軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十九話 お琴さんは、よく見ている

お琴さんは、よく見ている。

そう思ったのは、療養部屋を覗いた時だった。

柴田邸の一室には、怪我人が四人並んでいる。

勝家様。

義銀。

服部小平太殿。

毛利新介殿。

……改めて考えると、すごい部屋である。

桶狭間と鳴海で功を立てた面々が、同じ部屋で布団に転がされている。

しかも、全員、私が「治るまで出しません」と言ったために、基本的には布団から出られない。

勝家様は肩、義銀は腕と足と頬、小平太殿は膝、新介殿は指。

命に関わる傷ではない。

けれど、軽く見てよい傷でもない。

傷は怖い。

熱を持てば怖い。

膿めば怖い。

噛み傷など、特に怖い。

私は医者ではない。

前世で医療関係の仕事をしていたわけでもない。

けれど、現代日本で生きていた記憶がある以上、手洗いと清潔の大切さくらいは知っている。

そして何より、私はこの時代で、傷が悪くなる怖さを見てきた。

ちょっとした傷。

小さな膿み。

熱。

それだけで、人は簡単に弱る。

だから、私は怒った。

怒ったというか、たぶん般若だった。

清洲から怪我人三人が柴田邸へ運ばれてきた時、私は心の底から思った。

治るまで、絶対に布団から出さない。

ちなみに、勝家様も例外ではない。

勝家様は、息子に会いたくて浴場へ連行された後も、隙あらば藤七丸を抱こうとする。

気持ちは分かる。

ものすごく分かる。

私だって藤七丸を一日中眺めていたい。

小さくて、温かくて、泣き声まで可愛い。

勝家様が抱きたい気持ちは分かる。

分かるけれど。

肩の傷が開いたら、誰が困ると思っているのですか。

私です。

藤七丸です。

勝家様本人です。

だから、駄目です。

駄目なものは駄目。

そういう気持ちで、私は療養部屋を管理していた。

家人たちも、よく働いてくれている。

湯を沸かし、布を替え、食事を運び、薬を用意し、怪我人が勝手に動かないように見張る。

ただし、止める理由が少し違う。

「藤の方様に叱られますので!」

うん。

それはそう。

私も叱る。

叱ります。

でも、本当はそこではない。

叱られるから止めるのではなく、傷が悪くなるから止める。

その人の命や身体に関わるから止める。

そこを分かってほしい。

そう思っていたところに、お琴さんが現れた。

毛利新介殿の妹。

兄以外の家族がいないという、まだ若い娘さん。

初めて柴田邸に飛び込んできた時は、顔を真っ青にしていた。

兄からの手紙が短すぎて、死にかけていると思ったらしい。

まあ、あの手紙は駄目だ。

『柴田邸にて療養することになった。

傷が癒え次第、戻る。

心配は要らぬ』

心配しかない。

毛利新介殿。

……いや。

心の中では、もう新介くんでいい気がする。

今川義元を討ち取った若武者。

冷静で、淡々としていて、言葉も少ない。

けれど、妹さんへの手紙は壊滅的に短い。

