作品タイトル不明
第二十一話 名だけでは家は立たぬ
柴田の隣で立て。
信長様のその言葉を聞いた瞬間、義銀は、斯波という名が再び自分の肩に置かれたのだと悟った。
重い。
そう思った。
斯波の名は、軽くない。
かつて尾張に重く在った名。
人を従わせ、人を集め、人を迷わせる名。
けれど、その名は義銀から多くのものを奪った名でもある。
父を失った。
屋敷を失った。
守るべきものを守れず、魚籠を抱え、叔母と弟だけでも助けてくれと頭を下げた。
あの時の自分は、ただの子供だった。
斯波の若君。
そう呼ばれるだけの、何もできぬ子供だった。
けれど今は違う。
桶狭間で、義銀は叫んだ。
もう若君ではございませぬ。
織田家馬廻衆、斯波義銀にございます。
あの日、自分は斯波の名から逃げたのではない。
ただ、名だけで立つことを拒んだ。
自分の足で立つと決めた。
なのに、今。
信長様は、その斯波の名をもう一度背負えと言う。
ただし、昔の斯波ではない、と。
柴田の隣で立て、と。
義銀は静かに息を吸った。
叔母上は、黙ってこちらを見ている。
その目には不安があった。
けれど、それだけではない。
信じようとしている目でもあった。
勝家の叔父上は、信長様の隣で静かに頷いている。
あの方は、おそらくすでに知っていたのだろう。
だからこそ、驚いていない。
義冬は、義銀の横顔を見ていた。
弟の目には、心配と、期待と、少しの寂しさが混じっている。
新介と小平太は、黙っている。
いつもなら、何かしら軽口を挟む二人が。
信長様の前だから、というだけではない。
今、この場で軽く口を開くべきではないと分かっているのだ。
義銀は、もう一度息を吐いた。
名だけでは、家は立たない。
それを、義銀は誰よりも知っている。
「信長様」
「何だ」
信長様の目が、義銀を見る。
その目は、逃がさない目だった。
だが、押し潰す目ではなかった。
見極める目だ。
この名を背負わせるに足るか。
背負った上で、名に飲まれぬか。
義銀は頭を下げたまま、言った。
「家を興すには、人が要ります」
広間の空気が、少しだけ動いた。
信長様は黙っている。
義銀は続けた。
「名だけでは家は立ちませぬ。私一人で斯波の名を掲げれば、名に寄ってくる者を捌ききれませぬ」
それは、弱音ではない。
現実だった。
義銀が斯波の名を掲げれば、人は寄ってくる。
昔を懐かしむ者。
新しい利を求める者。
織田の中で使える札だと見る者。
柴田の後ろ盾を利用しようとする者。
義冬を担ぎたい者。
義銀を飾りにしたい者。
名は、人を集める。
けれど、集まった人の全てが、家を支えるとは限らない。
「私には、家臣が足りませぬ」
言った瞬間、胸の内が少しだけ冷えた。
情けないと思われるかもしれない。
名家の嫡男が、家臣が足りぬと言う。
だが、言わねばならなかった。
斯波の名は、一人で背負えるものではない。
一人で背負えば、また同じことになる。
名だけが先に立ち、人が置いていかれる。
義銀は、それだけは避けたかった。
信長様は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、長く感じた。
やがて、信長様の口元がわずかに上がる。
「分かっているならよい」
その言葉に、義銀は顔を上げた。
信長様は笑っていた。
「名があれば人が従うと思っている者なら要らぬ。名に群がる者を捌けぬと分かっている者なら、まだ使える」
使える。
信長様らしい言い方だった。
けれど、その言葉に義銀は少しだけ安堵した。
信長様は、義銀に名だけを背負わせるつもりではない。
名の危うさを知った上で、使えと言っている。
だからこそ、なおさら逃げられない。
