作品タイトル不明
第二十七話 我が娘を与えたのだ
めでたい。
その言葉は、この日、何度聞いたか分からない。
「まこと、めでたきことにございますな」
「斯波家の再興、祝着至極」
「柴田殿が後見に立たれるなら、これほど心強いことはありますまい」
「信長様の猶子を迎えられるとは、斯波殿もいよいよ」
来る人、来る人、口々に祝いを述べる。
笑顔。
盃。
祝いの品。
丁寧に整えられた言葉。
けれど、その言葉の奥には、皆それぞれ別のものを見ている。
今日の宴は、ただの祝言ではない。
義銀と琴。
新介と又助殿の妹君。
小平太と勝家様の妹君の娘。
三組の婚姻を、柴田家が後見として仕切る宴である。
そして、その中でも最も大きな意味を持つのは、やはり義銀と琴だった。
琴は、毛利の妹としてではなく、信長様の猶子として義銀へ嫁いだ。
つまり、織田家の姫として、斯波家の奥に入る。
この意味を、分からぬ者はいない。
斯波家は、ただ昔の名を掲げて立ち上がるのではない。
織田家の縁を得て、柴田家の後見を得て、新しい家として立つ。
そういう宴だった。
「藤の方様」
呼ばれて振り返ると、又助殿が目録を抱えて立っていた。
「祝いの品は、こちらで一度整理いたします」
「お願いします。あとで返礼の順を確認しましょう」
「承知いたしました」
又助殿は深く頭を下げる。
その所作は相変わらず無駄がない。
この人がいなければ、今日の宴は三倍は混乱していただろう。
……いえ、五倍かもしれない。
祝いの品も、人の出入りも、文も、返礼も、全部が多い。
めでたいとは、忙しいことなのだ。
私は、少し離れたところに並ぶ三組を見た。
義銀は、きちんと座っていた。
いつもの軽口を返す義銀ではない。
斯波家の当主として、整った礼を崩さず、来客の祝辞を受けている。
その隣にいる琴は、少し緊張していた。
けれど、以前のようにただ慌てているだけではない。
清洲で叩き込まれた姫としての所作が、ぎこちながらも確かに形になっている。
背筋。
袖の扱い。
目線。
頭を下げる間。
完璧ではない。
けれど、逃げずに覚えてきたのだと分かる。
頑張りましたね、琴。
私は胸の奥でそっと呟いた。
その少し後ろに、義冬がいた。
まだ宴の主役として前へ出る年ではない。
けれど、斯波家の弟君として、今日この場にいないわけにはいかない。
義冬は、いつもよりずっと緊張した顔で座っていた。
来客から声をかけられるたび、少し硬い動きで頭を下げている。
「弟君もご立派になられて」
そう言われた時、義冬は一瞬だけ兄の方を見た。
義銀が静かに頷く。
それを見て、義冬も背筋を伸ばした。
ああ。
この子も、分かっているのだ。
義銀が斯波の当主として頭を下げる。
その弟である自分もまた、同じ名を背負うのだと。
本当に、子供はあっという間に大きくなる。
新介は、新妻となった又助殿の妹君と並んでいる。
又助殿の妹君は、兄とよく似ていた。
派手ではない。
けれど、目がよく動く。
人の話を聞き、場を見て、必要なところで微笑む。
新介はどこか静かに緊張していた。
礼法の稽古で直されたところを、ひとつずつ思い出している顔である。
あの新介が。
少し面白い。
小平太は、勝家様の妹君の娘と並んでいた。
於光様が「なかなかにしっかりしておりますから」とにっこり笑っていた娘である。
たしかに、しっかりしていた。
小平太が少し姿勢を崩しかけると、にこりと微笑む。
それだけで、小平太の背筋が伸びる。
なるほど。
於光様。
ご安心くださいという意味が、よく分かりました。
小平太はきっと、大丈夫です。
逃げられませんから。
「お藤」
低い声に顔を上げると、勝家様が隣に立っていた。
「はい」
「疲れておらぬか」
「少しだけ」
「休むか」
「まだ大丈夫です」
勝家様は、少しだけ眉を寄せた。
