軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三話 葱を分けて抜いていた子が

小藤太殿に案内され、私は隣の斯波邸へ向かった。

走らない。

早歩きもしすぎない。

けれど、急ぐ。

小藤太殿は、その難しい歩き方を必死に実践していた。

背筋は伸びている。

足は早い。

顔は青い。

胃の痛そうな歩き方である。

「小藤太殿」

「はい」

「少し息を整えましょう」

「はい」

返事はよい。

けれど、まったく整っていない。

まあ、無理もない。

当主である義銀。

その妻である琴。

そして客であるはずの木下藤吉郎殿。

その三人が、信長様の呼び出しで清洲へ向かうことになった。

残されたのは、木下殿の奥方である寧々殿。

新しい斯波家へ挨拶に来た客の奥方が、ぽつんと残される。

それはまずい。

非常にまずい。

小藤太殿が慌てるのも、よく分かる。

むしろ、よく私のところまで走らずに来ました。

早歩きではありましたが。

「又助殿は、寧々殿のお相手を?」

私が問うと、小藤太殿は頷いた。

「少なくとも、場は整えてくださっているはずです。私には、藤の方様をお呼びするようにと」

そうでしょうね。

あの方なら、客人を一人で放っておくようなことはしない。

そう思いながら斯波邸へ入ると、又助殿は座敷の外で控えの者に指示を出していた。

「茶は冷めぬように。菓子は重すぎぬものを」

「はい」

「木下殿がお戻りになられた場合は、まずこちらへ知らせてください」

「承知いたしました」

又助殿は、こちらに気づくとすぐに頭を下げた。

「藤の方様」

「又助殿。状況は聞きました」

「申し訳ございません。急なお呼び出しにより、こちらの支度が乱れました」

「信長様ですものね」

言ってから、少しだけ遠い目になった。

信長様ですものね。

そう言えば、だいたいの無茶が説明できてしまう。

……説明できてしまってよいのかは、また別の話だけれど。

又助殿も、わずかに目を伏せた。

「はい。信長様ですので」

やはり同じ結論だったらしい。

私はそっと息を吐き、座敷の方へ視線を向けた。

「寧々殿は?」

「座敷にて、義冬様がお相手をしてくださっております」

私は足を止めかけた。

「義冬が?」

思わず聞き返してしまう。

小藤太殿も、隣で目を丸くした。

どうやら、小藤太殿も知らなかったらしい。

又助殿は静かに頷いた。

「はい。義冬様がお相手を買って出てくださいましたので、お願いいたしました」

それは、正しい判断だった。

義銀も琴も不在。

木下殿も不在。

この状況で、木下殿の奥方を一人にするわけにはいかない。

かといって、当主夫妻不在のまま長く留めるのも難しい。

その中で、斯波家の弟君である義冬が相手をするなら、ぎりぎり形が立つ。

まだ若いとはいえ、義冬は義銀の弟であり、斯波家の者である。

兄の不在を弟が繋ぐ。

それは、この場で出せる最大のもてなしだった。

私は、又助殿へ感心した。

「流石ですね、又助殿」

すると又助殿は、少しだけ目を伏せた。

「いえ。義冬様からのご提案です」

「義冬が?」

「はい。『兄上たちが戻るまで、私が木下殿の奥方様にお話しします』と」

又助殿の声が、ほんの少し柔らかくなる。

「まだお若いのに、ご立派です」

その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥が温かくなった。

義冬。

貴方、自分から。

ついこの間まで、葱を増やすように分けて抜いていた子が。

米が足りないと聞いて、茶碗を握りしめていた子が。

火の手の上がる屋敷で、私の腕の中にいた子が。

今は、自分から客人の相手を買って出た。

まあ。

うちの甥っ子、立派になって……。

いけない。

ここで泣くところではありません。

私は藤の方です。

柴田のお藤の方です。

お客様の前で、甥っ子の成長にほろりとしている場合ではない。

私は表情を整えた。

又助殿は、何も言わない。

ただ、その目が少しだけ優しかった。

……これは、見られていましたね。

恥ずかしい。

小藤太殿は、まだ驚いた顔をしている。

「義冬様が……」

「ええ」

又助殿が頷く。

「立派なご判断でした」

小藤太殿は、少しだけ背筋を伸ばした。

同じ若い者として、思うところがあったのかもしれない。