『心配は要らぬ』で心配させるあたり、まだまだ若い。

新介くん。

うん。

心の中なら、新介くんでいい。

表ではちゃんと新介殿と呼ぶ。

でも、脳内では新介くんである。

新介くん、あれは駄目。

妹さんは泣きます。

実際、泣きました。

兄君に会う前に手を洗ってください、と言っただけで、もう最悪の想像をして涙ぐんでいた。

それでも、お琴さんは言われた通りに手を洗った。

爪の間まで、きちんと。

怖くても、泣いていても、手順を守れる子。

その時点で、少し印象は良かった。

お琴さん。

……いや。

心の中では、もうお琴ちゃんでいい気がする。

表ではちゃんと、お琴さんと呼ぶ。

他家の娘さんだし、新介くんの妹さんだし、私が勝手に馴れ馴れしくしてよい相手ではない。

でも。

兄上が心配で泣きながら柴田邸へ駆け込んできて。

手を洗えと言われれば、怖がりながらもちゃんと洗って。

この十五日、兄の指だけでなく、勝家様の肩も、義銀の足も、小平太くんの膝も見て。

甘いきな粉餅を食べて「甘い」と目を丸くする。

そんな子を、心の中でお琴ちゃんと呼ぶくらいは許されるでしょう。

うん。

お琴ちゃん。

とても良い子。

そのお琴ちゃんは、十五日が経った今も、まだ柴田邸にいる。

最初は兄の様子を見届けたら帰るつもりだったのだろう。

けれど、新介くんの指の傷が気になって帰れなかった。

それは自然なことだ。

兄しかいない妹なら、なおさら。

何か手伝おうとしては、家人たちに断られていた。

「お琴様はお客様にございますので」

「新介様の妹君に、そのようなことはさせられません」

「藤の方様に叱られますので!」

ええ、叱ります。

でも、少しだけ違う。

お琴ちゃんは、何かしたかったのだと思う。

兄を心配しているだけではなく、自分も役に立ちたかったのだと思う。

だが、柴田邸の家人たちは働き者で、客に仕事をさせないことに関しては妙に頑固だ。

結果として、お琴ちゃんの仕事は一つになった。

療養部屋の監視。

兄の指を見て。

小平太くんの膝を見て。

義銀の足を見て。

勝家様の肩を見て。

そして、お琴ちゃんは本当に見ていた。

「柴田様。肩の動きが、まだ硬うございます」

廊下の陰で、私はその言葉を聞いた。

勝家様が、布団から出ようとしていた。

理由は分かる。

藤七丸の声がしたからだ。

夫が我が子に会いたがる姿は、正直、とても可愛い。

ものすごく可愛い。

でも駄目。

肩が治っていない。

そこを、お琴ちゃんは止めた。

「昨日、於光様が布を替える時、少し顔をしかめておられました」

驚いた。

お琴ちゃんは、そこまで見ていたのか。

勝家様は「気のせいだ」と言った。

気のせいではない。

私も見ていました。

於光様も見ていました。

そして、お琴ちゃんも見ていた。

「藤七丸様を抱かれるなら、なおさら治していただかねば困ります。赤子を抱く腕が痛んでは、藤の方様が心配なさいます」

私は、思わず胸を押さえそうになった。

いい子。

待って。

お琴ちゃん、めちゃくちゃいい子では?

