作品タイトル不明
第二十四話 家を建てるとは聞いていません
それは、増築ではなかった。
門があった。
立派な門だった。
私は、しばらく黙った。
義銀も黙った。
新介も黙った。
小平太だけが、庭の方を見ていた。
……槍の稽古を考えていますね。
「小平太」
「はい」
「まだ何も言っておりません」
「何も言っておりません」
「顔に書いてあります」
小平太は、すっと目を逸らした。
新介が静かに言う。
「義銀。初日に槍で庭を荒らされるぞ」
「新介」
「事実だ」
義銀は頭を抱えるように、額に手を当てた。
その気持ちは分かる。
私も額を押さえたい。
だって、これは増築ではない。
完全に屋敷である。
門があり、玄関があり、客を通す座敷があり、家臣が詰められる部屋があり、台所があり、蔵があり、馬を置く場所まである。
しかも、庭もある。
広い。
小平太が槍を振れそうなくらい、広い。
私は、ゆっくりと勝家様を見た。
「勝家様」
「うむ」
「これは、増築ではございません」
「隣に広げた」
「屋敷が一つ増えております」
「必要だ」
「その一言で済ませないでくださいませ」
勝家様は、真面目な顔をしていた。
真面目な顔をしている時ほど、だいたい大きなことをしている。
私はもう学んでいる。
義銀は、ようやく声を出した。
「叔父上」
「何だ」
「これは、どなたの屋敷でございますか」
「お前のだ」
「……私の?」
「斯波の屋敷だ」
義銀は言葉を失った。
本当に、開いた口が塞がらないという顔だった。
その顔を見て、勝家様は少しだけ満足そうに頷いた。
満足しないでくださいませ。
「義銀の家だ」
勝家様は、短く言った。
「帰る場所が要る」
その一言で、広がりかけていた呆れが、少しだけ引っ込んだ。
義銀も、息を呑む。
勝家様は、屋敷を見上げた。
「斯波を立てるなら、名だけでは足りぬ。家臣も、屋敷も、蔵も、馬も要る。義銀が一人で立つ必要はないが、立つ場所は要る」
その声は、いつもの勝家様だった。
短く、真っ直ぐで、不器用。
けれど、その分だけ重い。
義銀は、ゆっくりと頭を下げた。
「叔父上」
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼はよい。使え」
「……はい」
義銀の声は、少し震えていた。
私はその横顔を見て、胸が熱くなるのを感じた。
勝家様は、やはりこの子を守る人なのだ。
ただ守るだけではない。
立つ場所を作る人なのだ。
それにしても、やりすぎですが。
「勝家様」
「うむ」
「後で帳面を見せてくださいませ」
勝家様が、わずかに動きを止めた。
「帳面」
「はい」
「……見るのか」
「見ます」
「……うむ」
今、少しだけ声が沈みましたね。
いくら使ったのですか。
いいえ、今は聞きません。
今は。
その時だった。
門の外から、慌ただしい足音が聞こえた。
「兄上!」
聞き覚えのあるような、ないような声。
ただ、小平太がぎくりとした。
小平太がぎくりとした。
大事なので、二度思った。
やがて、二人の男が門をくぐってきた。
一人は年長の男だった。
歩き方に少し癖がある。
右膝を庇っているように見えた。
けれど、背筋は伸びている。
武を知る人の立ち方だ。
もう一人は若い。
小平太より、いくらか年下だろうか。
顔立ちはどこか似ている。
ただし、小平太よりずっと胃が痛そうな顔をしていた。
「小平太兄上!」
若い方が叫んだ。
小平太が目を逸らした。
「小藤太」
「目を逸らさないでください!」
この子が、服部小藤太。
小平太の弟。
……なるほど。
苦労しそうな顔をしている。
「兄上と共に新たな家の家臣になれと、信長様から言われたのですが!?」
小藤太は、息を切らしながらそう言った。
小平太は少しだけ考えた顔をする。
「そうか」
「そうか、ではありません!」
新介が静かに言った。
「小平太の弟とは思えぬほど、反応がまともだな」
「新介」
「事実だ」
小藤太は、その言葉に一瞬だけ固まった。
それから、恐る恐る新介を見る。
「……毛利新介殿でございますか」
「そうだ」
「兄がいつもお世話になっております」
「こちらこそ」
「おい、小藤太。俺の扱いはどうなっている」
「兄上の弟として、先に謝るのは当然です」
「当然ではない!」
義銀が、思わず笑いを堪えた。
私は小藤太を見て、少しだけ同情した。
この子は苦労する。
