信行様です」
「信行様、でございますか」
「信長様へお伝えするのは、信行様が一番お上手なのです」
寧々殿は、言葉を失った。
私は真面目に頷いた。
「大変なお役目です」
勝家様も頷いた。
「うむ」
寧々殿は、少しだけ目を瞬いた。
それから、口元を押さえる。
「……それは、確かに大変なお役目でございますね」
「ええ。本当に」
「信長様へお伝えできるのは、信行様なのですね」
「はい。勝家様が直接信長様に申し上げると、話が大きくなりますので」
「うむ」
勝家様。
そこで頷くのですね。
私は少しだけ笑いそうになった。
寧々殿も、今度こそ小さく笑った。
肩の力が抜けている。
よかった。
ようやく、少しだけ休んでいただけそうだ。
於光様が、茶と菓子を運ばせてくださった。
菓子は重すぎず、香りのよいもの。
急に客を迎えたとは思えない整え方である。
さすが於光様。
私は寧々殿を座らせ、自分も向かいに腰を下ろした。
勝家様は藤七丸を抱いたまま、そばにいる。
普段なら、客前でこのまま赤子を抱いていることはあまりない。
けれど今日は、それでよい気がした。
寧々殿が藤七丸を見る目が、とても柔らかかったからだ。
「藤七丸様は、本当に可愛らしい御子にございますね」
寧々殿が、そっと言った。
「ありがとうございます」
「けれど、眉は柴田様にそっくりでいらっしゃいます」
「皆様、そう仰います」
「将来が楽しみな若君ですね」
その声は優しい。
とても優しい。
けれど、その視線の奥に、ほんの少し寂しさが隠れていた。
藤七丸を見つめる目。
愛おしそうで、穏やかで。
それなのに、どこか遠い。
自分の腕の中にはいないものを見る目。
私は、その目を知っている。
けれど、まだ触れてはいけない。
ここで急に踏み込んでは、寧々殿の逃げ場を奪ってしまう。
まずは、茶だ。
温かい茶を飲んでいただく。
肩の力を抜いていただく。
話は、それからでよい。
「寧々殿」
「はい」
「お茶をどうぞ。急なことで、さぞお疲れでしょう」
「ありがとうございます」
寧々殿は、丁寧に茶を受け取った。
その所作は落ち着いていた。
やはり、しっかりした方だ。
木下殿の隣で、長く人を見てきた方の所作だと思った。
「木下殿は、お忙しいのですね」
私が言うと、寧々殿は小さく頷く。
「はい。ありがたいことではあります」
「けれど、寂しいこともありますか」
問うた瞬間、寧々殿の手が、ほんの少し止まった。
私は、言葉を急ぎすぎたかもしれないと思った。
けれど、寧々殿はすぐに微笑んだ。
「そうですね。あの人はよく動きますので」
「勝家様も、戦の時は屋敷におりません」
「はい」
「待つ側は、時々難しいですね」
「……はい」
寧々殿の声が、少しだけ小さくなった。
勝家様は何も言わなかった。
ただ、藤七丸を抱いたまま、静かにこちらを見ている。
こういう時、勝家様は余計なことを言わない。
それがありがたい時もある。
寧々殿は、茶を一口飲んだ。
そして、ぽつりと言う。
「私は、あの人の役に立てているのでしょうか」
その言葉は、小さかった。
けれど、私の胸にはっきり届いた。
ああ。
そういう痛みなのですね。
夫が外で働く。
夫は評価される。
信長様に呼ばれるほど、役に立っている。
けれど、自分は。
夫の仕事を知らない。
夫の背中を押せているのか分からない。
そして、夫婦として望まれるものを、まだ与えられていない。
そんな不安が、寧々殿の中にあるのだろう。
私は、寧々殿を見つめた。
「寧々殿」
「はい」
「木下殿が、貴女を軽く思っているようには見えません」
寧々殿の目が揺れた。
「……そう、でしょうか」
「はい」
「でも、あの人は、私にはあまり話してくださらないのです」
「心配をかけたくないのかもしれません」
「分かっております」
