作品タイトル不明
第二十三話 斯波の屋敷が出来たそうだな
藤七丸は、よく眠る子だった。
生まれたばかりの頃は、泣いて、飲んで、寝て、泣いて、また寝る。
その繰り返しだったけれど、少しずつ顔つきがしっかりしてきた。
……気がする。
正直、赤子の顔というものは日ごとに変わる。
昨日は勝家様に似ていると思ったのに、今日は私に似ているような気もする。
けれど、周囲はだいたい口を揃える。
「勝家様に似ておられますな」
「目元が強そうで」
「眉が、なんとも」
眉。
眉ですか。
私は眠っている藤七丸の顔を覗き込みながら、少しだけ複雑な気持ちになった。
たしかに、眉のあたりは勝家様に似ている気がする。
強そうだ。
とても強そうだ。
赤子なのに。
「藤七丸」
小さく呼ぶと、藤七丸はすやすや眠ったまま、少しだけ口を動かした。
かわいい。
とてもかわいい。
強そうだけれど、かわいい。
そんな藤七丸を連れて、私と勝家様は清洲城へ向かうことになった。
先日、信行様が仰った通りである。
藤七丸は後日、権六とお藤の方が城に連れてくるように差配します故、帰りますよ。
あの言葉により、信長様は柴田邸から回収されていった。
本当に回収されていった。
あの信長様を、信行様が半ば荷のように連れ帰る光景は、しばらく忘れられそうにない。
そして今日。
約束通り、藤七丸のお披露目である。
「お藤」
「はい」
「無理はするな」
勝家様は、城へ向かう道中で何度目か分からない言葉を口にした。
「承知しております」
「少しでも具合が悪ければ言え」
「はい」
「藤七丸も」
「藤七丸は眠っております」
「うむ」
勝家様は、私の腕の中で眠る藤七丸を見て、少しだけ目元を緩めた。
勝家様。
顔が緩んでおります。
戦場で鬼と呼ばれる方が、赤子を見てその顔をなさるのは、少しずるいと思います。
清洲城に着くと、すぐに信長様と信行様の前へ通された。
信長様は、藤七丸を見るなり、にやりと笑った。
「権六に似ておるな」
信行様も、少し覗き込む。
「眉のあたりが、特に」
やはり眉なのですね。
勝家様は、心なしか誇らしそうだった。
「恐れ入ります」
「強くなりそうだ」
信長様が言う。
信行様も頷く。
「権六の子ですからな」
「まだ赤子でございます」
私がそう言うと、信長様は面白そうに笑った。
「赤子でも分かる。これは強くなる」
「兄上」
信行様がたしなめるように言った。
「赤子にまで戦働きを期待なさらないでください」
「期待ではない。見立てだ」
「余計に悪いです」
信行様は深く息を吐いた。
私は、藤七丸を抱き直しながら微笑む。
藤七丸は、そんな大人たちの会話など知らぬ顔で、すやすや眠っていた。
本当に、よく眠る子だ。
信長様がじっと藤七丸を見る。
「大物だな」
「寝ているだけです」
「儂の前で寝るとは、大物だろう」
「兄上の前で泣いたら泣いたで、大物と仰るでしょう」
信行様が即座に言った。
信長様は笑った。
「分かっておるではないか、勘十郎」
「分かりたくありません」
そのやり取りに、勝家様が少しだけ口元を緩めた。
私も、少しだけ笑ってしまった。
和やかな時間だった。
少なくとも、その瞬間までは。
信長様が、藤七丸から目を離し、ふと思い出したように言った。
「そういえば、斯波の屋敷が出来たそうだな」
義銀が固まった。
私も固まった。
斯波の屋敷。
今、そう仰いましたか。
「……斯波の、屋敷でございますか」
義銀が、恐る恐る問い返す。
信長様は何でもない顔で頷いた。
「お前の屋敷だ、義銀」
「私の?」
「家を立てろと言っただろう」
信行様が、わずかに眉を寄せる。
「兄上、言い方が急です」
「出来たものを出来たと言っただけだ」
「そこに至るまでの説明が足りません」
信行様は義銀へ向き直った。
「屋敷については、権六と相談の上、柴田邸の隣に整えられています」
私は、ゆっくりと勝家様を見た。
勝家様は、わずかに目を逸らした。
「勝家様」
「……うむ」
「柴田邸の隣の工事」
「うむ」
「あれは増築ではなかったのですか」
「増築だ」
「屋敷なのでは?」
「隣に広げた」
「それを世間では新しい屋敷と申します」
勝家様は黙った。
黙りましたね。
つまり、分かっていて黙っていたのですね。
信長様が楽しそうに笑う。
「お藤、気づいておらなんだか」
「信長様」
「権六が妙に浮かれておっただろう」
「勝家様は藤七丸が生まれてから、ずっと浮かれております」
「それもそうか」
信長様は声を立てて笑った。
勝家様は真面目な顔をしている。
けれど、たぶん少し気まずい。
信行様は額に手を当てた。
「権六。お藤の方には説明しておきなさい」
「……承知」
「今さらです」
私がそう言うと、勝家様はさらに黙った。
義銀はまだ固まっている。
新介と小平太も、どう反応すべきか迷っている顔だった。
太田又助殿は、控えめに目を伏せながらも、明らかにこの一連のやり取りを記憶している。
きっと後で何かに書かれる。
信長様は義銀を見た。
「義銀」
「はっ」
「暇をやる。見に行ってまいれ」
「今から、でございますか」
「己の家だ。見てこい」
義銀は一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、深く頭を下げる。
「……承知しました」
信行様も静かに頷いた。
「斯波家再興の初めです。目で見ておくべきでしょう」
「はい」
義銀の声は、まだ少し硬かった。