その時だった。
「信長様」
新介が前へ出た。
その隣に、小平太も並ぶ。
二人は揃って膝をつき、深く頭を下げた。
義銀は息を呑んだ。
何をするつもりだ。
そう思うより先に、新介が口を開いた。
「義銀が新たな家を興すのであれば、我らは信長様のもとを離れ、義銀を支えとうございます」
一瞬、意味が分からなかった。
信長様のもとを離れる。
義銀を支える。
その言葉が、ゆっくりと胸に落ちる。
小平太が続けた。
「義銀は、名だけで立とうとはしませぬ。ならば、その名を汚さぬよう支える者が要ります」
いつも勢いで突っ込む小平太の声が、この時は驚くほど静かだった。
「その役目、我らにお任せくださいませ」
義銀は、二人を見た。
新介。
小平太。
桶狭間で、共に道を下った二人。
義銀の見立てを信じ、命を預けてくれた二人。
崖の中腹で馬が滑り、土が崩れ、息が詰まりそうになった時、背後から声が聞こえた。
義銀の見立てを信じるぞ。
そんな馬鹿な言葉を、あの場で言ってくれた。
義銀が地形を見て言ったんだ。
外したことがあったか。
ない。
なら、道はある。
あの時、この二人は義銀を守護家の若君としてではなく、同じ馬廻衆の仲間として信じてくれた。
頭と槍と刃。
そう言って笑った。
その二人が、今。
信長様のもとを離れて、義銀につくと言っている。
「儂のもとを離れる意味が分かっているのか」
信長様の声が低くなる。
新介は顔を上げずに答えた。
「分かっております」
「義銀につけば、斯波の名に群がる者の矢面に立つぞ」
「承知しております」
今度は小平太が答える。
「織田の家臣でいるより、面倒だぞ」
「それでも」
新介が顔を上げた。
その目は、まっすぐだった。
「義銀を一人で立たせるよりは、ましにございます」
義銀の胸が詰まる。
何かを言わねばならない。
そう思うのに、言葉が出ない。
小平太も頷いた。
「義銀は、名だけを頼みにする男ではございません。だからこそ、支えたいのです」
信長様の口元が上がった。
「言うようになったな、毛利」
「桶狭間で、少しは働ける男になりましたので」
新介がそう答えると、信長様は声を立てて笑った。
「小平太。お前もか」
「はい」
「お前は義銀に仕えると、胃が痛むぞ」
「信長様のもとでも、十分に痛むかと」
新介の肩が、わずかに震えた。
義銀も思わず息を吐いた。
この状況で、それを言うのか。
けれど、そういうところが小平太だった。
信長様は、さらに楽しそうに笑う。
「よい」
その一言で、新介と小平太の背筋が伸びた。
「ならば、お前たちは義銀につけ」
「はっ!」
二人の声が揃う。
義銀は、何かを言おうとして、言葉に詰まった。
新介が義銀を見る。
いつもの軽い笑顔ではなかった。
……なかった、はずだった。
「ということで、義銀」
「……新介」
「これよりは、織田の毛利ではなく、斯波の毛利でございます」
義銀は目を見開いた。
小平太が、その隣でしれっと続ける。
「某も、斯波の服部になりますな」
「……二人とも」
「いやあ、これで義銀が一人で悩んで、勝手に胃を痛めるのを横で見ていられます」
「新介」
「はい」
「それは支えると言うのですか」
「もちろんでございます。倒れる前に笑って止めますので」
小平太が頷いた。
「倒れてからでは遅いですからな」
「小平太まで」
義銀は、困ったように眉を寄せた。
けれど、その顔は先ほどよりもずっと柔らかくなっているのが、自分でも分かった。
新介が、そこで少しだけ真面目な顔に戻る。
「義銀」
「何です」
「一人で立とうとはなさるな」
義銀は息を呑んだ。
新介は笑った。
「それをされると、我らが仕える意味がなくなります」
小平太も頭を下げる。