障子の向こうから、控えめな声が聞こえた。

「兄上は、よく信長様に呼ばれます」

義冬の声だった。

少し硬い。

けれど、ちゃんと相手へ向けられた声だった。

「まあ。義銀様は、お忙しいのですね」

寧々殿の声は穏やかだった。

「はい。けれど、戻ってくると又助殿に文を書かされております」

「ふふ。文も大切なお役目ですものね」

「はい。兄上は、時々逃げようとします」

「義銀様が?」

「いえ。逃げようとするというより、別の仕事を先にしようとなさいます」

「それは、逃げておられますね」

少しだけ笑う気配がした。

義冬は、一拍置いてから言った。

「お琴様も、そう仰います」

その返しに、寧々殿が柔らかく笑った。

私は障子の前で、思わず足を止めた。

義冬。

貴方、ちゃんとお客様のお相手をしているのですね。

完璧ではない。

滑らかでもない。

話題も、兄の仕事と琴の話で精一杯なのだろう。

けれど、寧々殿を一人にしていない。

困らせないように、寂しくさせないように、兄の代わりに場を繋いでいる。

本当に。

本当に、立派になって。

又助殿が静かに声をかけた。

「義冬様。藤の方様がお見えです」

中の気配が、すっと変わった。

「叔母上」

義冬の声が少し明るくなる。

障子が開かれ、私は座敷へ入った。

寧々殿が丁寧に頭を下げる。

「藤の方様」

「寧々殿。急なことで、さぞ驚かれたでしょう」

「いえ、そのような。信長様のお呼びとあれば、木下もすぐに参らねばなりませんので」

寧々殿はそう言って、きちんと微笑んだ。

落ち着いた方だ。

そして、思っていたよりも若く見える。

たしか、後世で聞いた話では、秀吉と寧々は一回りほど年が離れていたような気がする。

……気がする、という時点でだいぶ怪しい。

なにせ私は、戦国ガチ勢ではない。

三國志オタクである。

本能寺は一五八二年。

関ヶ原は一六〇〇年。

桶狭間は信長様が今川義元を討った戦。

私の戦国知識など、だいたいその程度だ。

そもそも以前、信長様と勝家様の年の差についても、勝手な思い込みで盛大に驚いたことがある。

鬼柴田という響きと、信長様を支えた重臣という印象だけで、私は勝家様をもっとずっと年上の方だと思っていた。

けれど、目の前にいる勝家様は、私が勝手に思い描いていた『歴史の中の鬼柴田』とは違った。

無骨で、大きくて、言葉は少なくて。

でも、藤七丸を抱く時は戦場よりも真剣な顔をする、私の夫だった。

だから、目の前の寧々殿が私とそう変わらぬ年頃に見えたとしても、私はこう思うことにした。

まあ、私の戦国の記憶なんて、そんなものです。

そもそも、この世界はもう、私の知っている歴史とは少しずつ違っているのだから。

落ち着いた方だ。

けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ遠慮がある。

客として来た先で、夫も迎えの当主夫妻も呼び出されてしまった。

自分だけが残る。

帰るべきか。

留まるべきか。

その迷いを、寧々殿は表に出さないようにしている。

強い方だ。

そして、強い方ほど放っておくと一人で我慢してしまう。

私は、それを知っている。

私は義冬へ視線を移した。

義冬は、私を見ると少しだけほっとした顔をした。

けれど、すぐに姿勢を正す。

「叔母上。木下殿の奥方様に、お待ちいただいておりました」

「ええ。よく務めました」

そう言うと、義冬の頬が少しだけ赤くなった。

「いえ。私は何も」

「お客様を一人にしなかったのでしょう?」

義冬は、少し言葉に詰まった。

「兄上とお琴様が不在でしたので」

「だから、貴方が代わりを務めたのですね」

義冬は目を伏せた。

「……はい」

ああ。

やはり、ほろりとしてしまう。

私はどうにか顔に出さず、義冬の頭を撫でたい衝動を抑えた。

もう幼い子ではない。

ここで撫でれば、斯波家の弟君として立とうとしている義冬の顔を潰してしまう。

だから私は、ただ頷いた。

「立派でした」

義冬は、今度こそ耳まで赤くなった。

小藤太殿が、横で少し感動した顔をしていた。

貴方も胃を押さえている場合ではありません。

いえ、押さえてもよいですが。

又助殿が小さく咳払いをした。

「藤の方様。木下殿がお戻りになるまでには、少し時がかかるかと」

「でしょうね」

信長様の呼び出しである。

