作品タイトル不明
第二十五話 嫁を娶るのですよ?
琴は今、清洲で目を回している。
……はずである。
毛利の妹としてではなく、信長様の猶子として斯波へ嫁ぐ。
言葉にすれば、たったそれだけだ。
けれど、実際にはそれだけで済むはずがない。
衣。
座り方。
歩き方。
文の書き方。
贈答の受け方。
姫としての言葉遣い。
奥向きの差配。
人前での微笑み方。
そして、微笑みながらも相手の言葉を聞き逃さないこと。
琴は人の顔色を見るのが上手い。
傷の具合を見るのも、無理をしている者を止めるのも上手い。
けれど、姫として振る舞うとなると、また別の話である。
清洲へ預けられた琴は、今頃、背筋を伸ばされ、袖を直され、歩幅を直され、文の言い回しを直され、何度も何度も頭を下げているに違いない。
かわいそうに。
けれど、必要です。
頑張りなさい、琴。
貴女だけではありません。
こちらもこちらで、だいぶ危うい男たちを抱えております。
「義銀も大変だな」
新介が、静かに言った。
目の前では、義銀が婚姻に関する文の確認をしている。
琴が信長様の猶子となり、斯波へ嫁ぐための手順は、思った以上に多い。
誰に知らせるか。
どの順で知らせるか。
どの家からの祝いをどのように受けるか。
返礼はどうするか。
琴が清洲に預けられている間に、こちらで整えるべきことは山のようにあった。
「琴殿に止められる日々が始まるな」
小平太が、にやりと笑う。
義銀は少しだけ眉を寄せた。
「二人とも、他人事だと思っていますね」
「違うのか」
小平太が首を傾げる。
新介も、涼しい顔で頷いた。
「少なくとも、婚姻に関しては義銀の話だろう」
私は、その言葉に目を瞬いた。
「何を他人事のように仰っているのですか」
二人がこちらを見る。
「え?」
「はい?」
私は、きょとんとして言った。
「あなた方も嫁を娶るのですよ?」
空気が止まった。
義銀まで止まった。
新介が、珍しく完全に固まっている。
小平太は、口を開けたまま私を見ている。
義銀が、ゆっくりと二人を見た。
「……知らなかったのですか」
「義銀」
新介が低い声を出した。
「お前は知っていたのか」
「いえ、今知りました」
「なら、その顔をするな」
義銀は少しだけ目を逸らした。
笑いを堪えていますね。
小平太が、一拍遅れて叫んだ。
「俺もですか!?」
「はい」
「なぜ!?」
「家臣になるのでしょう?」
「なりますが!」
「ならば、下手な縁を結ぶ前に結んでおけ、と信長様から言われました」
新介が額に手を当てた。
「信長様……」
「新介には、又助殿の妹君」
新介が止まった。
又助殿は、すでに横で控えていた。
静かに頭を下げる。
「妹には伝えてございます」
「俺だけ知らなかったのですか」
新介の声が、少しだけ低くなる。
又助殿は淡々と答えた。
「信長様と藤の方様より、正式に話が整ってからと伺っておりましたので」
「妹君は?」
「兄が決めるなら、まずは話を聞くと」
「……強い方ですね」
義銀がぽつりと言う。
又助殿は、少しだけ目を細めた。
「我が妹ですので」
その一言で、新介が少しだけ遠い目をした。
「小平太には、勝家様の妹君の娘に決まりました」
「勝家様の妹君の娘!?」
小平太が、今までで一番大きな声を出した。
そして、なぜか一瞬考え込む。
「……於光殿の娘ですか?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「於光様は勝家様の姉君です」
「あ、そうでした」
小平太が目を瞬く。
そこへ、廊下の向こうから柔らかな声がした。
「我が妹の娘です」
振り返ると、於光様がにこりと笑って立っていた。
勝家様の姉君。
穏やかに微笑んでいるのに、なぜか背筋が伸びる方である。
「なかなかにしっかりしておりますから、ご安心ください」
「……於光様がそう仰る時点で、安心できませぬ」
小平太が小さく呟いた。
於光様は、さらににこりと笑う。
「まあ。小平太殿のように元気な方には、少ししっかりした娘の方がよろしいでしょう?」
「少し、ですか」
「ええ。少し」
その笑みは柔らかい。
柔らかいのに、小平太の顔が引きつっている。
新介が静かに頷いた。
「釣り合いが取れそうだな」
「新介」
「事実だ」
義銀も、少しだけ口元を押さえている。
小平太は頭を抱えた。
「退路がない」
私は首を傾げた。
「家を作るのですから、退路を残す方がおかしいでしょう?」
「藤の方様、時々信長様に似ておられる」
新介が小さく呟いた。
「新介」
「いえ」
小平太は頷きかけて、私と目が合い、すぐに首を横に振った。
「何も申しておりません」
「よろしい」
義銀は、とうとう口元を押さえた。
「義銀」
新介が低い声を出す。
「笑うな」
「笑っていません」
「肩が震えている」
「咳です」
小平太が新介を睨む。
「新介も震えているぞ」
「俺も咳だ」
「二人して咳とは都合がよいな」
又助殿が真顔で言った。
「咳なら、稽古は一度休まれますか」
三人が同時に又助殿を見た。
又助殿は、まったく冗談を言っていない顔だった。
「稽古?」
小平太が嫌な予感を隠さずに言う。
又助殿は静かに頷いた。
「婚姻に向けての礼法稽古にございます」
「俺も?」
「もちろんです」
「新介も?」
「もちろんです」
「義銀も?」
「斯波様もです」
義銀は姿勢を正した。
「承知しました」
小平太が義銀を見る。
「なぜ受け入れが早い」
「必要なことですので」
「正論は時に人を傷つけるぞ、義銀」
「小平太の場合、傷つくより先に稽古を受けてください」
「もう味方がいない」
新介が静かに言った。
「諦めろ、小平太」
「お前もだぞ、新介」
「分かっている」
「分かっている顔ではない」
「小平太よりは何とかなると思っている顔だ」
「おい」
その時、小平太がぼそりと呟いた。
「礼儀作法なぞ……」
言葉が終わる前に、勝家様が動いた。
何も仰らなかった。
ただ、静かに座を整え、手を置き、背筋を伸ばし、深く頭を下げる。
無駄がなかった。
武骨な方である。
けれど、その礼は乱れていなかった。
強い者が、ただ力だけで立っているのではないと分かる礼だった。
小平太が黙った。
新介も黙った。
義銀だけが、静かに目を伏せている。
又助殿が、感心したように頭を下げた。
「流石、柴田殿」
勝家様は顔を上げる。
又助殿は続けた。
「文武両道。そうでなければ、この世は生き残れませぬ」
その言葉に、小平太の顔が引き締まった。
新介も、先ほどまでの軽さを消す。
義銀は、静かに頷いた。
勝家様は短く言った。
「槍だけでは家は守れぬ」
小平太は、一度だけ目を伏せた。
「……承知しました」
よろしい。
とてもよろしい。
礼儀作法なぞ、などと言い出した時はどうなることかと思いましたが、勝家様のお手本は効いたようです。
又助殿が、ぱん、と手を打つ。
「では、始めましょう」
三人は、今度こそ黙って座り直した。
……なお、この時の私はまだ知らなかった。
ここから、小平太が何度「服部殿」と呼ばれることになるのかを。