「どうせ面倒な家になるのでしょう。ならば、最初から巻き込んでくださいませ」
義銀は、しばらく二人を見ていた。
喉の奥が熱い。
泣くわけにはいかない。
信長様の前だ。
叔母上の前だ。
勝家の叔父上の前だ。
だが、胸の奥に溜まったものは、簡単には消えてくれなかった。
義銀は深く息を吐いた。
「……頼みます」
短い言葉だった。
それ以上言えば、声が震える気がした。
新介は、わずかに口元を上げた。
「はい。遠慮なく」
小平太も続けた。
「まずは、勝手に無理をなさらぬところからですな」
「それは私にだけ言うことではないでしょう」
義銀がそう返すと、新介が肩をすくめた。
「義銀が一番やりそうなので」
「否定できぬのが悔しいですね」
小平太が笑った。
新介も小さく笑う。
その笑いに、義銀は救われた。
重かったはずの斯波の名が、少しだけ違って見えた。
一人で背負うものではない。
この二人が横にいる。
それだけで、名の重さは消えないまでも、潰されずに済む気がした。
しかし、信長様がここで終わるはずがない。
「ならば、毛利」
「はっ」
新介が顔を上げる。
信長様は、にやりと笑った。
「お前の妹がいるだろう」
新介は、目に見えて固まった。
義銀もまた、息を止めた。
毛利の妹。
琴。
療養中、何度も義銀を止めた少女。
無理に起き上がろうとすれば、黙って前に立った。
薬湯を残せば、静かに器を差し出した。
傷が痛まないふりをすれば、顔色を見てすぐに気づいた。
新介の妹。
よく見る目を持つ娘。
「……信長様」
新介の声が、わずかに硬い。
「何だ」
「今、非常に嫌な予感がいたしました」
「よい勘だ」
「よくありません」
信長様は、さらに楽しそうに笑った。
「毛利の妹を、義銀の奥へ入れる」
新介の顔が強張った。
「……妻に、ということでございますか」
「そうだ」
広間の空気が、また止まった。
義銀は、自分の顔が熱くなるのを感じた。
何を言えばよいのか分からない。
斯波家を再興する。
家臣が要る。
奥も要る。
それは分かる。
分かるが、そこで琴の名が出るとは思わなかった。
新介は義銀を見た。
義銀は思わず目を伏せる。
新介はもう一度、信長様を見た。
「……うちの琴を、ですか」
「そうだ」
「確かに、義銀を止めるには、琴は向いております」
「新介」
義銀は思わず低い声を出した。
新介は慌てて頭を下げる。
「失礼いたしました。ですが、事実です」
小平太も横から小さく頷いた。
「琴殿なら、義銀が無理をすれば容赦なく止めましょうな」
「小平太まで」
「我らが止めても聞かぬ時がありそうですので」
義銀は黙った。
反論できなかった。
療養中の自分を思い返せば、琴に止められた回数は数えたくないほどある。
信長様は、そんな義銀たちを面白そうに見ていた。
「毛利」
「……はい」
「お前は義銀につくのだろう」
「はい」
「ならば、毛利の家も斯波につくことになる」
新介が黙る。
その顔から、軽さが消えた。
兄の顔だった。
信長様は続ける。
「お前の妹が義銀の奥に入れば、毛利は兄妹で斯波を支えることになる。新たな家を立てるには都合がよい」
「都合、ですか」
叔母上の声が、思ったよりも冷えていた。
義銀は、はっとして叔母上を見る。
叔母上は静かに信長様を見ていた。
その目は、決して怒鳴ってはいない。
けれど、譲る気のない目だった。
「信長様の仰ることは分かります」
叔母上は言った。
「新介を斯波家臣にする。その妹を義銀の妻にする。そうなれば、毛利の家は斯波と深く結びつきます」
新介の拳が、膝の上で握られる。
義銀は、それを見た。
新介にとって、琴は妹だ。
義銀を支える覚悟はあっても、妹を差し出すこととは別だ。