「無理はするな」
「はい」
その言葉を聞いて、思わず笑ってしまう。
以前なら、私が誰かに言っていた言葉だ。
今は、勝家様から言われている。
少し不思議だった。
宴は賑やかに続いていた。
盃が交わされ、祝辞が述べられ、三組は何度も頭を下げる。
義銀は崩れない。
琴も懸命に崩さない。
義冬は、兄の背を見ながら同じように背筋を伸ばしている。
新介は少しずつ慣れてきた。
小平太は、ときどき又助殿の視線を感じて姿勢を直す。
そのたびに、義銀と新介がわずかに笑いを堪えている。
本当に、よくここまで来たものだ。
そう思った時だった。
広間の入口のあたりが、ふっと揺れた。
ざわめきというほどではない。
けれど、空気が変わった。
私は、嫌な予感というより、もう覚えのある気配に振り返った。
信長様がいた。
そして、その隣には信行様がいる。
……お忍びとは。
お忍びとは、いったい何でしょうか。
信長様は、目立たぬ装いをしているつもりなのかもしれない。
けれど、無理である。
信長様は、どこにいても信長様だ。
信行様は、すでに少し諦めた顔をしていた。
「兄上」
信行様が低く言う。
「目立たぬようにと申し上げたはずですが」
「目立っておらぬ」
「無理がございます」
「祝いだ。顔くらい出す」
「顔だけで済まないでしょう」
信長様は笑った。
済ませる気がない顔だった。
勝家様がすぐに頭を下げる。
「殿」
「権六。めでたいな」
「はっ」
信長様は広間を見回し、それから義銀と琴の前へ進んだ。
場が静まる。
来客たちも、皆、息を呑んで見ている。
義銀が深く頭を下げた。
琴も続く。
その所作は、少し震えていたが、乱れてはいなかった。
義冬も、その後ろで深く頭を下げている。
信長様の目が、そこで少しだけ細くなる。
「お琴」
「はい」
琴が顔を上げる。
信長様は、どこか楽しげに笑った。
「ようよう励んだな」
琴の目が、わずかに揺れた。
「帰蝶が褒めておった。よく聞き、よく覚え、何より逃げぬとな」
琴の唇が、少しだけ震えた。
「……ありがたき、お言葉にございます」
私は、胸の奥が温かくなった。
帰蝶様が褒めてくださった。
それを、信長様がこの場で口にしてくださった。
琴にとって、これほど心強い言葉はないだろう。
清洲で目を回しながら、逃げずに覚えた日々が、この一言で報われる。
信長様は、そばの者へ目を向けた。
差し出されたのは、一振りの短刀だった。
「これを受け取るがよい」
琴は一瞬、目を見開いた。
「……私に、でございますか」
「そうだ」
信長様は頷く。
「薬研藤四郎だ」
私は、息を止めた。
薬研藤四郎。
その名を、私は知っている。
知っている、はずだった。
歴史の中で。
物語の中で。
遠い時代の名刀として。
けれど、今。
その短刀が、目の前にある。
薬研藤四郎って、本当にここにあるものだったのですね。
いや、実在したのは知っている。
知っているのですが。
前世で友人が嬉々として語っていた名刀が、今、信長様の手から琴へ渡されようとしている。
情報量が多い。
とても多い。
私は、藤の方としての顔を保つのに少し苦労した。
信長様は、そんな私の内心など知らぬ顔で笑っている。
「よく斬れる。だが、主の腹は斬らぬという」
広間の空気が、わずかに変わった。
信長様は、ちらりと義銀を見る。
「義銀がまた己を削るような真似をしたなら、これで抑え込んでしまえ」
「信長様」
義銀が困った声を出した。
琴は、短刀を両手で受け取った。
その手は少し震えていた。
けれど、取り落とすことはなかった。
琴は短刀を胸に抱え、真剣な顔で義銀を見る。
「斯波様」
「……何です」
「無理はなさらないでください」
義銀は、何も言えなくなった。
新介が小さく息を吐く。
「琴」
「はい、兄上」
「本当に刺すなよ」