寧々殿は、少しだけ笑った。
「分かっては、いるのです」
その笑みが、苦しかった。
分かっている。
だからこそ、寂しい。
それは、とてもよく分かる。
勝家様が、ぽつりと言った。
「猿は、そなたに弱いところを見せたくないのだろう」
寧々殿が、はっと勝家様を見る。
「弱いところ、でございますか」
「うむ」
勝家様は藤七丸を抱き直す。
「信長様の前で走り、働き、笑う。そうして役に立つ男であろうとしておる」
「はい」
「だが、家に戻れば、そなたの前で夫であろうとする」
寧々殿は、何も言えなくなったようだった。
勝家様は言葉を探すように、少しだけ間を置いた。
「猿なりに、格好をつけておるのだろう」
寧々殿は、目を見開いた。
それから、少しだけ吹き出した。
「格好を」
「うむ」
「藤吉郎様が」
「うむ」
「……そうですか。あの人、格好をつけておりましたか」
寧々殿は、口元を押さえて笑った。
今度の笑みは、本当に柔らかかった。
私は、勝家様を見た。
勝家様は真面目な顔をしている。
たぶん、本気で言っている。
その本気が、寧々殿には届いたのだろう。
「ありがとうございます、柴田様」
寧々殿は深く頭を下げた。
「主人のことを、そのように見てくださっている方がいると知れて、嬉しゅうございます」
「事実だ」
勝家様は短く言った。
寧々殿は、また少し笑った。
その時、藤七丸が小さく声を漏らした。
眠りが浅くなってきたのだろう。
私は立ち上がり、勝家様の腕から藤七丸を受け取る。
「そろそろ起きますね」
「うむ」
「お乳の時間です」
「そうか」
「勝家様、ありがとうございました」
「うむ」
藤七丸は、私の腕の中で小さく身じろぎした。
於光様がすぐに動いた。
「屏風を」
控えていた者が、静かに屏風を整える。
私は寧々殿へ軽く頭を下げた。
「少し失礼いたします。お茶はそのまま召し上がってくださいませ」
「はい」
寧々殿は、柔らかく頷いた。
屏風の向こうで、私は藤七丸を抱き直す。
小さな口が乳を探し、やがて静かに吸い始めた。
赤子の息遣い。
衣擦れの音。
茶器のかすかな音。
部屋の中が、少しだけ静かになった。
寧々殿は何も言わなかった。
けれど、屏風越しに、その視線がこちらへ向いているような気がした。
やがて藤七丸は、少し落ち着いた。
お腹が満ちたのか、また眠りに落ちかけている。
私は衣を整え、藤七丸の背をそっと撫でた。
於光様が屏風を少しずらし、私が座へ戻れるようにしてくださる。
本当に、ありがたい。
私は藤七丸を抱いたまま、寧々殿の前へ戻った。
寧々殿の目は、やはり藤七丸を見ていた。
優しい。
本当に優しい。
けれど、寂しかった。
夫の働きを知って嬉しそうに笑った後でも。
藤七丸が乳を飲み、私の腕の中で眠りかけている姿を見た後では、なおさら。
赤子を見る目だけは、少しだけ揺れていた。
私は、藤七丸を抱きながら、寧々殿へ静かに声をかけた。
「寧々殿」
「はい」
「差し支えなければ、少しだけ、お話を聞かせていただけませんか」
寧々殿は、はっとしたように私を見た。
その目が、わずかに揺れる。
私は、ゆっくりと言葉を続けた。
「急いで答えなくても構いません」
「藤の方様……」
「ただ」
私は、藤七丸の背をそっと撫でた。
「藤七丸を見る貴女の目が、少しだけ、昔の私に似ておりましたので」
寧々殿は、何も言わなかった。
けれど、その手が、膝の上で小さく握られた。
部屋の中に、静かな時間が落ちる。
遠くで、斯波邸の方から人の声が聞こえた。
けれど、この部屋だけは、少しだけ別の場所のようだった。
鬼柴田が、猿を褒めた。
その言葉で、猿の女房は少し笑った。
けれど、笑った後に残る寂しさを、私は見てしまった。
見てしまった以上、放っておけるはずがない。
私は、忙しない女なのだから。