すぐ戻る、という言葉ほど信用できないものはない。

特に信長様の場合。

私は寧々殿へ向き直った。

「寧々殿」

「はい」

「木下殿が戻られるまで、よろしければ我が家でお茶でもいかがですか?」

「ですが、そのような」

寧々殿は遠慮するように目を伏せた。

「突然のことで、こちらへもご迷惑をおかけしてしまいます」

「迷惑ではありません」

私はすぐに言った。

「隣ですので」

「隣」

「はい。斯波邸の隣が柴田邸です。義銀たちが戻るまで、こちらにお一人でいらっしゃるより、我が家でゆっくりしていただいた方が私も安心です」

寧々殿は、少し迷うように私を見た。

私は少しだけ笑う。

「それに、藤七丸もおりますし、少し賑やかではございますが」

その瞬間。

寧々殿の目が、ほんのわずかに動いた。

藤七丸。

赤子。

その言葉に、何かが触れたような顔だった。

すぐに寧々殿は微笑んだ。

「藤七丸様は、まだお小さいのでしたね」

「はい。よく眠る子です」

「それは、可愛らしいでしょうね」

寧々殿の声は柔らかかった。

本当に、柔らかかった。

けれど、その奥に、かすかな寂しさがある。

私は、それを見逃せなかった。

赤子の話をする時の、愛おしそうな目。

けれど、自分の腕の中にはいないものを見る目。

私は、その目を知っている。

けれど、ここで問うことではない。

ここは斯波邸。

義冬も、小藤太殿も、又助殿もいる。

寧々殿がどのようなものを抱えているとしても、人前で触れてよい話ではない。

まずは、茶だ。

温かい茶を出す。

身体を少し休めてもらう。

話は、それからでよい。

「寧々殿」

「はい」

「どうか、我が家へお越しください。藤七丸も、きっと喜びます」

「赤子に喜ぶということが分かるのでしょうか」

寧々殿が、少しだけ本当に笑った。

「分かります」

私は真面目に頷いた。

「少なくとも、勝家様はそう信じております」

寧々殿が目を丸くした。

それから、口元に手を当てて笑った。

「勝家様が」

「はい。藤七丸が眉を動かすだけで、たいへん真剣なお顔になります」

「まあ」

寧々殿の笑みが、少し自然になった。

よかった。

少しだけ、肩の力が抜けたように見える。

「では、少しだけお邪魔してもよろしいでしょうか」

「もちろんです」

私は頷き、義冬へ視線を向けた。

「義冬」

「はい」

「寧々殿を我が家へお連れします。義銀たちが戻りましたら、柴田邸へ使いをください」

「承知しました」

義冬はしっかりと頭を下げた。

「叔母上」

「何ですか」

「寧々殿を、どうかよろしくお願いいたします」

私は、少しだけ目を細めた。

兄の客を、自分の客として見ている。

義冬は、ちゃんと斯波家の者として立っている。

「ええ。任されました」

義冬は安心したように息を吐いた。

又助殿が、すぐに控えの者へ指示を出す。

「寧々殿のお履物を。柴田邸へ先触れは不要です。藤の方様がお連れになります」

「はい」

小藤太殿は、まだ少し緊張した顔をしていた。

「小藤太殿」

「はい」

「もう大丈夫です」

「……はい」

「よく知らせに来てくださいました」

小藤太殿は、ぱっと顔を上げた。

それから、少しだけ目を伏せる。

「又助殿の判断です」

「その判断に従って、私のところまで来たのは貴方です」

「……はい」

「よくできました」

小藤太殿の顔が、義冬と同じように少し赤くなった。

今日は若い方々がよく赤くなりますね。

よろしいことです。

寧々殿は、そんな様子を見て、少しだけ微笑んでいた。

その微笑みは、先ほどより柔らかい。

けれど、私は忘れていない。

藤七丸の名を出した時の、あの目を。

愛おしそうで、寂しそうな目。

私は、その目を知っている。

だからきっと、放っておけない。

また余計なことに首を突っ込むのでしょうね、私は。

そう思いながら、私は寧々殿を伴って立ち上がった。

「では、参りましょう」

「はい。お邪魔いたします」

寧々殿は丁寧に頭を下げた。

義冬も頭を下げる。

又助殿も、小藤太殿も控える。

斯波邸の座敷を出る時、私はもう一度だけ義冬を見た。

義冬は、少し緊張しながらも、まっすぐ立っていた。

うちの甥っ子。

本当に、立派になって。

葱を分けて抜いていた子が。

私は胸の奥でそう呟き、今度こそ涙を堪えた。

そして、寧々殿を連れて、隣の柴田邸へ向かった。