「刺しません」
小平太が横から言った。
「鞘のままでも止められそうだな」
「小平太」
義銀の声が低くなる。
信長様は声を立てて笑った。
「よい。斬れとは言わぬ。止めろ」
琴は、短刀を抱えたまま、深く頭を下げた。
「承りました」
その姿を見て、私は思った。
琴はもう、ただの毛利の妹ではない。
織田の姫として、斯波の奥へ入る娘だ。
そして今、信長様はその手に、義銀を守るための刃を持たせた。
斬るためではなく。
止めるために。
信長様は、そのまま義銀を見た。
「義銀」
「はっ」
「我が娘を与えたのだ」
その一言で、広間がさらに静まり返った。
信長様は笑っている。
けれど、その言葉は軽くない。
琴は信長様の猶子。
織田の娘。
その琴を義銀へ与えた。
それを、信長様自らがこの場で明言した。
「我が息子として、期待しておるぞ」
義銀は、深く頭を下げた。
「身に余るお言葉にございます」
声は落ち着いていた。
けれど、私は分かった。
義銀もまた、この言葉の重さを受け止めている。
来客たちは、皆、理解しただろう。
斯波義銀は、ただ斯波の名を掲げる若者ではない。
織田の娘を迎えた男であり、信長様から息子と呼ばれた男なのだ。
柴田家が後見に立ち、織田家が縁を与える。
新しい斯波家は、ここに立つ。
信長様は、そこで義冬へ視線を移した。
「義冬」
「はっ」
義冬の声は少し硬かった。
「兄を支えよ」
短い言葉だった。
けれど、義冬はそれだけで背筋を伸ばした。
「はい」
「斯波の名は、義銀一人のものではない」
義冬の喉が、わずかに動く。
義銀が、静かに弟を見た。
義冬は、兄の視線を受けてから、もう一度深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
信長様は満足そうに笑った。
そして、あっさりと踵を返す。
信行様が深く息を吐いた。
「兄上。言うだけ言って帰られるのですか」
「十分だろう」
「十分すぎます」
「ならよい」
信長様は楽しそうだった。
信行様は、こちらへ向かって丁寧に頭を下げた。
「権六、お藤の方。宴の邪魔をいたしました」
「いえ」
私は頭を下げる。
信行様は、義銀と琴、そして義冬にも視線を向けた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
義銀が答え、琴も深く頭を下げる。
義冬も、少し遅れて頭を下げた。
信行様は小さく頷き、それから信長様の後を追った。
本当に帰っていった。
言うだけ言って。
渡すものを渡して。
場の意味を決定づけて。
帰っていった。
信長様らしい。
しばらく、広間は静かだった。
けれど、やがて誰かが息を吐き、次いで祝いの言葉がまた続いた。
「まこと、めでたきことにございます」
「織田家の姫を迎えられるとは」
「斯波殿、今後とも」
その声は、先ほどまでと少し違っていた。
皆、見たのだ。
信長様が琴へ薬研藤四郎を渡し、義銀を息子と呼び、義冬に兄を支えよと告げた場面を。
もう、この縁はただの噂ではない。
この宴そのものが、証になった。
義銀は、琴の隣で静かに座っていた。
琴は短刀を大切に抱えている。
義冬は、その少し後ろで、膝の上の手を握りしめていた。
新介は、その様子を少し複雑そうに見ていた。
兄として、誇らしくもあり、寂しくもあるのだろう。
小平太は、隣の新妻に何か小声で言われ、慌てて姿勢を正している。
又助殿は、すでにこの一連の出来事を記録する顔をしていた。
私は、そのすべてを見ながら、ゆっくりと息を吐いた。
めでたい。
本当に、めでたい。
けれど、めでたいとは、こんなにも胸の奥が重く温かくなるものなのか。
私はその時、まだ気づいていなかった。
この日の宴で、私の中にあった何かが、静かに下り始めていたことに。