叔母上は続けた。
「ですが、琴本人の意思を、必ず聞きます」
信長様は眉を上げた。
「聞くのか」
「聞きます」
「断れば?」
「その時は、別の手を考えます」
「面倒だな」
「人を家に入れるとは、面倒なことです」
広間が静かになった。
信長様は、少しだけ目を細めた。
「お前は本当に、そういうところで譲らぬな」
「譲りません」
義銀は、叔母上を見た。
胸の奥が、静かに熱くなる。
ああ。
やはり、この人は守る人だ。
義銀を。
義冬を。
琴を。
新介を。
家という名の中に、人が飲まれぬように、立ちはだかってくれる人だ。
叔母上は義銀に向き直った。
「義銀」
「はい」
「これは、貴方一人の話ではありません。琴の人生も、新介の家も、柴田家も、織田家も、斯波の名も関わります」
「……はい」
「だからこそ、簡単には決めません」
義銀は、深く頭を下げた。
「叔母上」
「何ですか」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早いです」
叔母上は広間の端に控えていた家人へ声をかけた。
「琴を呼んできてください」
家人が頭を下げて出ていく。
義銀は、畳の目を見た。
心臓が、妙に落ち着かない。
斯波家を立て直せと言われた時よりも、琴を呼ぶと決まった今の方が、落ち着かない。
新介は、膝の上で拳を握っている。
小平太は黙っている。
信長様は面白そうにこちらを見ている。
勝家の叔父上は、腕を組んだまま黙っている。
叔母上は、静かに待っている。
やがて、琴が広間へ入ってきた。
琴は、いつものように丁寧に頭を下げる。
「藤の方様、お呼びでしょうか」
その声は落ち着いていた。
けれど、広間の空気を感じ取ったのだろう。
琴の指先が、わずかに強張っていた。
義銀は、その指先を見てしまった。
療養中、何度も薬湯の器を差し出してくれた手。
傷の熱を確かめる時、少しだけ躊躇いながらも、きちんと触れた手。
無理をしようとすると、静かに前に出て止めた手。
「琴」
叔母上が呼ぶ。
「はい」
「大事な話があります」
琴は、ゆっくりと顔を上げた。
叔母上は、できるだけ言葉を選ぶようにして言った。
「信長様より、義銀が斯波家を立て直すよう命じられました」
琴の目が、義銀へ向く。
その視線を受けた瞬間、義銀は背筋を伸ばした。
琴は義銀を、義銀様とは呼ばない。
あの子にとって、義銀は斯波の人だ。
だから、琴は小さく息を吸ってから言った。
「斯波様が、でございますか」
「はい」
義銀は頷いた。
琴はすぐには言葉を続けなかった。
けれど、驚きより先に、何かを考えている顔だった。
やはり、よく見る。
叔母上が続ける。
「新介と小平太が、義銀を支えるため、斯波家に仕えることを願い出ました」
琴の視線が、兄へ向く。
新介は少しだけ困ったように笑った。
「琴」
「兄上」
「勝手に決めてすまん」
琴は、首を横に振った。
「兄上なら、そうなさると思いました」
新介が言葉に詰まる。
義銀は、少しだけ驚いた。
琴は兄をよく見ている。
新介がどうするかを、分かっていたのだ。
琴は、もう一度叔母上を見る。
その目は、不安を含みながらも、逃げてはいなかった。
叔母上は続けた。
「その上で、信長様より、貴女を義銀の妻にという話が出ています」
琴の顔が、一気に赤くなった。
義銀も、目を伏せた。
見ていられなかった。
顔が熱い。
新介は、完全に固まっている。
小平太だけが、少しだけ目を細めた。
信長様は楽しそうだ。
本当に楽しそうだ。
「琴」
叔母上の声が、優しくなる。
「これは、名誉な話ではあります。けれど、重い話でもあります」
「……はい」
