軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十六話 礼法とは戦より難しい

新介は、義銀のことをよく知っているつもりだった。

頭が回る。

無理をする。

人の顔色をよく見る。

小平太が突っ込むなら、義銀はその前に道を探す。

新介が後始末をする頃には、義銀はすでに次の手を考えている。

そういう男だ。

桶狭間でもそうだった。

義銀が見て、新介が測り、小平太が進む。

頭と槍と刃。

そう言えば聞こえは良いが、実際は泥にまみれ、雨に濡れ、馬を滑らせながら、どうにか生きて帰っただけだ。

それでも、新介は知っている。

義銀は、名だけの若君ではない。

ちゃんと考え、ちゃんと怖がり、それでも前に進む男だ。

だから、斯波家を立て直すと決まった時も、新介は迷わなかった。

義銀を一人で立たせるくらいなら、自分もその面倒な家に入った方がましだと思った。

ただ。

それでも。

又助殿の前で座を整えた義銀を見た時、新介は一瞬、息を止めた。

義銀の背が、すっと伸びる。

手の置き方。

膝の揃え方。

頭を下げる角度。

顔を上げる間。

そこに、迷いがなかった。

無駄もなかった。

いつものように軽口を返す義銀ではない。

柴田邸で藤の方様に叱られ、琴に止められ、小平太と口を利き合う義銀でもない。

そこにいたのは、斯波の若君だった。

一度、家を失った。

父を失った。

名だけを背負わされ、押し潰されかけた。

それでも、この所作だけは義銀の身体に残っていたのだ。

「……義銀」

思わず名を呼びそうになり、新介は口を閉じた。

隣で小平太も黙っていた。

いつもなら何か言う男が、何も言わない。

それだけで、義銀の所作がどれほど整っていたか分かる。

藤の方様が、少しだけ目を細めていた。

叱る時の目ではない。

心配する時の目でもない。

誇らしげな目だった。

勝家様も腕を組んだまま、静かに義銀を見ていた。

その顔はいつも通り厳つい。

けれど、新介には分かった。

あれは、満足している顔だ。

義銀が斯波の名に潰されるのではなく、斯波の名を支える側に立とうとしている。

その姿を、藤の方様も勝家様も見ているのだ。

又助殿が静かに頭を下げた。

「斯波様は、礼の筋が乱れませぬ」

義銀は、淡々と答えた。

「幼い頃に叩き込まれましたので」

その声に、少しだけ昔の影があった。

新介は、胸の奥が重くなるのを感じた。

叩き込まれた礼。

失われた家。

それでも残った所作。

義銀は、ただの友ではない。

ただの馬廻衆でもない。

斯波の名を背負って生まれ、それを失い、それでもまた立つ男なのだ。

「では、毛利殿」

又助殿の声で、新介は我に返った。

「はい」

新介は座を整え、頭を下げる。

悪くはない。

少なくとも、小平太よりは悪くないはずだ。

そう思った瞬間、又助殿が言った。

「毛利殿、そこで手が早い」

「……手」

「頭を下げる前に言葉が出ております」

「……はい」

「それから、返答が少し軽い」

軽い。

新介は、内心で少しだけ息を吐いた。

自覚はあった。

礼を知らないわけではない。

けれど、義銀のように幼い頃から身体に入っているわけではない。

信長様の側で覚えた礼。

戦場で崩れないための礼。

相手の機嫌を損ねないための礼。

それは、どこか我流なのだろう。

「もう一度」

「はい」

新介はもう一度、礼をする。

又助殿がすぐに言う。

「今度は間が短い」

「間」

「相手が受け取る前に動いております」

新介は、ほんの少し眉を寄せた。

難しい。

戦場なら、迷う前に動いた方がよい時もある。

遅れれば死ぬ。

考えすぎれば、小平太が勝手に突っ込む。

だが、礼法は違う。

早ければよいわけではない。

遅ければ丁寧というわけでもない。

相手が受け取る間を作る。

そのために動きを整える。

「俺は、こういうものを感覚で済ませておりました」

新介が言うと、又助殿は静かに頷いた。

「感覚で済ませる者は、相手が変わると崩れます」

「耳が痛い」

「毛利殿は、考えて直すのが早い。ですが、癖がございます」

「癖」

「はい」

「……どれほど」

「多いです」

小平太が吹き出した。

「新介、癖が多いそうだ」

新介はそちらを見ずに言った。

「笑っている場合か」

「何だ」

「次は小平太だ」

小平太の笑みが消えた。

藤の方様が、少しだけ口元を押さえている。

勝家様は腕を組んで見ている。

義銀は目を伏せているが、肩がわずかに震えていた。

笑っているな。

新介は、そう思った。

又助殿が小平太へ向き直る。

「服部殿」

「はい」

「まず、座ってください」

小平太は座った。

座った瞬間、又助殿が言った。

「膝が開きすぎです」

「まだ座っただけだが!?」

