作品タイトル不明
第一話 平穏な日ほど、足音は近い
義銀と琴の祝言から、三か月が過ぎた。
三か月。
たった三か月。
けれど、家というものは、三か月もあれば随分と顔つきが変わるものらしい。
隣に建てられた新しい斯波家は、もう空の屋敷ではなくなっていた。
朝になれば人が動く。
文を持った者が出入りする。
太田又助殿が、今日もどこかで筆を走らせている。
小藤太殿が、今日もどこかで胃を押さえている。
平右衛門殿が、若い者たちに馬の扱いを教えている声が聞こえることもある。
新介は静かに動き、小平太は動きすぎて誰かに止められる。
そして義銀は、信長様の下で忙しく動いていた。
斯波家の当主となったとはいえ、家に籠もっていられる立場ではない。
信長様の部下として、あちらこちらへ呼ばれ、文を受け、人と会い、帰ってくれば又助殿に何かを書かされている。
忙しそうだ。
けれど、少し楽しそうでもある。
以前の義銀は、どこかで自分の名に追われているような顔をしていた。
今も忙しい。
今も大変そうだ。
けれど、今の義銀は、追われているというより、自分の足で走っているように見える。
それは、良いことなのだと思う。
たぶん。
……無理はしているのでしょうけれど。
そこは琴に任せましょう。
その琴もまた、忙しかった。
織田家で姫としての教育を受けたことがきっかけで、帰蝶様や織田家の姫君たちに気に入られたらしい。
ことあるごとに清洲へ呼ばれている。
最初の頃は、戻ってくるたびに目を回していた。
袖がどうの。
言葉遣いがどうの。
文の返し方がどうの。
姫君同士の会話の間がどうの。
聞いているだけで、こちらまで目が回りそうだった。
けれど、最近の琴は少し違う。
疲れてはいる。
間違いなく疲れてはいる。
でも、背筋が伸びた。
目線が落ち着いた。
そして何より、義銀を止める時の声に、妙な重みが出てきた。
「義銀様。まずはお座りください」
「琴、私は」
「お座りください」
「……はい」
信長様。
短刀の使い道は、今のところ鞘のままでも十分そうです。
そんなことを思いながら、私は藤七丸を抱いていた。
藤七丸は、よく眠る。
本当によく眠る。
けれど、眠ってばかりではない。
最近は、目を開けてこちらを見る時間も増えた。
何が見えているのかは分からない。
けれど、じっと見てくる。
その目が、少し勝家様に似ている気がする。
眉のあたりだけではなく、目元も少し。
「藤七丸」
呼ぶと、藤七丸は小さく口を動かした。
声にならない声。
それだけで、胸の奥が柔らかくなる。
「今日もよく眠りましたね」
返事はない。
当然である。
赤子ですので。
けれど、私はつい話しかけてしまう。
「今日は暖かいですよ。風も穏やかです。庭の木も、少し葉が増えました」
藤七丸は、私の袖を握った。
弱い力。
けれど、確かに握っている。
私は思わず笑った。
「まあ。お強い」
そこへ、低い声がした。
「強くなる」
振り返ると、勝家様が立っていた。
いつからいたのでしょう。
この方は、体が大きいのに時々気配を消す。
「勝家様」
「うむ」
「藤七丸を見に?」
「うむ」
「お仕事は?」
「済ませた」
本当に済ませたのでしょうか。
最後の確認まで済んでいるかは、少し怪しいところですが。
そう思ったけれど、勝家様の顔は真面目だった。
真面目な時ほど危ういのは、もう分かっている。
けれど今日は、疑うのをやめた。
勝家様は、私の腕の中の藤七丸を覗き込んだ。
藤七丸は、じっと父を見た。
勝家様も、じっと息子を見る。
しばらく、二人は見つめ合っていた。
赤子と鬼柴田。
不思議な光景である。
「似ておりますね」
私が言うと、勝家様は少しだけ目元を緩めた。
「そうか」
「眉が」
「眉か」
「皆様、そう仰います」
「うむ」
嬉しそうですね。
とても嬉しそうですね。
私は笑いを堪えながら、藤七丸を抱き直した。
「もう少ししたら、お乳の時間です」
「そうか」
「その後、少し寝かせます」
「うむ」
「勝家様」
「何だ」
「その顔でずっと見ていると、藤七丸が起きます」
勝家様は、少しだけ身を引いた。
素直でよろしい。
穏やかな昼下がりだった。
柴田邸には、珍しく大きな騒ぎがない。
台所では、昼餉の支度が進んでいる。
帳面は、朝のうちに確認した。
米は足りている。
葱も無駄なく使える。
藤七丸はよく眠っている。
勝家様は、たぶん本当に仕事を済ませている。
隣の斯波家も、今日は客を迎えると聞いていた。
木下藤吉郎殿と、その奥方の寧々殿。
以前から約束していた挨拶だと、義銀が話していた。
木下殿は、信長様のところでよく動く人だ。
明るく、人懐こく、調子のよい方。
あと、偏見が入っているだろうが、油断ならない。