「義銀の妻になるということは、新しい斯波家の奥を担うということです」
「はい」
「新介の妹としてだけではなく、斯波家の奥方として、人を見て、家を見て、時には義銀を止めることになります」
琴の睫毛が震えた。
「私は」
琴は小さく息を吸った。
「私は、武に秀でているわけではございません」
「はい」
「大きな家を動かしたこともございません」
「はい」
「できることといえば、傷の具合を見たり、顔色を見たり、無理をなさる方を止めることくらいでございます」
そこで琴は、義銀を見た。
義銀は、思わず目を合わせる。
琴は赤い顔のまま、それでも目を逸らさなかった。
「ですが」
その声は、小さい。
けれど、はっきりしていた。
「斯波様は、止める者が必要な方だと思います」
広間が、しんと静まった。
義銀は、言葉を失った。
新介が小さく吹き出しかけた。
小平太は肩を震わせている。
信長様は、あからさまに面白がっている。
叔母上は、少しだけ口元を押さえていた。
琴。
それを今、本人の前で言うのですか。
義銀は、どうにか声を出した。
「琴」
「はい」
「私は、それほど無理をしているように見えますか」
「見えます」
即答だった。
義銀は黙った。
琴は続ける。
「斯波様は、ご自分の傷より、周りの方のことを先に見ます。ご自分が疲れていても、疲れていない顔をなさいます。動けると思ったら、すぐに動こうとなさいます」
義銀は反論しようとして、できなかった。
全部、当たっている。
「ですから、止める者が必要です」
琴の声は、震えていなかった。
「私にできることがそれだけなら、それをいたします」
義銀は、長く琴を見ていた。
この子は、斯波の名を見ていない。
義銀の顔色を見ている。
傷を見ている。
無理を見ている。
名ではなく、人を見ている。
だからこそ、怖い。
だからこそ、ありがたい。
斯波の名を背負えば、義銀を見る者は変わるだろう。
名を見る者が増える。
血を見る者が増える。
利用価値を見る者が増える。
その中で、琴はきっと、義銀本人の疲れた顔を見つける。
そして止める。
そういう娘なのだ。
義銀は、静かに頭を下げた。
「私を、止めてくださいますか」
琴の目が、大きく開いた。
義銀は続ける。
「斯波の名に寄ってくる者の中には、私を持ち上げる者もいるでしょう。都合よく使おうとする者もいるでしょう。私自身が、それに気づけぬ時もあるかもしれません」
義銀は、深く息を吐いた。
「その時、止めてくださいますか」
琴は、ゆっくりと両手をついた。
「はい」
その声は、小さい。
けれど、はっきりしていた。
「私でよければ」
新介が、目元を押さえた。
兄として、安心したのか、寂しいのか。
おそらく、どちらもだ。
義銀は、新介を見た。
「新介」
「何だ、義銀」
「……すみません」
「謝ることか」
新介は、少しだけ笑った。
「琴が決めたことなら、兄の俺がどうこう言うことではない」
「ですが」
「ただし」
新介の目が、少し鋭くなる。
「泣かせたら怒る」
義銀は真面目に頷いた。
「肝に銘じます」
小平太が横から言った。
「新介が怒る前に、琴殿が義銀を叱る気がするがな」
「小平太」
「事実だろう」
義銀は言い返せなかった。
新介も、少しだけ笑った。
叔母上が琴の前へ進み、膝をついた。
「琴」
「はい」
「本当に、よろしいのですね」
琴は、叔母上を見た。
その目には、もう迷いはなかった。
「はい、藤の方様」
「怖くはありませんか」
「怖いです」
正直な答えだった。
琴らしいと思った。
「けれど、兄上が斯波様を支えるなら、私も支えたいです」
琴は、ほんの少しだけ笑った。
「それに、藤の方様」
「何ですか」
「藤の方様は、傷が悪くなるから止めるのだと仰いました」