無理もない。
家を立てろと言われたばかりである。
家臣が決まり、文官が入り、琴のことまで決まり、ようやく息をついたところで、今度は屋敷が出来ていると知らされたのだ。
私なら、しばらく寝込みたい。
義銀はよく立っていると思う。
「新介、小平太」
信長様が二人を見る。
「はっ」
「はい」
「お前たちも見てこい」
新介は目を伏せ、小平太は少しだけ楽しそうな顔をした。
「承知」
「見てまいります」
「又助」
「はっ」
「お前もだ」
太田又助殿は、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
その顔は、どこか真剣だった。
屋敷を見る。
ただ建物を見るのではないのだろう。
どこに文を置くか。
誰をどこに通すか。
何を記録するか。
どう家を動かすか。
又助殿は、きっともう考えている。
本当に、必要な人が来てくれたものだ。
私は藤七丸を抱いたまま、勝家様を見上げた。
「勝家様」
「うむ」
「帰りましたら、説明していただきます」
「承知」
「屋敷の規模についても」
「承知」
「勝手に何をどこまで整えたのかも」
「……承知」
少しだけ返事が遅れましたね。
信長様が笑っている。
信行様も、少しだけ口元を緩めている。
義銀はまだ、どこか呆然としている。
新介は義銀の横で、静かに言った。
「義銀」
「何です」
「屋敷が出来ているなら、逃げ場がなくなったな」
「新介」
「事実だ」
小平太がにやりと笑う。
「広い庭があるとよいな」
「小平太」
「何だ」
「今、槍の稽古のことを考えましたね」
「少しだけだ」
「少しでも考えないでください」
信行様が、思わず目を伏せた。
信長様は楽しそうにしている。
勝家様は、真面目な顔で頷いた。
「庭はある」
「勝家様」
私が呼ぶと、勝家様は黙った。
やはりありますね、庭。
しかも、小平太が槍を振れそうな庭が。
私は、藤七丸をそっと抱き直した。
藤七丸は、やはり眠っていた。
この子は今日、信長様と信行様に見られ、斯波の屋敷が発覚し、父が母に問い詰められる場面に居合わせている。
さらに、義銀が新しい屋敷を見に行くことになり、小平太が庭で槍を振る可能性まで生まれている。
なのに、すやすや眠っている。
……大物かもしれない。
「お藤」
信行様が穏やかに声をかけてくださった。
「無理はなさらず。藤七丸もまだ小さい。屋敷の確認は義銀たちに任せてもよいでしょう」
「はい。ありがとうございます」
「後日、落ち着いたら改めて話を聞かせてください」
「承知いたしました」
信行様は、そこでちらりと信長様を見た。
「兄上は戻ります」
「まだ何も言っておらぬ」
「言う前に戻ります」
「勘十郎」
「仕事が残っております」
信長様は少しだけ不満そうだったが、今度は素直に立ち上がった。
たぶん、藤七丸を見たことで満足したのだろう。
それとも、義銀が屋敷を見ることになったので、それで十分面白いと思ったのかもしれない。
どちらにせよ、信行様が連れ帰ってくださるならありがたい。
信長様は立ち上がり際、義銀を見た。
「義銀」
「はっ」
「家は、人が入って初めて家になる」
義銀の表情が引き締まる。
「はい」
「見てこい。そこで何を置き、誰を入れ、誰を守るか。己の目で見て決めろ」
義銀は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
信長様は満足そうに笑った。
信行様は、その横で少しだけため息を吐いている。
けれど、その目は優しかった。
たぶん、信行様も分かっている。
義銀の新しい家が、これからどれほど大事な場所になるのか。
柴田の隣に立つ斯波の家。
そこには、名だけではないものが集まっていく。
人が集まり、文が集まり、思惑も集まる。
だからこそ、義銀は見に行かねばならない。
私は藤七丸を抱いたまま、義銀を見た。
「義銀」
「はい、叔母上」
「帰ったら、屋敷を見ていらっしゃい」
「……はい」
「ただし」
義銀が少し身構える。
「小平太が庭で槍を振ろうとしたら止めなさい」
「承知いたしました」
「義銀」
小平太が不満そうな声を出す。
義銀は涼しい顔で言った。
「叔母上の命です」
新介が小さく笑う。
「よかったな、小平太。最初の命令が槍禁止だ」
「よくない」
「家の初めにふさわしい」
「どこがだ」
そのやり取りに、私は少しだけ笑ってしまった。
重い話ばかりでは、心がもたない。
この三人の軽口は、やはり少し救いになる。
そうして私たちは、清洲城を後にすることになった。
信長様と信行様に見送られ、勝家様は藤七丸を案じながら私の横に立つ。
義銀、新介、小平太、又助殿は、これから見る屋敷のことをそれぞれの顔で考えている。
私も考えていた。
隣の工事。
増築だと思っていた場所。
そこに、斯波の屋敷が出来ている。
勝家様は、黙って整えていた。
信長様は、見てこいと言った。
信行様は、目で見ておくべきだと言った。
義銀は、何を思うのだろう。
そして私は、勝家様に何から問い詰めればよいのだろう。
藤七丸は、やはり眠っていた。
私はその寝顔を見て、小さく息を吐く。
この子の生まれた祝いの日に、義銀の新しい家の扉も開こうとしている。
なんとも忙しない。
本当に、忙しない。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
私たちは、義銀の新しい屋敷を見るため、清洲城を後にした。