相手は柴田勝家である。

鬼柴田である。

しかも、お琴ちゃんからすれば他家の、それもかなり格上の武将だ。

怖いに決まっている。

なのに、お琴ちゃんは止めた。

私に叱られるからではない。

勝家様の肩が悪くなるから。

藤七丸を抱く腕が痛むから。

私が心配するから。

何それ。

めちゃくちゃいい子。

私は、心の中で盛大に頭を抱えた。

お琴ちゃん、良い。

とても良い。

その後も、お琴ちゃんはよく見ていた。

小平太くんが膝を曲げようとした時も、布の位置のずれに気づいた。

服部小平太殿。

いや、こちらも心の中では小平太くんでいいと思う。

小平太殿、と呼ぶには、あまりにも分かりやすい。

膝が少し良くなれば、すぐ動こうとする。

止められれば「少しだけ」と言う。

怒られれば天井を見る。

義銀と新介くんにからかわれて、すぐ言い返す。

うん。

小平太くんだ。

脳内なら許されるでしょう。

小平太くん。

膝は大事です。

本当に大事です。

「昨日より少し熱を持っています。無理に曲げたのではありませんか」

お琴ちゃんがそう言うと、小平太くんは目を逸らした。

分かりやすい。

とても分かりやすい。

「少しだけ」

少しだけ、ではありません。

膝は大事です。

歩くにも、走るにも、馬に乗るにも、槍を振るうにも、大事です。

そこを、お琴ちゃんはちゃんと分かっていた。

私が言ったことを覚えている。

そして、それを自分の言葉で止めている。

「服部様の膝が悪くなるからです」

そう。

それ。

それなのです。

藤の方様に叱られるから、ではない。

小平太くんの膝が悪くなるから。

その理由で止められるのは、とても大事だ。

義銀に対してもそうだった。

右足を庇って立ったことに気づいた。

腕の動きがまだ硬いことに気づいた。

槍を握るには早いと見抜いた。

義銀は、昔から我慢する子だった。

お腹が空いても、怖くても、痛くても、黙る。

父を亡くしてからは特にそうだった。

あの子は、守られるより先に、守ろうとする。

だから、痛みを隠す。

無理をする。

信長様の前では、なおさらだ。

その義銀に、お琴ちゃんは言った。

「腕も、槍を握るにはまだ早いです」

言えた。

義銀に。

斯波の名を持ち、桶狭間で信長様の道を開いた若武者に。

しかも、怖がりながら。

そこが良い。

怖くないから言えるのではない。

怖いけれど、言わなければと思ったから言える。

いい子。

本当にいい子。

新介くんの妹さん、めちゃくちゃいい子。

そして、新介くんの指。

お琴ちゃんは、兄の指を一番よく見ていた。

当然だ。

兄のことが心配なのだから。

でも、ただ心配するだけではなかった。

赤み。

腫れ。

熱。

痛み。

布を替える時の兄の顔。

全部、見ていた。

噛み傷は怖い。

私がそう言ったことを覚えていた。

そして、自分でも怖いと思っていた。

これは、かなり大事な資質だ。

前世なら、看護師さん向きかもしれない。

いや、看護師さんは専門職である。

私が軽々しく言ってよいものではない。

でも、患者をよく見る目。

変化に気づく目。

痛みを軽く扱わない感覚。

怖いからこそ慎重になれる性質。

それは、手当てをする者として、とても大事だと思う。

お琴ちゃん、優秀。

とても優秀。

このままうちに来ないかしら。

……いや、待って。

落ち着きましょう、藤乃。

まだです。

まだ早い。

お琴ちゃんは新介くんの妹さんです。

勝手にうちの子扱いしてはいけません。

でも。

新介くん、これからも戦に出るよね?

義銀の友人で、信長様の馬廻衆で、桶狭間で今川義元を討ち取った子だ。

これから先、戦から離れることは難しい。

また戦になれば、お琴ちゃんは一人で待たなければならない。

兄から短い手紙が届いて、心配して、泣きながら走ってくることになるかもしれない。

それは、ちょっと、心臓に悪すぎるのでは?

柴田邸にいた方が安心では?

新介くんも、その方が安心では?

お琴ちゃんも、うちで手当てや記録を覚えた方がよいのでは?

