軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

プロローグ

柴田のお藤の方。

『叔母に勝信が生まれた時、私は安堵した。

ようやく叔母が、己を責めずに済むと思ったからである。

永禄三年。

桶狭間の年。

織田信長公が今川義元を討ち、尾張の命運が大きく変わったその年に、叔母は勝信を産んだ。

義叔父・勝家殿が信行様のもとで戦功を上げていた頃、叔母は柴田の屋敷で、勝家殿の子を産んだのである。

後の世の者が桶狭間の年を語る時、必ず戦の名を挙げるだろう。

雨。

奇襲。

今川義元の首。

織田信長公の名。

尾張の小さな勢力が、大きな歴史へ踏み出した一戦。

それは確かに、その通りなのだと思う。

けれど、私にとっての永禄三年は、それだけの年ではなかった。

叔母が、己を子のない女として責め続けずに済むようになった年であった。

柴田勝家の正妻となって四年。

叔母は、柴田家の帳面を整え、兵糧を回し、蔵を正し、人を動かし、義叔父・勝家殿の背を支え続けた。

けれど、叔母自身はそれを己の功とは思っていなかった。

叔母が見ていたのは、己の腹であった。

勝家殿の子を宿せぬかもしれぬ自分。

柴田家に嫡男を産めぬかもしれぬ自分。

鬼柴田の妻でありながら、鬼柴田の血を残せぬかもしれぬ自分。

叔母はそれを誰にも言わなかった。

少なくとも、私たちには言わなかった。

だが、子供というものは、大人が隠したものを案外見ている。

帳面を見ている横顔。

赤子を抱く女を見た時の、ほんの一瞬の沈黙。

義叔父が戦場へ向かう背を見送った後、己の腹へ手を当てていた姿。

叔母は、子が欲しかったのだと思う。

勝家殿の子が。

柴田家の子が。

そして、己がその家にいてよいのだと、自分で信じられる何かが。

勝信の誕生は、叔母の荷をひとつ下ろした。

だが、それで叔母が、子を望む女の痛みを忘れたわけではなかった。

むしろその痛みを知るからこそ、叔母は見逃せなくなったのだと思う。

赤子を見る女の目を。

愛おしそうで、優しくて、それなのにどこか寂しい目を。

木下藤吉郎殿。

後に羽柴の名を得る男。

信長公が、猿と呼んだ男。

その女房、寧々殿。

二人が叔母の前に現れた時、叔母はまた余計なことに首を突っ込むことになる。

もっとも、叔母に言わせれば、余計なことではなかったのだろう。

泣きそうな女が目の前にいる。

ならば、茶を出す。

話を聞く。

身体を温める。

飯を食わせる。

叔母にとって、それは歴史を変えることではなかった。

ただ、目の前の人を放っておけなかっただけである。

けれど、この物語においては、そういう小さなことこそが、いつも歴史を少しずつ変えていくのだ』

――斯波義銀晩年記『藤乃叔母上覚書』より

義銀は、何でもよく見ていたのだと思う。

私は写本の文字を指でなぞりながら、静かに息を吐いた。

まったく。

子供というものは、見ていないようで見ている。

聞いていないようで聞いている。

そして、大人が隠したつもりの弱さを、ずっと後になってから文字にして残す。

困った甥だ。

いえ。

困った甥だった。

義銀はもういない。

勝家様もいない。

義冬も、あの頃の小さな子ではない。

勝信も、私の腕の中で眠っていた赤子ではなくなった。

けれど、こうして義銀の残した文字を読んでいると、あの頃のことが昨日のように思い出される。

勝信が、まだ藤七丸と呼ばれていた頃のことだ。

桶狭間の翌年。

雨の中で今川義元が討たれ、尾張中が勝利に沸いたあの年から、ひとつ年が改まっていた。

けれど、桶狭間の気配はまだ遠くなってはいなかった。

勝った者たちは、より忙しくなった。

傷ついた者たちは、まだ痛んでいた。

立ち上がったばかりの家は、立った瞬間から走り出さねばならなかった。

新しい斯波家も、柴田家も、ようやく息をついたばかりだった。

義銀は新たな家を立てた。

琴は織田の姫として斯波へ入った。

新介も小平太も、それぞれの役目を持った。

義冬も、兄の後ろで背筋を伸ばすようになった。

そして私は、桶狭間の年に生まれた藤七丸を腕に抱いていた。

藤七丸は、よく眠る子だった。

泣いて、飲んで、眠る。

眠ったと思えば、また泣く。

小さな手が私の袖を握る。

弱い力なのに、なぜか胸の奥まで掴まれるような気がする。

赤子とは、不思議なものだ。

何もできない。

言葉も話せない。

ひとりでは起き上がることもできない。

なのに、その小さな存在ひとつで、周りの大人を簡単に動かしてしまう。

勝家様など、藤七丸が少し眉を動かしただけで真剣な顔になる。

鬼柴田と呼ばれる方が、赤子の眉ひとつであの顔になるのだから、世の中は不思議である。

結局、勝家様は孫を抱いたときも同じ顔をした。

私は、気づけばひ孫まで抱くことになる。

勝家様には、ほんの少しだけ、そこまでの時間が足りなかったけれど。

本当に、懐かしい。

子というものは宝物だ。

でも、その宝を得られない夫婦はたくさんいる。

私は、子が生まれた。

けれど、それで全てが終わったわけではない。

藤七丸は育てねばならなかった。

柴田家も、斯波家も、まだまだ落ち着かなかった。

義銀と琴は忙しく動いていた。

義冬も、兄の後ろで少しずつ背筋を伸ばし始めていた。

新介も、小平太も、それぞれの妻を迎え、新しい斯波家の中で役目を持った。

家は立った。

けれど、家は立てば終わりではない。

人が暮らし、飯を食べ、子を育て、時に悩み、時に泣き、また立ち上がる場所になる。

だから、私は忙しかった。

米を数える。

葱を刻む。

帳面を見る。

藤七丸を抱く。

義銀を叱る。

琴を気にかける。

勝家様に説明を求める。

そして、もし誰かが胸の奥に重いものを抱えているなら。

見て見ぬふりは、できないのだと思う。

その時の私は、まだ知らなかった。

新しい斯波家へ挨拶に訪れた木下藤吉郎殿の奥方が、やがて私の前で、藤七丸を愛おしそうに見つめることを。

そして私はまた、忙しなく動くことになる。

鬼柴田の妻として。

猿の女房の寂しさを見てしまった女として。