間違いなく苦労する。
その隣で、年長の男が深く頭を下げた。
「服部平右衛門にございます」
義銀が姿勢を正す。
「斯波義銀です」
「お噂はかねがね」
平右衛門殿は、丁寧に頭を下げた。
けれど、その表情には、どこか決めてきたような硬さがあった。
信長様から声がかかり、小平太と小藤太に関わる形でここへ来たのだろう。
しかし、本人は一歩引いている。
いいえ。
引いているというより、最初から自分の居場所を作るつもりがない顔だった。
「平右衛門殿」
「はっ」
「膝を痛めておられるのですね」
平右衛門殿の顔が、わずかに強張った。
「……はい」
小平太も少しだけ表情を改めた。
小藤太が、唇を引き結ぶ。
平右衛門殿は、静かに頭を下げた。
「信長様より、斯波様の新たな御家に仕えよとの命を賜りました」
「はい」
「されど、某はこの膝に瑕がございます」
平右衛門殿は、自分の膝へ視線を落とした。
「槍働きは叶いませぬ。馬に乗ることも、昔のようにはまいりませぬ。新たに興る御家に入れば、役に立つどころか、荷となりましょう」
それは、淡々とした声だった。
けれど、淡々としているからこそ痛かった。
「小藤太は若く、動けます。兄の小平太と共にお使いいただければ、必ず役に立ちましょう」
小藤太が顔を上げた。
「平右衛門殿」
平右衛門殿は、小藤太を見ない。
見れば、言葉が鈍ると思っているのかもしれない。
「ですが、某は違います」
平右衛門殿は、もう一度義銀へ頭を下げた。
「どうか、某のことは無かったことにしていただけませぬか」
小平太が息を呑んだ。
新介が目を細める。
義銀は、平右衛門殿をじっと見ていた。
「無かったことに、ですか」
「はい」
「それは、信長様の命を断るという意味になりますが」
「その咎は、某が負います」
平右衛門殿の声は揺れなかった。
「膝に瑕ある者を、新たな御家に押しつけるわけにはまいりません」
私は、その言葉を聞いて、胸の奥が少し痛んだ。
この人は、自分を守ろうとしているのではない。
新しい斯波家の荷物になるまいとしている。
そして、小藤太だけは仕官させようとしている。
自分と小藤太の間に、線を引こうとしているのだ。
義銀は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「平右衛門殿は、たしか騎馬がお得意でしたな」
平右衛門殿が目を見開いた。
「……ご存じで」
義銀は頷く。
「信長様の馬廻にいた身です。馬の扱いに長けた方の名は、自然と耳に入ります」
義銀は続けた。
「まだ影も形もありませぬが、いずれ我が家にも騎馬を置くことになりましょう」
平右衛門殿は、何かを言おうとして、言葉を止めた。
義銀は、まっすぐ平右衛門殿を見る。
「その折、馬を走らせる者ではなく、馬を育て、乗り手を育てる者が要ります」
「……斯波様」
「平右衛門殿には、我が家の騎馬の指南役を務めていただければと思います」
平右衛門殿は、すぐには答えなかった。
「某は、昔のようには乗れませぬ」
「だからこそです」
義銀の声は静かだった。
「馬で駆ける者だけが、馬を知る者ではありません。駆けられなくなったからこそ、教えられることもあると、私は思います」
平右衛門殿の喉が、わずかに動いた。
小平太は、珍しく黙っている。
小藤太も、ただ平右衛門殿の横顔を見ていた。
それでも平右衛門殿は、まだ頭を下げたままだった。
「ありがたきお言葉にございます。されど、某には妻もおります」
その言葉は、先ほどよりも少し硬かった。
「某がこちらへ移れば、妻を一人残すことになります。膝を悪くした身で、すでに苦労をかけておりますゆえ」
それは、断るための言葉だと分かった。
妻を案じているのは本当だろう。
けれど、それだけではない。
これ以上、自分を抱え込ませないための理由。
自分を切り離すための線。
義銀も、それに気づいたのだと思う。
ほんの少しだけ考えた後、義銀は顔を上げた。
「なれば、細君にも来ていただきたい」
平右衛門殿が固まった。
小藤太も固まった。
小平太も目を瞬いた。
新介だけが、少しだけ義銀を見た。
義銀は続ける。
「いずれ我が妻となる琴は、まだ奥を学ぶ身です」
新介がぴたりと止まった。
私は思わず義銀を見る。
言いましたね。
今、さらっと言いましたね。
義銀は気づいているのかいないのか、そのまま続けた。
