作品タイトル不明
第二話 なぜこうなったのでしょうか
服部小藤太は出来る事なら気を失いたかった。
本日は、何も問題のない日になるはずだった。
そう。
なるはずだったのです。
では、なぜこうなったのでしょうか。
木下藤吉郎殿と、その奥方である寧々殿が、新しい斯波家へ挨拶に来られる。
その予定は、数日前から決まっていた。
義銀様も、お琴様も、きちんと支度をなさっていた。
太田又助殿は、客を通す座敷の場所、茶を出す順、話を切り上げる頃合いまで、きっちり整えていた。
私は、又助殿に言われた通り、出入りの者が慌てぬよう手配を確認した。
兄上は、何もするなと言われていた。
正確には、何もしないでください、と又助殿に言われていた。
けれど、兄上は兄上なので、何かをしようとした。
「小平太殿」
又助殿の声が飛ぶ。
「はい」
「今、何を持とうとなさいましたか」
「いや、少し庭の」
「持たないでください」
「まだ何も言っていないが」
「庭と申された時点で、槍か木刀か鍬です」
「なぜ分かる」
「分かります」
兄上は、不満そうな顔をしていた。
私は見なかったことにした。
兄上に関わると、こちらの胃が余計に痛くなる。
新介殿は、静かに座敷の様子を確認していた。
余計なことは言わない。
余計なこともしない。
それでいて、どこに人が立てば詰まるか、どこから客を通せばよいか、ちゃんと見ている。
あの方は、静かにしている時ほどよく見ている。
兄上にも見習っていただきたい。
いえ、無理ですね。
考えるだけ無駄です。
「小藤太殿」
又助殿に呼ばれ、私は背筋を伸ばした。
「はい」
「木下殿ご夫妻がお着きになられたら、まずは義銀様へお知らせを」
「承知いたしました」
「お茶は、こちらで手配しております」
「はい」
「もし小平太殿が余計なことをしようとしたら?」
「止めます」
「よろしい」
又助殿は、真顔で頷いた。
私は少しだけ遠い目をした。
なぜ、兄上の扱いまで私の仕事になっているのでしょうか。
いえ、兄上なので仕方ありません。
そうこうしているうちに、木下藤吉郎殿と寧々殿が到着された。
木下殿は、噂通りの方だった。
明るい。
よく笑う。
腰が低い。
声もよく通る。
そして、目がよく動く。
一見すると、ただ人懐こい方に見える。
けれど、義銀様が一言話せば、すぐにその言葉を拾う。
お琴様が茶を勧めれば、自然に礼を返す。
新しい斯波家の屋敷を見て、どのあたりを褒めればよいか、瞬時に見ているようだった。
油断ならない。
そう思った。
その隣に座る寧々殿は、落ち着いた方だった。
木下殿がよく動く分、隣で静かに場を整えているように見える。
出すぎない。
けれど、引きすぎもしない。
木下殿が少し話を広げすぎそうになると、ほんの少し視線を向ける。
それだけで、木下殿は口の勢いを整える。
私は、それを見て思った。
強い。
木下殿の奥方様は、きっと強い。
義銀様とお琴様も、丁寧に迎えておられた。
座敷の空気は穏やかだった。
挨拶も滞りなかった。
又助殿は静かに控え、必要なところで言葉を添える。
新介殿は横で場を見ている。
兄上は、動くなと言われたので動いていない。
不満そうではあったが、動いていない。
よし。
今日は、うまくいく。
そう思った。
思ってしまった。
その時だった。
信長様からの使いが来た。
私は、嫌な予感がした。
信長様からの使い。
それだけで、胃のあたりが重くなる。
なぜでしょうか。
まだ中身を聞いていないのに。
又助殿が文を受け取り、義銀様へ渡す。
義銀様は文を開き、目を通した。
その顔が、少しだけ止まった。
あ。
これは。
私は、さらに嫌な予感がした。
義銀様は、ゆっくりと文を閉じた。
お琴様が、そっと義銀様を見る。
木下殿も、にこにこした顔のまま、目だけを動かした。
「義銀」
新介殿が静かに声をかける。
義銀様は、小さく息を吐いた。
「信長様からです」
それは分かっております。
問題は中身です。
私の胃が、先に答えを知っている気がしました。
義銀様は、文面を読み上げた。
「『義銀、直ぐに参れ。猿もそちらに行くと言っていたはずだ。一緒に連れて来い。あと、帰蝶が琴に会いたがっておる。一緒に連れて参れ』」
座敷が、しんとした。
私は、泡を吹くかと思った。
いえ、実際には吹いておりません。
吹いておりませんが、心は泡を吹いておりました。
なぜ。
なぜ、今なのですか。
木下殿ご夫妻は、今まさに客としてお越しになっているのですよ。
義銀様とお琴様は、迎える側なのですよ。
木下殿を連れて来いとは、木下殿ご本人も客なのですよ。
そして、寧々殿は。
私は、寧々殿を見た。
寧々殿は、少しだけ目を瞬いていた。
けれど、すぐに困ったように微笑まれた。
その微笑みを見た瞬間、私の胃がまた痛くなった。
これは、まずい。
とてもまずい。
当主夫妻が呼び出される。
木下殿も呼び出される。