「座っただけで分かります」

新介は目を伏せた。

義銀も口元を押さえる。

小平太が二人を睨む。

「笑うな」

「笑っていない」

「咳です」

「二人とも同じ言い訳をするな!」

又助殿は淡々と続ける。

「背筋はよろしいです。ですが、力が入りすぎています」

「武家なら力を」

「入れればよいわけではございません」

「はい」

「手の位置が高い」

「はい」

「頭を下げる角度が大きすぎます」

「はい」

「それは礼というより、戦場で突撃する前の勢いです」

「どう違うのですか」

「全部です」

小平太は黙った。

今度こそ、新介は肩を震わせた。

義銀も震えている。

小平太が二人を見る。

「義銀、新介」

「はい」

「何です」

「笑ったな」

「笑っていません」

「咳です」

「もうよい!」

又助殿が、ぱん、と手を打つ。

三人が黙る。

文官なのに、なかなか強い。

藤の方様が、ついに少しだけ顔を背けた。

笑っておられる。

勝家様は、小平太の礼を見て、なぜか少し満足そうだった。

「勢いがある」

「勝家様」

藤の方様の声がすぐに飛ぶ。

「うむ」

「婚姻の礼に勢いは不要です」

「……うむ」

勝家様は黙った。

新介は、また笑いそうになった。

けれど、その空気を戻したのは又助殿だった。

「服部殿」

「はい」

「婚姻の場では、勢いよりも、相手の家に乱れなく礼を尽くすことが肝要です」

「……承知しました」

「そして毛利殿」

「はい」

急に呼ばれて、新介は背筋を伸ばした。

又助殿の目は静かだった。

「毛利殿も、ここで泣き言を申す暇はございません」

「泣き言は申していないつもりですが」

「顔に出ております」

小平太が小さく笑う。

「新介、顔に出ているそうだ」

「小平太」

「何だ」

「黙れ」

藤の方様が、そこで静かに言った。

「新介」

「はい」

「お琴は、もっと上位の礼儀作法を叩き込まれておりますよ?」

新介は、動きを止めた。

琴。

その名が出た瞬間、場の空気が少し変わった気がした。

新介は藤の方様を見る。

藤の方様は、穏やかな顔をしていた。

けれど、その言葉は軽くない。

「琴が、ですか」

「ええ」

藤の方様は頷いた。

「今頃、清洲で目を回しているでしょうね。袖を直され、歩幅を直され、文の言い回しを直されているはずです」

新介の喉が、わずかに鳴った。

琴は、兄の前ではよく気がつく妹だった。

顔色を見る。

薬湯を出す。

無理をする者を止める。

新介が少し疲れて帰れば、何も言わずに温かいものを用意する。

その琴が、今、清洲で姫としての作法を叩き込まれている。

毛利の妹としてではない。

信長様の猶子として。

斯波へ嫁ぐ姫として。

又助殿が、静かに続けた。

「毛利殿」

「はい」

「お琴様に求められているものは、毛利の妹としての作法ではございません」

新介は、顔を上げた。

「……どういう意味です」

「お琴様は、信長様の猶子として斯波家へ嫁がれます」

又助殿は、淡々と言った。

「つまり、織田家の姫として、人前に立たれるということです」

新介は、息を止めた。

織田家の姫。

その言葉が、胸に落ちる。

琴が。

自分の妹が。

又助殿は続ける。

「少なくとも、人前で藤の方様の隣に立っても恥じぬだけの所作は求められましょう」

その瞬間、新介はようやく理解した。

琴は、ただ嫁ぐのではない。

毛利の妹として、義銀の妻になるのではない。

織田家の姫として、斯波家の奥へ入るのだ。

ならば、求められるものは、ただの武家の娘の作法では済まない。

名家の姫と並んで、遜色ない礼。

人前で軽く見られぬ所作。

斯波の奥方として、義銀の隣に立てる姿。

それを、今、琴は清洲で叩き込まれている。

新介は、膝の上で拳を握った。

この程度で、自分が泣き言を言ってどうする。

自分が礼を軽んじれば、琴まで軽く見られる。

毛利の家も、義銀の家も、琴の背負う織田の名も、侮られる。

新介は、静かに頭を下げた。

「又助殿」

「はい」

「もう一度、お願いします」

又助殿は、ほんの少しだけ目を細めた。

「承知いたしました」

小平太が、少しだけ新介を見る。

義銀もこちらを見ていた。

藤の方様は、静かに頷く。

勝家様も、腕を組んだまま、短く言った。

「よい」

その一言が、妙に重かった。

新介は、もう一度座を整えた。

今度は、ただ自分の礼を直すためではない。

琴が侮られぬように。

毛利の妹が、織田の姫として斯波へ嫁ぐ時、兄が礼を軽んじるような男だと思われぬように。

そのために、手の位置ひとつ、頭を下げる間ひとつを直す。

又助殿の声が飛ぶ。

「毛利殿、手」

「はい」

「言葉はその後です」

「はい」

「間を置いてください」

「はい」

「今のは少し遅い」

「はい」

