作品タイトル不明
第二十話 斯波家を立て直せ
傷というものは、塞がるまでは人を布団に縛りつける。
けれど、塞がった途端、人はじっとしていられなくなるらしい。
……少なくとも、柴田邸に転がり込んでいた若い男たちはそうだった。
桶狭間の戦から、ふた月ほどが過ぎた。
義銀、新介、小平太。
藤の方様に叱られる、と家人たちに止められ、琴に見張られ、ようやく大人しく寝ていた三人も、今ではすっかり顔色が戻っている。
戻っているどころか、戻りすぎていた。
そして私は、この頃にはもう、彼らを呼び捨てにしていた。
最初は、義銀様、新介殿、小平太殿、と呼んでいたはずなのだ。
けれど、寝台から抜け出そうとする。
庭へ出ようとする。
木刀を探す。
槍を隠す。
傷が塞がったからといって、なぜか鍛錬を再開しようとする。
そのたびに、
「義銀」
「新介」
「小平太」
と、短く呼び止めることになる。
人は、毎日叱っている相手に、いつまでも丁寧な呼び方をしていられないものらしい。
しかも、彼らも彼らで、呼び捨てにされることに慣れてしまっていた。
……慣れないでほしい。
「義銀。庭に出るだけならともかく、なぜ木刀を持っているのですか」
「……振るつもりはありませんでした」
「持った時点で駄目です」
私がそう言うと、義銀は静かに目を逸らした。
その横で、新介が笑いを堪えている。
「新介」
「はい!」
「貴方もです。なぜ笑っているのですか」
「いえ、義銀が見つかったのが少し面白くて」
「その義銀に木刀を渡したのは誰ですか」
新介は、きれいに黙った。
分かりやすい。
さらにその奥では、小平太が何食わぬ顔で庭石の上に腰かけている。
しかし、その足元には、なぜか槍の穂先を包んだ布が置かれていた。
「小平太」
「はい」
「それは何ですか」
「槍ではございません」
「包んであるだけで、槍でしょう」
「……まだ、振ってはおりませぬ」
「振る前に没収です」
小平太は、少しだけ残念そうな顔をした。
そして、その小平太の背後に、義冬が立っていた。
義冬は、桶狭間で傷を負ったわけではない。
むしろ留守番組として、兄や新介たちが無茶をしないよう見張る側だった。
そのはずだった。
「義冬」
「はい、叔母上」
「背中に何を隠しているのですか」
義冬は、ぴたりと動きを止めた。
小平太が、あからさまに目を逸らす。
新介が、今度こそ肩を震わせた。
「義冬」
「……槍です」
「なぜ」
「それは……」
義冬は、ちらりと小平太を見た。
小平太は庭石の上で、何食わぬ顔をしている。
義冬は口を開きかけて、閉じた。
どうやら、庇おうとしているらしい。
その様子を見て、義銀が静かに言った。
「小平太が槍の稽古をしてやると唆しただけです、叔母上」
「義銀!?」
小平太が思わず声を上げた。
義銀は涼しい顔をしている。
「事実だろう」
「事実ではあるが、そこは黙っていてくれてもよいだろう」
「義冬に嘘をつかせるわけにはいかない」
義冬は、背中に槍を隠したまま、申し訳なさそうに小平太を見た。
私は深く息を吐いた。
「小平太」
「はい」
「義冬に庇われる怪我人にならない」
「申し訳ございません」
「それから、怪我人が留守番の子に槍の稽古をつけようとしない」
「義冬様は筋がよさそうでしたので」
「褒めても駄目です」
義冬は、背中からそろそろと槍を出した。
しかも、ちゃんと穂先には布が巻かれている。
安全に配慮したつもりなのだろう。
そういう問題ではない。
「義冬」
「はい」
「兄上たちを見張る側が、なぜ一緒に槍を持っているのですか」
「……見張っていたら、楽しそうだったので」
私は額を押さえた。
この屋敷には、目を離せる若者が一人もいない。
勝家様は、そんな私を見て、少しだけ笑った。
「元気になった証だ」
「勝家様」
「うむ」
「笑い事ではございません」
「……うむ」
勝家様は、真面目な顔に戻った。
戻っただけで、たぶん内心では笑っている。
私は分かっています。
琴は琴で、廊下の向こうからこちらを見ていた。
その顔は、呆れ半分、安心半分といったところだ。
このふた月、琴は本当によく働いてくれた。
怪我人の顔色を見る。
薬湯を飲ませる。
熱が上がれば知らせる。
義銀が起き上がろうとすれば止める。
新介が「少し外の風を」と言いながら庭へ逃げようとすれば、静かに回り込む。
小平太が槍の穂先を布で包み始めたら、無言で私を呼びに来る。
この子がいなかったら、私はもう三度ほど怒りで倒れていたかもしれない。
「琴」
「はい、藤の方様」
「あとで、甘いものを出します」
琴は一瞬だけ目を丸くした。
それから、ほんの少しだけ頬を緩める。
「ありがとうございます」
その横で、新介が妙に誇らしそうな顔をした。
「琴はよく働くでしょう」
「ええ。本当に」
「兄に似て」
「そこは違います」
即答してしまった。
新介が軽く傷ついた顔をする。
小平太が笑いを堪え、義銀が目を逸らした。
「叔母上、せめて少しは迷ってあげてください」