いや、だから待って。

落ち着いて、私。

まだ誘ってはいけません。

でも、誘ってみたい。

この子、うちに来ないかしら。

そんなことを考えているうちに、夕方になった。

藤七丸は、たっぷり泣いて、たっぷり乳を飲み、ようやく眠った。

小さな寝息を立てる我が子の顔を眺めていると、胸の奥がふわりと温かくなる。

可愛い。

本当に可愛い。

けれど、私はずっと藤七丸だけを見ているわけにもいかない。

療養部屋の怪我人たち。

そして、お琴ちゃん。

今日一日、あの子はほとんど休んでいない。

兄の指を見て、膝を見て、肩を見て、腕を見て、記録を書いて。

その合間にも、水を飲ませたり、布を整えたりしていた。

家人たちに仕事を断られた結果、療養部屋の監視が仕事になったとはいえ、頑張りすぎである。

兄想いなのは分かる。

分かるけれど。

見守る者が倒れては意味がない。

私は藤七丸を寝かせ、於光様に目配せした。

於光様は、何も言わずに頷いてくれた。

さすが於光様。

私が何かを考えている時、たいてい気づいている。

於光様に支えられながら、私は廊下へ出た。

療養部屋の外から中を覗くと、お琴ちゃんはまだ兄の指の記録を見直していた。

夕暮れの薄い光の中、真剣な顔で紙を見ている。

小さな背中。

少し疲れた顔。

でも、まだ兄から目を離せないという顔。

私は、そっと声をかけた。

「お琴さん」

お琴さんが、びくっと肩を揺らす。

「はい、藤の方様」

「少し、お茶にしませんか」

お琴さんは目を瞬かせた。

「お茶、でございますか」

「はい」

「あの、私はまだ兄上の」

「新介殿は寝ています」

私が言うと、お琴さんは兄の方を見た。

新介くんは、静かに目を閉じている。

眠っている。

たぶん、本当に寝ている。

最近ようやく、お琴ちゃんが見ていると、新介くんは少し眠るようになった。

良い傾向だ。

「小平太殿も、義銀も、勝家様も、今は大人しくしています」

正確には、勝家様は藤七丸の声がしないので大人しくしている。

小平太くんは、膝を動かそうとするたびにお琴ちゃんに見られるため、諦めている。

義銀は、食事を残したことが記録されそうになったため、少し反省している。

だが、今はまとめて大人しい。

「今は、お琴さんが休む番です」

「私が、休む……」

お琴さんは、少し戸惑った顔をした。

その顔を見て、私は確信した。

この子、自分の休み方が下手だ。

兄を心配することはできる。

怪我人を見ることもできる。

けれど、自分が疲れていることには鈍い。

危ない。

とても危ない。

「来てください」

私は手招きした。

お琴さんは少し迷った。

けれど、私が笑って待っていると、やがて小さく頷いた。

「はい」

奥の小部屋には、於光様が待っていた。

小さな灯り。

温かい茶。

そして、小さな皿。

皿の上には、ひと口ほどのきな粉餅が乗っている。

大きくはない。

この時代、甘いものは貴重だ。

まして戦の直後で、怪我人も多く、産後の私もいる。

贅沢はできない。

けれど、今日は少しだけ。

頑張った子には、ご褒美が必要だ。

「お琴さん、こちらへ」

私が促すと、お琴さんは慌てて座った。

「於光様まで……」

於光様は穏やかに微笑んだ。

「今日はよく働いてくださいましたね」

「いえ、私は、その」

「まずは召し上がりなさい」

於光様が皿を差し出す。

「甘いものは、疲れた心にも効きますよ」

お琴さんは、きな粉餅を見た。

それから、私を見る。

「私が、いただいてよろしいのですか」

「もちろんです」

私は頷いた。

「頑張ったご褒美です」

「ご褒美……」

お琴さんは、少し困ったように瞬きをした。

「私は、ただ兄上が心配で」

「心配だから、頑張ったのでしょう」

私は言った。

「だから、ご褒美です」

お琴さんは、しばらく皿を見ていた。

それから、両手で丁寧に皿を受け取る。

「ありがとうございます」

小さく頭を下げ、そっときな粉餅を口に運んだ。

その瞬間、お琴さんの目が少し丸くなる。

「……甘い」

ぽつりと漏れた声が、あまりにも素直だった。

私は、心の中で机を叩いた。

可愛い。

何これ。

めちゃくちゃ可愛い。

お琴ちゃん、きな粉餅を食べて「甘い」って。

素直。

良い子。

礼儀もある。

兄想い。

手当ても向いている。

しかも甘味をちゃんとありがたがる。

この子、うちに来ない?