残るのは、木下殿の奥方様。
客として来られた奥方様だけが、斯波家に残される。
しかも、まだ落ち着いて茶を召し上がっていただくところまで進んでいない。
これを、どうすれば。
私は義銀様を見た。
義銀様は、諦めた顔をしていた。
信長様なら仕方がない、と言いたげな顔である。
お琴様も、静かに息を吐いていた。
帰蝶様が会いたがっていると言われては、行かないわけにはいかない。
木下殿は、なぜか少しだけ遠い目をした後、すぐに笑った。
「これはこれは、信長様のお呼びとあらば、すぐに参らねばなりませんなあ」
明るい。
明るいのに、諦めている。
この方も、慣れておられる。
義銀様が寧々殿へ頭を下げた。
「寧々殿。大変申し訳ございません」
「いえ。信長様のお呼びでございますもの」
寧々殿は、きちんと笑っていた。
笑っていたが、私は思った。
その笑顔に甘えてはいけない。
けれど、どうすればよいのですか。
「では、私はこれで失礼いたします」
寧々殿が、そう言って立とうとした。
私は、反射的に前へ出た。
「お、お待ちください!」
声が大きかった。
又助殿の視線が刺さる。
分かっております。
しかし、今は仕方ありません。
寧々殿が、驚いたようにこちらを見た。
私は深く頭を下げる。
「このままお帰しするわけにはまいりません」
言った。
言ってしまった。
では、どうするのか。
そこまで考えていなかった。
私は、助けを求めるように兄上を見た。
兄上は、すっと目を逸らした。
兄上。
兄上?
次に新介殿を見た。
新介殿も、静かに目を逸らした。
新介殿。
貴方まで。
義銀様は、呼び出しを受けた当事者である。
お琴様も、木下殿も行かねばならない。
兄上は役に立たない。
新介殿は、たぶん分かった上でこちらへ投げた。
私は、内心で叫んだ。
なぜ、私なのですか。
その時、又助殿が動いた。
何事もなかったかのように、控えていた者へ茶の用意を命じる。
そして寧々殿へ、静かに頭を下げた。
「寧々殿」
「はい」
「木下殿がお戻りになるまで、どうかお茶でもお飲みになってくださいませ」
「ですが」
「急なお呼び出しにより、こちらの支度が乱れました。少し整えさせていただきたく存じます」
言い方が上手い。
寧々殿を引き留めるのではなく、こちらの支度を整えるためと言った。
相手に負担をかけすぎない言い方だ。
さすが又助殿。
私は内心で拝みそうになった。
寧々殿は、少し迷った後、静かに座り直された。
「では、少しだけ」
「ありがとうございます」
又助殿は深く頭を下げた。
そして、私の袖を掴んだ。
「小藤太殿」
「はい」
「こちらへ」
低い声だった。
とても低い声だった。
私は素直に従った。
逆らってはいけない声である。
座敷を出た瞬間、又助殿は早足になった。
私も続く。
ただし、走らない。
客人の前では走らない。
先ほど学んだばかりである。
「小藤太殿」
「はい」
「状況は分かりますね」
「分かります。とてもまずいです」
「はい」
「義銀様とお琴様が不在。木下殿も不在。寧々殿だけが斯波家に残られています」
「はい」
「このまま帰すのは失礼です」
「はい」
「かといって、斯波家に長くお留めするのも、当主夫妻不在では難しいです」
「その通りです」
「どうすればよいのでしょうか」
私がそう言うと、又助殿は即答した。
「藤の方様にご相談しましょう」
私は足を止めかけた。
「隣の柴田邸へ?」
「はい」
又助殿は、まっすぐ前を見ていた。
「木下殿の奥方様を、このままお帰しするよりは、その方が失礼が少のうございます」
「藤の方様なら」
「はい。客として招くこともできますし、奥方同士の場も整えられます」
なるほど。
なるほど!
私は、ようやく息ができた気がした。
そうだ。
藤の方様だ。
隣には、藤の方様がいる。
柴田の奥を整え、斯波家の始まりも見届け、困った時には大抵どうにかしてくださる方が。
「すぐに参ります!」
私は駆け出そうとした。
又助殿が、すぐに言った。
「走らないでください」
「なぜですか!?」
「客人の前で走らなかった意味がなくなります」
「……はい」
私は足を止めた。
走らない。
だが、早く行く。
早く行くが、走らない。
なんという難しさ。
礼法とは戦より難しいと、小平太兄上が言っていた。
兄上。
今なら少し分かります。
「早歩きです」
「はい」
「ただし、慌てすぎないように」
「難しすぎます」
「慣れです」
又助殿は容赦がなかった。
こうして私は、隣の柴田邸へ向かった。
胃を押さえたい。
けれど、押さえている暇はない。
藤の方様にご相談しなければ。
木下殿の奥方様を、このままぽつんと残してはならない。
斯波家の失礼にしてはならない。
そして何より。
信長様。
なぜ、この場で呼び出したのですか。
そう心の中で何度も叫びながら、私はぎりぎり走らない速度で、藤の方様のもとへ向かった。