叔母上が、目を瞬いた。
琴は続ける。
「叱られるから止めるのではなく、悪くなるから止めるのだと」
義銀は、あの療養の日々を思い出した。
叔母上が、琴にそう言っていた。
怒るために止めるのではない。
悪くなるから止めるのだと。
琴は、それを覚えていた。
「私は、斯波様が悪くならぬよう、止めたいです」
義銀は目を伏せた。
胸の奥が、また熱くなる。
この子は、本当に、よく見ている。
人の傷も。
人の無理も。
家の歪みも。
叔母上は、ゆっくりと頷いた。
「分かりました」
そして、琴へ向かって言った。
「では、私からもお願いがあります」
「はい」
「琴。義銀を、止めてください」
琴が、深く頭を下げた。
「承りました」
信長様が、満足そうに笑った。
「決まりだな」
「まだです」
叔母上が即座に言う。
信長様が眉を上げた。
「まだ何がある」
「手順がございます」
「手順?」
「琴をそのまま義銀へ嫁がせるわけにはまいりません」
叔母上は信長様を見た。
「毛利の妹としてでは、背負うものが重すぎます」
新介が息を呑む。
義銀も、息を止めた。
叔母上は続ける。
「一度、柴田で預かります。その上で、織田家の縁をいただき、斯波へ嫁がせる形を整えます」
信長様が、にやりと笑った。
「お前が言うか」
「言います」
「ならば、そのようにしろ」
あっさりだった。
あまりにもあっさりだった。
けれど、それが必要だと信長様も分かっていたのだろう。
琴を守るためにも。
義銀の家を守るためにも。
毛利の家を使い潰させないためにも。
名と形は必要だ。
「権六」
「はっ」
信長様が勝家の叔父上を見る。
「柴田で預かれ」
「承知」
勝家の叔父上は短く頷いた。
それだけで、琴の背後に柴田家が立つことが決まった。
新介が深く頭を下げる。
「勝家様、藤の方様。妹を、よろしくお願いいたします」
「新介」
叔母上は静かに言った。
「琴は預かります。けれど、貴方の妹であることは変わりません」
新介が顔を上げる。
「はい」
「兄として、支えてあげなさい」
「……はい」
その声は、少し震えていた。
信長様は、広間を見回した。
「これで、義銀の周りは固まったな」
固まった。
簡単に言ってくださる。
義銀は、そう思った。
けれど、実際にはこれからが大変だ。
義銀は斯波家を立て直す。
新介と小平太は、信長様のもとを離れて義銀を支える。
琴は柴田で預かり、織田の縁を得て、義銀の妻となる。
柴田家は、その全ての後ろに立つ。
名だけでは、家は立たない。
人が要る。
家を支える者が要る。
止める者が要る。
叱る者が要る。
見ている者が要る。
その一つ一つが、今ここで結ばれようとしている。
義銀は、静かに頭を下げた。
「信長様。勝家の叔父上。叔母上」
声は、思ったより落ち着いていた。
「斯波の名を、昔の形に戻すつもりはございません」
信長様が目を細める。
「新しく、立てます」
義銀は、新介と小平太を見た。
そして琴を見た。
「支えてくれる者たちと共に」
琴が、そっと頭を下げた。
新介と小平太も続く。
義銀は、その光景を見ながら、静かに息を吐いた。
義銀は、一人ではない。
もう、名だけで立たされる子ではない。
支える者がいる。
止める者がいる。
帰る場所がある。
ならば、きっと大丈夫だ。
いや。
大丈夫にしなければならない。
義銀は、広間の向こうで笑っている信長様を見た。
この方は、今日も人の人生を盤面に置いた。
けれど、置かれた者たちがただの駒で終わるかどうかは、これからの自分たち次第だ。
斯波家を支える者たち。
その中に、義銀自身もまた、立たねばならない。
名に支えられるのではない。
名を支える側として。