いや、だから落ち着いて、私。

「お口に合いましたか」

私は、外面を保って微笑んだ。

お琴さんは、少し恥ずかしそうに頷く。

「はい。とても、美味しいです」

「よかった」

於光様が優しく笑った。

「もう一つありますよ」

「い、いえ、そのような」

「遠慮しすぎると、藤の方様に叱られますよ」

於光様がさらりと言った。

私は思わず於光様を見る。

於光様は、涼しい顔をしている。

……於光様、私を何だと思っているのですか。

いや、叱りますけど。

お琴さんは慌てて、もう一つ小さなきな粉餅を受け取った。

そして、また丁寧に食べた。

その姿を見ていると、心が少し和む。

この十五日、皆が張り詰めていた。

怪我人も、家人も、私も。

お琴さんも。

だから、甘いものを食べてほっとする時間が、少しくらいあってもいい。

それにしても。

砂糖って、本当に重要だったんだな……。

前世では、白い砂糖も、黒糖も、菓子も、当たり前のようにあった。

スーパーへ行けば袋で買えたし、コンビニへ行けば甘いものが山ほど並んでいた。

けれど、この時代では違う。

甘いものは貴重だ。

砂糖は高い。

疲れた人に、ほんの少し甘いものを出す。

それだけで、こんなにも顔が変わる。

お琴ちゃんの目元が、少しだけ緩んでいる。

肩の力が抜けている。

ああ。

甘いものは、偉大だ。

砂糖は、偉大だ。

……甜菜糖。

一瞬、そんな単語が頭をよぎった。

前世知識。

砂糖を作る。

甘味を増やす。

一瞬だけ、ものすごく魅力的に思えた。

けれど、私はすぐに心の中で首を横に振った。

今じゃない。

今、それを考える時ではない。

今の私がやるべきことは、砂糖の生産ではない。

怪我人を布団に縫い止めること。

藤七丸を育てること。

勝家様を無理に動かさないこと。

義銀をちゃんと食べさせること。

小平太くんの膝を守ること。

新介くんの指を悪くさせないこと。

そして、お琴ちゃんを少し休ませること。

うん。

甜菜糖は、今じゃない。

でも、甘いものは大事。

これは、覚えておこう。

「お琴さん」

「はい」

「今日は本当に助かりました」

「私は、まだ教えていただいたばかりで」

「それでも、助かりました」

私はお茶を手に取り、ゆっくりと言った。

「怪我人を止めるのは、難しいのです」

お琴さんは、真剣な顔で聞いている。

「特に、武士の方々は、自分の傷を軽く見ます。動けるなら動こうとする。痛みを隠す。食べなくても平気と言う。眠れなくても、眠ったと言う」

「兄上もです」

「ええ」

「昔からそうです」

お琴さんの声は、少しだけ沈んだ。

「熱があっても、問題ないと言います。怪我をしても、少しだと言います。私が心配すると、すぐ謝るのに、また同じことをします」

新介くん。

妹さんを心配させすぎです。

あとで言います。

私は心の中で、新介くんを正座させた。

実際にはしない。

いや、必要ならする。

「お琴さんは、よく見ていますね」

私が言うと、お琴さんは首を横に振った。

「見ていないと、兄上はすぐ隠すので」

「だから、見られるのです」

「え?」

「大切な人が隠すから、見ようとする。大切な人が無理をするから、止めようとする。最初は、それでよいのです」

お琴さんは、きな粉のついた指先を少し気にしながら、私を見た。

「私は、兄上のことしか考えていなかったのに」

「それでいいのですよ」

「いいのですか」

「はい」

私は頷いた。

「誰か一人を大切に思うことは、他の人を見る目にも繋がります。お琴さんは、新介殿の指を見ているうちに、小平太殿の膝も、義銀の足も、勝家様の肩も見るようになったのでしょう?」