「義銀」
「はい」
「貴方も黙って目を逸らさない」
「……申し訳ありません」
やはり、目を離せる若者が一人もいない。
そんなふうに、ようやく屋敷がいつもの騒がしさを取り戻し始めた頃だった。
信長様が、柴田邸へやって来た。
知らせを受けた瞬間、私は嫌な予感がした。
信長様が柴田邸へ来ること自体は珍しくない。
けれど、この日の信長様は、明らかに何かを決めている顔をしていた。
あの顔は、だめだ。
人の人生を、さらりと盤面の上に置く時の顔である。
勝家様は、信長様を広間へ通した。
義銀たちも姿勢を正す。
つい先ほどまで木刀だの槍だのを隠していた若者たちが、一瞬で顔を変えた。
こういうところを見ると、やはり彼らは馬廻衆なのだと思う。
信長様の前に出る時、三人はふざけない。
いや、小平太は少しふざけそうな気配を残しているけれど、それでもちゃんと空気を読む。
信長様は上座に座ると、まず義銀を見た。
「義銀」
「はっ」
義銀が姿勢を正す。
信長様は、まるで明日の天気でも告げるような顔で言った。
「斯波家を立て直せ」
広間の空気が、一瞬止まった。
義銀の顔から、わずかに血の気が引く。
新介と小平太も、わずかに表情を変えた。
義冬は息を呑んでいる。
琴は広間の端で、膝の上の手をきゅっと握っていた。
私は、すぐには言葉を出せなかった。
斯波家。
その名は、私たちにとって軽いものではない。
義銀と義冬が背負わされてきた名。
守れなかった家の名。
利用されかけた名。
父を失い、屋敷を失い、それでも消えなかった名。
その名を、信長様は今、もう一度義銀の前へ置いた。
「……私が、でございますか」
義銀の声は、静かだった。
けれど、その奥に揺れがあるのが分かった。
「お前以外に誰がいる」
信長様は当然のように返した。
義銀はすぐには答えなかった。
斯波。
その名は、使える。
尾張の者なら、誰でも分かる。
かつて守護として重く在った名。
失われても、なお人の記憶に残る名。
けれど、だからこそ怖い。
名だけで人が寄ってくる。
名だけで担ぎ上げようとする者が出る。
名だけで、本人の意思を無視して何かをさせようとする者が現れる。
私は、それを知っている。
義銀も、義冬も、それを知っている。
だからこそ、私はこの子たちを守りたかった。
義銀は、ゆっくりと頭を下げた。
「信長様」
「何だ」
「斯波の名は、使えます。ですが、同時に厄介でもございます」
その言葉に、私は思わず義銀を見た。
よく、言った。
そう思った。
斯波の名をただ誇るのではない。
恐れるのでもない。
使えるものとして見て、その上で厄介さも分かっている。
義銀は、ちゃんと見ている。
信長様は、義銀の言葉を聞いて、ほんの少しだけ笑った。
「分かっているならよい」
「……は?」
「名だけでどうにかなると思っている者なら要らぬ。名の厄介さを分かっている者なら、使える」
義銀が顔を上げる。
信長様は、義銀をまっすぐ見ていた。
「義銀。お前は斯波の名を背負え」
「……」
「ただし、昔の斯波ではない」
昔の斯波ではない。
その言葉が、広間の中に落ちた。
義銀の瞳が、かすかに揺れる。
義冬は、兄の横顔を見つめていた。
新介も、小平太も、黙っている。
いつもの軽口は、どこにもない。
信長様は、そこで私と勝家様をちらりと見た。
「柴田の隣で立て」
私は、息を止めた。
隣。
その言葉の意味を、私は考えるより先に察してしまった。
柴田家が後ろ盾になる。
いえ、後ろ盾だけではない。
柴田家が実家のように機能する。
義銀が斯波を再興させるなら、孤立させてはいけない。
名だけで担がれぬように、血縁と家臣と実務で固めなければならない。
信長様は、それをもう考えている。
勝家様は、隣で静かに頷いていた。
……まさか。
勝家様も、すでに知っていたのですか。
私だけが聞いていないのですか。
そう言いたくなったけれど、今はそれどころではない。
私は、義銀を見た。
義銀は、まだ何も言わない。
ただ、斯波という名の重さを真正面から受け止めるように、静かに信長様を見つめていた。
あの日、魚籠を抱えて走ってきた少年。
父を救えず、叔母と弟だけでも助けてくれと泣きそうな顔で頭を下げた子。
その子が今、もう一度、斯波の名を背負えと言われている。
けれど、同じではない。
あの時の義銀は、一人だった。
今は、違う。
柴田家がある。
勝家様がいる。
義冬がいる。
新介と小平太がいる。
そして、私もいる。
だからこそ、怖い。
なぜなら、これは義銀一人の話ではないからだ。
義銀が動けば、周りも動く。
斯波の名が立てば、人が集まる。
人が集まれば、思惑も集まる。
家を立て直すとは、ただ名を掲げることではない。
人を抱え、守り、選び、時には切り捨てることだ。
私は、腹の底が重くなるのを感じた。
また、忙しくなる。
そう思った。
けれど、それ以上に。
これは、ただ家を一つ立て直す話ではない。
義銀の人生が、もう一度、大きく動き出す音だった。