軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十八話 荷の下りる夜

宴は、まだ続いていた。

遠くから、笑い声が聞こえる。

盃を交わす声。

誰かが小平太をからかう声。

新介が静かに言い返す声。

義銀が困ったように笑う声。

琴が少し慌てて、それでも落ち着いて返す声。

義冬が誰かに声をかけられ、少し硬い声で答える声も聞こえた。

その賑わいを、私は少し離れた場所で聞いていた。

夜の空気は、昼間よりずっと冷えている。

けれど、宴の熱が遠くにあるせいか、不思議と寒くはなかった。

私は、庭先から広間の方を眺めた。

灯りが揺れている。

新しい斯波家の始まりを祝う灯り。

三組の婚姻を祝う灯り。

琴が織田の姫として義銀に嫁いだことを示す灯り。

義銀が、もう一度自分の家を持ったことを示す灯り。

そして、義冬がその家の弟君として立ち始めたことを示す灯り。

「……義銀が、立ちました」

ぽつりと口からこぼれた。

誰に言うでもない言葉だった。

けれど、すぐ隣から低い声が返る。

「うむ」

振り向くと、勝家様がいた。

いつからそこにいたのか。

気づかなかった。

勝家様は、私の隣に立ち、同じように宴の灯りを見ていた。

「勝家様」

「うむ」

「いつから」

「少し前だ」

「声をかけてくださればよかったのに」

「泣いておった」

私は、目を瞬いた。

言われて初めて、自分の頬が濡れていることに気づいた。

涙。

泣いていたのですか、私は。

声も出さずに。

ただ、いつの間にか。

「……お恥ずかしい」

「恥じることではない」

勝家様は、短くそう言った。

その言葉だけで、胸が詰まった。

私は、もう一度宴の方を見る。

義銀の姿は、ここからはよく見えない。

けれど、声は聞こえる。

義銀は、あの魚籠を抱えて駆け込んできた少年ではなくなった。

父を救えず、叔母と弟だけでも助けてくれと、泣きそうな顔で頭を下げた子ではない。

あの時の義銀は、まだ子供だった。

斯波という名に振り回され、家を失い、守るべきものを抱えきれなかった子供だった。

そして、その隣には義冬がいた。

兄の後ろで、何が起きたのか分からないまま、それでも泣かないようにしていた小さな子。

義銀の袖を握って、こちらを見上げていた子。

私は、あの子たちを守らなければと思った。

義銀も。

義冬も。

この子たちだけは、もうこれ以上奪われないようにしなければと。

甥っ子だ。

けれど、ただの甥っ子ではなかった。

守るべき子供たちだった。

私に子がいなかった頃、余計にそう思ったのかもしれない。

自分には子がいない。

勝家様の子を産めないかもしれない。

柴田家に嫡男を残せないかもしれない。

そんな不安が、いつも心の底にあった。

誰にも言わなかった。

言えば、勝家様はきっと「気にするな」と言ってくださる。

けれど、そういう問題ではなかった。

女として。

妻として。

柴田家に入った者として。

子のない重さは、どうしても消えなかった。

だからこそ、義銀と義冬を守ることに、どこか自分の役目を重ねていたのかもしれない。

けれど。

藤七丸が生まれた。

小さくて、よく眠る、勝家様に眉が似た子。

そして今日。

義銀が妻を迎えた。

家を持ち、家臣を持ち、織田家との縁を得て、自分の足で立った。

義冬もまた、その兄の後ろで、斯波の弟君として背筋を伸ばしていた。

もう、兄の袖を握っていた幼い千若ではなかった。

あの子たちは、もうただ守られるだけの子供ではない。

自分たちの家へ戻っていく。

自分たちの名を、もう一度背負っていく。

私が抱えていた二つの荷が、同時に下りたのだ。

子のいない女としての重さ。

守るべき子供だった義銀と義冬を、いつまでも守らなければならないという重さ。

その二つが、静かに。

本当に静かに。

今夜、私の肩から下りた。

「勝家様」

「うむ」

「もう、あの子たちは大丈夫ですね」

「大丈夫だ」

迷いのない声だった。

私は、少しだけ笑った。

「義銀は、立ちました」

「うむ」

「義冬も、兄の後ろでちゃんと立とうとしていました」

「うむ」

「少し、寂しいです」

「うむ」

「でも、嬉しいです」

「うむ」

「……泣くほど、嬉しいのです」

勝家様は何も言わなかった。

ただ、そっと私の肩を抱き寄せた。

その腕は、いつも通り大きく、温かかった。

私は、勝家様の胸元に額を寄せる。

宴の声が、少し遠くなる。

笑い声。

祝いの声。

誰かが「めでたい」と言う声。

その全部が、遠くで揺れている。

「お藤」

「はい」

「よく、守った」

その一言で、また涙がこぼれた。

困る。

今日は泣くつもりなどなかったのに。

宴の最中で、泣くつもりなど。

けれど、もう止まらなかった。

「私は」

声が震えた。

「ちゃんと、守れましたか」

「守った」

「義銀を」

「うむ」

「義冬を」

「うむ」

「柴田の家も」

「うむ」

「藤七丸も」

「これから守る」

私は、泣きながら笑った。

勝家様らしい。

これから守る。

そうですね。

荷が下りたから終わりではない。

これからまた、守るものは増えていく。

藤七丸。

柴田家。

新しい斯波家。

義銀と琴。

義冬。

新介と小平太。

その妻たち。

きっとまた、忙しない日々が続く。

けれど、それでも今夜だけは。

少しだけ、肩の荷を下ろしてもよいのだと思った。

「勝家様」

「うむ」

「疲れました」

「休め」

「はい」

勝家様は、私の肩を抱いたまま歩き出す。

宴の声は、背中の向こうで続いている。

義銀の新しい家を祝う声。

琴を迎えた声。

義冬を励ます声。

新介と小平太をからかう声。

斯波家が立つことを喜ぶ声。

その賑わいを背に、私は一度だけ振り返った。

灯りが揺れていた。

まるで、遠い昔の不安まで照らして、溶かしてくれるように。

「お藤」

「はい」

「今日は、休め」

「……はい」

私は、もう一度だけ頷いた。

勝家様と共に、静かな部屋へ入る。

部屋の中は、宴の場とは違って静かだった。

けれど、遠くの笑い声はまだ聞こえる。

温かい声だった。

勝家様が、そっと戸を閉める。

私はその音を聞きながら、胸の奥で思った。

子が生まれた。

守ってきた子たちが、自分たちの家へ戻っていく。

ふたつの荷が、同時に下りた。

だからこれは、悲しみではない。

寂しさだけでも、きっとない。

安堵なのだ。

けれど安堵というものは、時に涙の形をして落ちるらしい。

遠くの宴の声を聞きながら、私は勝家様の隣で、ようやく深く息を吐いた。