「斯波の奥を整えるには、経験ある方の手が要ります。平右衛門殿の細君に、琴の奥向きの管理を手伝っていただければ、こちらとしてもありがたい」
平右衛門殿は、言葉を失っていた。
義銀は、さらに静かに言った。
「平右衛門殿」
「……はい」
「私は、新たな家を立てると決めたばかりです。武も、文も、奥も、何もかも足りませぬ」
義銀の声は、飾らないものだった。
「ですから、できる方に来ていただきたい。平右衛門殿には騎馬を。細君には奥向きを。小藤太殿には実務を」
小藤太の顔が引きつった。
「私でございますか」
「はい」
「私は、兄上と共に来いと言われただけで」
「帳面は読めますか」
義銀が尋ねるより早く、私が思わず口を挟んでいた。
小藤太がこちらを見る。
「……多少は」
「では、八右衛門殿に会わせましょう」
小藤太の顔が、すっと青ざめた。
小平太が笑った。
「よかったな、小藤太。役目がありそうだ」
「それが怖いのです!」
小藤太が叫ぶ。
私は少しだけ微笑んだ。
この子は、本当に苦労する。
でも、悪くない。
兄に振り回されながらも、ちゃんと状況を見ている。
胃が痛そうな顔をしているけれど、逃げてはいない。
八右衛門殿に鍛えられれば、きっと良い実務役になる。
小藤太は、屋敷を見る。
義銀を見る。
新介を見る。
小平太を見る。
太田又助殿を見る。
そして最後に、私を見る。
その顔には、はっきりと書いてあった。
これは、普通の家ではない。
ええ。
普通の家ではありません。
諦めてください。
平右衛門殿は、ゆっくりと膝をついた。
「斯波様」
「はい」
「この膝でよろしければ、騎馬の指南役、務めさせていただきます」
義銀の顔が、ふっと明るくなった。
「ありがとうございます」
「妻のことも、話してみます」
「無理にとは申しません」
「いえ」
平右衛門殿は、少しだけ笑った。
「役目があると聞けば、あれも来るでしょう」
小平太が小さく呟く。
「服部の女は強いからな」
新介が即座に言う。
「小平太よりは堅実そうだ」
「新介、お前は本当に俺を何だと」
「槍」
「またか!」
義銀が笑った。
小藤太は額を押さえた。
又助殿は、静かに筆を取り出していた。
「又助殿」
義銀が気づいて声をかける。
「何を書いているのですか」
「本日の決定事項を」
又助殿は当然のように答えた。
「服部平右衛門殿、騎馬指南役として候補。細君、奥向き補佐として相談。服部小藤太殿、八右衛門殿へ引き合わせ予定」
小藤太がさらに青ざめた。
「もう書かれている」
「書かねば忘れます」
「忘れてくださっても」
「忘れては家が立ちませぬ」
又助殿は真顔だった。
私は少しだけ笑ってしまった。
良い。
とても良い。
この家には、必要な人が集まり始めている。
義銀は、もう名に背負われているだけの子ではなかった。
人を見て、役目を見て、家ごと受け入れる。
この人には何ができるのか。
その家族はどうすれば共に立てるのか。
そこまで見て、決めようとしている。
斯波の家は、まだ始まったばかりだ。
屋敷はある。
だが、空っぽだ。
けれど、そこに人が入っていく。
文を書く者。
槍を振るう者。
馬を教える者。
奥を支える者。
帳面に追われる者。
義銀を止める者。
そして、それらを受け入れようとする義銀。
私は、眠る藤七丸を抱きながら、その光景を見ていた。
藤七丸は、やはり眠っている。
この子が大きくなった時、隣には斯波の家がある。
義銀が立てた、新しい家がある。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「勝家様」
「うむ」
「用意が良すぎます」
「必要だ」
「そればかりですね」
「必要だからな」
勝家様は真面目な顔で言った。
私は、ため息を吐きながらも笑ってしまった。
必要。
たしかに、必要なのだ。
家を立てるとは、こういうことなのだろう。
屋敷を作る。
人を迎える。
役目を与える。
家族ごと守る。
そして、少しずつ、ただの名を生きた家にしていく。
義銀は、屋敷の門を見上げた。
その横に、新介と小平太が立つ。
少し離れて、又助殿が筆を持つ。
平右衛門殿が膝を庇いながらも背筋を伸ばし、小藤太が胃の痛そうな顔で立っている。
勝家様は満足そうだ。
私は呆れつつも、少しだけ嬉しかった。
ここから、また忙しくなる。
間違いなく、忙しくなる。
けれど、私は思った。
この忙しさなら、悪くない。