難しい。

本当に難しい。

早すぎても駄目。

遅すぎても駄目。

軽すぎても駄目。

重くしすぎても、相手に余計な圧を与える。

戦なら、敵を見ればよい。

地形を見ればよい。

逃げ道を見ればよい。

だが、礼法は違う。

相手の家を見る。

自分の家を見る。

背負う名を見る。

その上で、動きの一つを決める。

小平太が隣で呻いた。

「礼法とは、戦より難しい」

新介は、今度は笑わなかった。

「そうだな」

小平太が驚いたようにこちらを見る。

「お前が同意するのか」

「する」

新介は目を伏せた。

「これは難しい」

義銀が、少しだけ口元を緩めた。

「分かっていただけましたか」

「お前は分かっていたのか」

「幼い頃に、分からされました」

その言葉には、少しだけ苦味があった。

新介は黙った。

義銀の礼は美しい。

だが、それは美しいだけではない。

その裏には、幼い頃から叩き込まれたものがある。

家を失っても身体に残るほど、深く刻まれたものがある。

琴も今、それに近いものを叩き込まれている。

ならば、自分も逃げられない。

「服部殿」

又助殿の声が、小平太へ向かう。

「はい」

「膝」

「はい」

「声」

「はい」

「顔」

「顔もですか!?」

「顔もです」

小平太が天を仰ぎかけて、又助殿に見られ、すぐに戻した。

藤の方様が、静かに言った。

「小平太」

「はい」

「相手の姫君に、最初から『礼を知らぬ方』と思われたいのですか」

小平太の顔が引きつった。

「……それは、困ります」

「では、直しましょう」

「はい」

義銀が、少しだけ口元を押さえた。

新介も目を伏せている。

「義銀、新介」

「はい」

「何です」

「笑うな」

「笑っていません」

「咳です」

「またそれか!」

小平太は不満そうだったが、姿勢は崩れなかった。

柴田家の縁者。

しかも、於光様が「なかなかにしっかりしております」とにこりと笑っていた相手である。

小平太にも、それなりに効くらしい。

その後も稽古は続いた。

義銀はほとんど直されない。

新介は癖を直される。

小平太は怒涛に直される。

「服部殿、手」

「はい」

「服部殿、膝」

「はい」

「服部殿、今の礼は勢いがありすぎます」

「はい」

「服部殿、そこで目を逸らさない」

「はい!」

「声が大きい」

「はい……」

新介は、途中から小平太を笑う余裕がなくなった。

自分も直され続けていたからだ。

けれど、不思議と嫌ではなかった。

理由が分かったからだ。

誰のために直すのか。

何を守るために整えるのか。

それが分かると、礼法はただ面倒なものではなくなった。

面倒ではある。

とても面倒ではある。

けれど、必要なものだった。

休憩の頃合いになった時、又助殿が文を一通、藤の方様へ差し出した。

「清洲より、お琴様の進み具合について文が届いております」

新介は、思わずそちらを見た。

藤の方様が文を開く。

「礼法はまだぎこちないが、人の話をよく聞く。奥向きに関する説明では覚えが早い。ただし、衣の袖さばきで少し慌てる。緊張すると返事が早くなりすぎる……」

藤の方様が、少しだけ微笑んだ。

「琴らしいですね」

新介は、胸の奥が少しだけ温かくなった。

琴は頑張っている。

目を回しながらも、必死に覚えようとしている。

「又助殿」

藤の方様が言う。

「はい」

「清洲へ、休みも稽古のうちだと文を出してください」

「承知いたしました」

「それから、甘いものも」

又助殿が少しだけ目を瞬いた。

「甘いもの、ですか」

「目が回っている時は、甘いものが必要です」

「……記しておきます」

又助殿は真面目に頷いた。

新介は、思わず少しだけ笑った。

藤の方様らしい。

厳しい。

けれど、見ている。

琴のことも。

義銀のことも。

自分たちのことも。

「新介」

義銀が小さく呼んだ。

「何だ」

「大丈夫ですか」

新介は、少しだけ目を細めた。

「俺が聞く側だと思っていた」

「そうでしたか」

「琴を頼むぞ」

義銀は、真面目な顔で頷いた。

「はい」

小平太が横から言う。

「その前に、新介は礼法をどうにかしろ」

新介は、小平太を見た。

「お前にだけは言われたくない」

「何だと」

「服部殿、膝」

又助殿の声が飛ぶ。

小平太は反射的に膝を直した。

義銀が笑った。

新介も笑った。

小平太は不満そうだったが、今度は姿勢を崩さなかった。

礼法とは、ただ頭を下げることではない。

誰を守るために頭を下げるのか。

どの家を背負って座るのか。

どの名を軽く見せぬために、手の位置ひとつを整えるのか。

新介は、その日初めて思った。

礼法とは、戦より難しい。

そして、逃げるわけにはいかない。

清洲で琴が、逃げずに姫の作法を覚えているのだから。