お琴さんは、驚いたように目を見開いた。

「……はい」

「それは、とても大事なことです」

本当に、そう思う。

私も、最初から家のことを見られたわけではない。

最初は、義銀と千若を食べさせたかった。

米櫃の底を覗いて、葱を抜いて、魚籠を抱えた義銀を叱りながら、それでもまず千若に食べさせたかった。

目の前の子供たちを生かしたかった。

そこからだった。

台所を見るようになった。

米を見るようになった。

人を見るようになった。

帳面を見るようになった。

柴田家に来てからも、最初は自分が役立たずではないと証明したくて、必死に動いていた。

でも、動いているうちに気づいた。

人を支えるには、見ることが必要だ。

食べているか。

眠れているか。

無理をしていないか。

何が足りないか。

どこに負担が偏っているか。

誰が黙っているか。

お琴ちゃんは、それができる。

まだ荒削りだけれど、できる。

「藤の方様」

お琴さんが、小さく言った。

「私は、兄上がまた戦に行くのが怖いです」

私は、静かにお茶を置いた。

「はい」

「兄上は、きっとまた行きます。今回も、心配は要らぬと書きました。次も、きっとそう書きます」

「そうでしょうね」

新介くん、絶対書く。

心配は要らぬ。

また書く。

やめなさい。

「私は、家で待つしかありません」

お琴さんの声が震えた。

「兄上が帰ってくるまで、文が来るまで、生きているのか、怪我をしているのか、何も分からないまま待つしかありません」

於光様が、静かに目を伏せた。

私も、胸の奥が少し痛くなる。

それは、私も知っている。

勝家様を送り出した時のこと。

藤七丸を産む痛みの中で、勝家様に行ってくださいと言ったこと。

怖かった。

本当は、そばにいてほしかった。

でも、行ってくださいと言った。

私はこの子を守ります。

そう言った。

あれは強さではない。

怖かったけれど、そうするしかなかったのだ。

「待つのは、怖いですね」

私が言うと、お琴さんは小さく頷いた。

「はい」

「私も、怖いです」

お琴さんが、驚いたように私を見た。

「藤の方様も、ですか」

「もちろんです」

私は少し笑った。

「勝家様が戦に行かれるたび、怖いです。義銀が無茶をするたび、怖いです。今だって、怪我人が布団から出ようとするだけで怖いです」

「藤の方様でも」

「私でも」

怖いに決まっている。

大切な人が傷つくのは怖い。

帰ってこないかもしれないと思うのは怖い。

それでも、止められないことがある。

役目がある。

守るべきものがある。

だから、せめて帰ってきた時には、ちゃんと治す。

次に送り出す時には、少しでも備える。

待つだけではなく、できることを増やす。

「お琴さん」

「はい」

「兄上を案じるお気持ちは、とても大切です。でも、案じる人が倒れてはいけません」

お琴さんは、はっとした顔をした。

「案じる人が……」

「はい。見守る人も、食べて、眠って、休むのです。そうしなければ、誰かを支えることはできません」

お琴さんは、手元の茶を見た。

小さなきな粉餅は、もう皿の上から消えている。

「私は、休んでいませんでしたか」

「少しだけ」

私は正直に言った。

「目の下に疲れが出ています」

お琴さんが慌てて目元に手をやる。

於光様が、くすりと笑った。

「お琴さんは、兄上を見ている時はとてもよい目をされています。でも、ご自分のことになると見落としがちですね」

お琴さんは、少し赤くなった。

「申し訳ございません」

「謝ることではありません」

私は言った。

「これから覚えればよいのです」

「覚える……」

「はい。人を支えるなら、自分のことも見なければなりません」

お琴さんは、真剣に頷いた。

「はい」

ああ。

やっぱり、良い子だ。

教えれば、ちゃんと聞く。

怖がりだけれど、逃げない。

兄が心配で泣くけれど、手当ての時は見る。

礼儀もある。

言葉も丁寧。

そして、自分ができることを増やそうとしている。

この子、うちに来ないかしら。

いや、まだ。

まだです。

でも、かなり本気で考えたい。

お琴ちゃんが柴田邸にいれば、新介くんも安心だろう。

戦に出る兄を、一人きりで待つよりは、ここにいた方がいい。

手当てや記録を覚えれば、家の中でも役に立つ。

何より、お琴ちゃん自身が一人で不安を抱えずに済む。

まずは、そこだ。

この子は、兄を待つことに慣れすぎている。

怖いのに。

寂しいのに。

待つしかないと思っている。

それは、少し苦しい。

だから、もし。

もし、うちに来られるなら。

柴田邸で、手当てや帳面や奥向きのことを覚えながら、兄の帰りを待つことができるなら。

その方が、きっと安心だ。

……待って。

私、今かなり本気で考えていますね?