そんな印象がある。
寧々殿とは、私はまだゆっくり話したことがない。
どのような方なのだろう。
琴が少し緊張していたので、きっときちんとした方なのだと思う。
「隣は、猿が来ているのだったな」
勝家様が言った。
猿。
勝家様までそう呼ぶのですね。
「はい。義銀と琴が迎えているはずです」
「うむ」
「何か気になりますか?」
「猿はよく動く」
「信長様も、木下殿を猿と呼んでおられますね」
「うむ」
「ご本人は嫌がらないのでしょうか」
「知らぬ」
知らぬ。
そうですか。
勝家様らしいお答えである。
私は藤七丸の頬をそっと撫でた。
「今日は平和ですね」
勝家様が、少しだけこちらを見た。
「平和か」
「はい。藤七丸はよく眠り、米は足り、隣では挨拶の客を迎えています」
「うむ」
「こういう日が続けばよいのですが」
言った瞬間。
なぜか、胸の奥に小さな不安が生まれた。
平和。
そう言葉にした時ほど、何かが来る。
私はもう、それを知っている。
勝家様も、なぜか少しだけ庭の方を見た。
足音が聞こえた。
早い。
けれど、走ってはいない。
走ってはいけないと、誰かに言われた者の足音だ。
早歩き。
しかし、ほとんど駆け足。
そんな、実に中途半端で切羽詰まった足音。
私は勝家様と顔を見合わせた。
「……小藤太殿ですね」
「うむ」
なぜ分かるのか。
分かるのです。
胃の痛そうな足音というものがある。
しばらくして、廊下の向こうから小藤太殿が現れた。
息が上がっている。
けれど、ぎりぎり走っていない。
手前で一度立ち止まり、姿勢を整えようとして、整えきれず、こちらへ深く頭を下げた。
「藤の方様!」
「はい」
「ご相談がございます!」
声が少し大きい。
よほど慌てているらしい。
私は藤七丸を抱いたまま、目を瞬いた。
「小藤太殿。まず、息を整えましょう」
「はい!」
「声も少し落としましょう。藤七丸が起きます」
「申し訳ございません!」
「落としましょう」
「……申し訳ございません」
よろしい。
藤七丸は、少しだけ眉を動かしたが、まだ眠っている。
強い。
さすが勝家様に似た眉である。
小藤太殿は、私と勝家様を交互に見た。
そして、もう一度深く頭を下げる。
「隣の斯波家にて、木下藤吉郎殿と奥方様をお迎えしておりましたところ」
「はい」
「信長様より、呼び出しがかかりまして」
「はい」
そこまでは、まだ分かる。
信長様なら、突然呼び出す。
分かる。
分かってしまうのが少し悔しい。
小藤太殿は、さらに青ざめた顔で続けた。
「義銀様とお琴様、そして木下殿は清洲へ向かわれることになりました」
「はい」
「そのため、木下殿の奥方様が、斯波家にお一人残られる形となりまして」
私は、ゆっくり瞬きをした。
勝家様も、少しだけ眉を動かした。
小藤太殿は、ほとんど泣きそうな顔で言った。
「このままお帰しするのは、あまりにも失礼ではないかと」
なるほど。
完全に理解した。
私は藤七丸を抱き直し、静かに息を吐いた。
平和な日ほど、足音は近い。
本当に、その通りである。
「小藤太殿」
「はい」
「又助殿は?」
「藤の方様にご相談すべきと」
「そうですか」
さすが又助殿。
判断が早い。
そして小藤太殿。
よく走らずに来ました。
早歩きでしたが。
「分かりました」
私は頷いた。
「木下殿が戻られるまで、寧々殿には我が家でお茶を召し上がっていただきましょう」
小藤太殿の顔に、露骨な安堵が浮かんだ。
「ありがとうございます!」
「声」
「……ありがとうございます」
よろしい。
私は勝家様を見る。
「起きたらすぐに呼んでくださいませ。お乳の時間が近いので」
「うむ」
「泣かせたままにしてはいけませんよ」
「分かっておる」
「本当に?」
「……分かっておる」
「では、お願いします」
「任せろ」
任せました。
少し不安ですが、任せました。
私は藤七丸をそっと勝家様の腕へ預ける。
勝家様は、恐ろしく真剣な顔で藤七丸を抱いた。
戦場より緊張しているのではありませんか。
そう思ったけれど、口には出さない。
今は、隣の斯波家の方が先である。
私は小藤太殿へ向き直った。
「では、参りましょう」
「はい」
小藤太殿は、また慌てて歩き出そうとした。
「小藤太殿」
「はい!」
「走りません」
「……はい」
「早歩きも、少しだけ控えましょう」
「……はい」
私は、少しだけ笑った。
小藤太殿は胃の痛そうな顔で、けれど少しだけ安心したように、私の後ろに続いた。
こうして、平和な昼下がりは終わった。
そして私はまだ知らなかった。
この日、斯波家にぽつんと残された木下藤吉郎殿の奥方と、長く話すことになるのだと。
そして、その話がまた、別の家の未来を少しずつ変えていくのだと。