落ち着いて。

まだです。

まだ、何も決めていません。

でも。

「藤乃姫」

於光様の声に、私はびくりとした。

「はい」

「何か、考えていますね」

「まだ、考えていません」

於光様は、にっこり微笑んだ。

「まだ、ですか」

「まだ、です」

「そうですか」

於光様は、それ以上何も言わなかった。

でも、その顔は完全に分かっている顔だった。

さすが於光様。

怖い。

私が黙っていると、お琴さんは不思議そうに私たちを見比べた。

「藤の方様?」

「何でもありません」

私は微笑んだ。

「今日は、よく休んでくださいね」

「はい」

「明日も、記録をお願いします」

「はい。務めます」

お琴さんは、きちんと頭を下げた。

その仕草も丁寧だった。

育ちがよいというより、兄を支えるために丁寧であろうとしている感じがする。

うん。

本当に良い子。

お茶を飲み終える頃には、お琴さんの顔から少し疲れが抜けていた。

甘いものと温かい茶は偉大である。

きな粉餅、作ってよかった。

また用意しよう。

頑張った子には、ご褒美が必要です。

お琴さんを療養部屋へ戻す前に、私は言った。

「お琴さん」

「はい」

「明日からも、無理をしている人を見つけたら、遠慮なく止めてください」

「柴田様も、ですか」

「もちろんです」

「斯波様も?」

「もちろんです」

「服部様も?」

「当然です」

「兄上も」

「一番止めてください」

お琴さんは、少しだけ笑った。

「分かりました」

「それから」

私は少しだけ声を柔らかくした。

「お琴さん自身が無理をしていたら、私が止めます」

お琴さんは、目を丸くした。

それから、小さく頷いた。

「はい」

その返事は、少し照れたようで、でも嬉しそうだった。

私は満足して頷いた。

お琴さんが部屋を出ていく。

その背中を見送りながら、私はまた考える。

お琴ちゃんは、よく見ている。

けれど、自分のことを見るのはまだ下手だ。

なら、そこは教えればいい。

見ることを覚えた子なら、きっと覚えられる。

兄を想う気持ちも。

怖がりながら止める勇気も。

小さな変化に気づく目も。

どれも、得難いものだ。

「於光様」

「はい」

「お琴さん、良い子ですね」

於光様は、やっぱりという顔で微笑んだ。

「ええ。良い子です」

「とても」

「ええ、とても」

「……うちに来ないかしら」

ぽろりと漏れた。

言ってしまった。

於光様は、少しだけ目を細める。

「藤乃姫」

「はい」

「まだ、考えていないのでは?」

私は目を逸らした。

「少し、考え始めました」

「少しですか」

「少しです」

於光様は、くすりと笑った。

「では、その少しが大きくなる前に、八右衛門殿にも相談なさいませ」

「八右衛門殿、胃を押さえませんか?」

「押さえるでしょうね」

「ですよね」

でも、相談はする。

お琴ちゃんをどうするか。

新介くんの妹としてだけではなく、あの子自身をどう守るか。

兄が戦に出るたびに、一人で家で待つのではなく。

怖いなら怖いと言える場所で。

兄以外にも、手を伸ばせる場所で。

あの子自身が、ちゃんと食べて、眠って、休める場所で。

守ってあげられるなら。

私は、まだ誰にも言わない考えを胸の奥にしまった。

まだ、考えただけ。

まだ、思いついただけ。

けれど。

きな粉餅を小さく食べて、少しほっとした顔をしたお琴ちゃんを思い出すと、心の中でそっと頷いてしまう。

うん。

この子、うちに来ないかしら。