作品タイトル不明
第十八話 柴田邸の療養部屋
柴田邸に駆け込んだあの日から、十五日が過ぎた。
毛利琴は、まだ柴田邸にいた。
最初は、兄の様子を見届けたら帰るつもりだった。
兄は死にかけてはいなかった。
指を噛まれた傷は痛々しかったが、命に関わるものではないと藤の方様は言った。
ならば、一度家に戻るべきだったのだろう。
けれど、琴は帰れなかった。
兄は、自分の傷を軽く見る人だ。
藤の方様がどれほど厳しく言っても、布団の上で大人しくしている兄を見るまで、琴は安心できなかった。
そうして、気づけば十五日である。
その間、琴は何度も柴田家の者たちに言った。
「何か、お手伝いできることはありませんか」
けれど、返ってくる答えはいつも同じだった。
「お琴様は、お客様にございますので」
「新介様の妹君に、そのようなことはさせられません」
「お気持ちだけで十分でございます」
「藤の方様に叱られますので!」
最後の言葉だけは、少し違う気もした。
だが、とにかく断られた。
台所を手伝おうとしても断られる。
湯を運ぼうとしても断られる。
布を畳もうとしても、於光様にやんわり止められる。
掃除をしようとすれば、女中たちに笑顔で囲まれて座らされる。
柴田家の者たちは、皆、働き者だった。
そして、客に何かさせないことに関しては、妙に結束が固かった。
その結果、琴に残された仕事は一つしかなかった。
療養部屋の監視である。
兄が指を使いすぎていないか。
服部様が膝を曲げようとしていないか。
斯波様がこっそり立ち上がっていないか。
柴田様が、藤七丸様の泣き声に反応して布団を抜け出そうとしていないか。
それを見張る。
見張るしかない。
そして、十五日も見張っていれば、嫌でも分かることがあった。
四人とも、治りが早い。
早いが、まだ動いてよいほどではない。
そこを、四人とも分かっていない。
いや。
分かっていて、分からないふりをしている。
「少し歩くだけだ」
最初にそう言ったのは、柴田様だった。
朝の光が療養部屋へ差し込み、廊下の向こうから藤七丸様の小さな声が聞こえた時のことである。
柴田様は、布団の上でじっとしていた。
じっとしていたが、その目が完全に奥の方へ向いていた。
藤七丸様のいる方へ。
琴は、兄上の指の布を替える準備をしながら、そっとその様子を見ていた。
柴田様は、しばらく無言だった。
そして、不意に布団へ手をついた。
「柴田様」
琴は、思わず声をかけた。
柴田様がこちらを見る。
「何だ」
「どちらへ」
「藤七丸の顔を見るだけだ」
それだけ。
たしかに、それだけなのだろう。
けれど、琴はこの十五日で知っていた。
「それだけ」と言う人ほど、それだけでは終わらない。
兄上もそうだった。
「少し読むだけ」と言って、指を使って本を押さえようとする。
「少し座るだけ」と言って、布団から出ようとする。
「少しなら」と言う人は、だいたい少しで止まらない。
琴は、兄上の指の布を置いて、柴田様へ向き直った。
「柴田様」
「何だ」
「肩の動きが、まだ硬うございます」
柴田様は、黙った。
部屋の空気が少し止まる。
服部様が、面白そうにこちらを見た。
兄上は静かに目を伏せた。
斯波様は、琴を見る。
琴は、少しだけ緊張しながら続けた。
「昨日、於光様が布を替える時、少し顔をしかめておられました」
「……見ていたのか」
「見ておりました」
「気のせいだ」
「気のせいではありません」
言ってから、琴は心臓が跳ねた。
相手は柴田勝家様である。
鬼柴田と呼ばれる方である。
兄上の隣で療養しているため、最近は少し見慣れてしまったが、本来なら琴のような小娘が強く言える相手ではない。
それでも、琴は引かなかった。
藤の方様に叱られるからではない。
柴田様の肩が、本当にまだ治りきっていないからだ。
「藤七丸様を抱かれるなら、なおさら治していただかねば困ります。赤子を抱く腕が痛んでは、藤の方様が心配なさいます」
柴田様は、しばらく琴を見ていた。
その顔は険しい。
怖い。
けれど、琴は視線を逸らさなかった。
やがて、柴田様は何も言わずに布団へ戻った。
服部様が、小さく息を吐く。
「お琴殿、すごいな」
琴は、そこでようやく肩の力を抜いた。
「……怖かったです」
「怖かったのか」
「怖いに決まっています」
「でも止めたな」
「藤七丸様を抱く肩ですから」
柴田様が、わずかに目を動かした。
琴は、それ以上言わなかった。
柴田様も何も言わない。
けれど、その後しばらく柴田様は布団から出ようとしなかった。
少なくとも、その朝は。
「お琴殿まで、藤の方様のようになってきたな」
服部様が、からかうように言った。
琴は、服部様を見た。
「服部様」
「何だ」
「膝を曲げようとなさいましたね」
服部様が固まった。
「なぜ分かる」
「布の位置がずれています」
「……見ていたのか?」
「見ておりました」
「この部屋、見張り多すぎないか?」
服部様は天井を仰いだ。
兄上が静かに言う。
「小平太、諦めろ」
「お前までそちら側か、新介」
「琴は正しい」
「そうだが!」
服部様は膝を押さえた。
この十五日で、服部様の膝の腫れはかなり引いた。
最初は、布を替えるたびに傷の周囲が熱を持っていた。
少し動かすだけで顔をしかめていた。
けれど、今は違う。
腫れは引いている。
熱も少ない。
歩こうと思えば、歩けるのだろう。
だからこそ、危ない。
「服部様の膝は、よくなっています」
琴がそう言うと、服部様の顔が少し明るくなった。
「なら」
「でも、まだ駄目です」
「なぜだ!」
「昨日より少し熱を持っています。無理に曲げたのではありませんか」
服部様は、視線を逸らした。
「少しだけ」
「少しでも駄目です」
「藤の方様に叱られるからか」
「いいえ」
琴は首を横に振った。
「服部様の膝が悪くなるからです」
服部様が、言葉を失った。
琴は、そのまま続ける。
「膝は、歩くにも、走るにも、馬に乗るにも、槍を振るうにも大事です。藤の方様がそう仰っていました」
「藤の方様の受け売りではないか」
「はい。ですが、本当にそうだと思います」
服部様は、少しだけ目を丸くした。
それから、困ったように笑う。
「それを言われると、言い返しづらい」
「言い返さなくてよいのです」
「強いなあ、お琴殿は」
琴は首を横に振った。
「強くありません。怖いです」
「怖い?」
「はい。服部様の膝が悪くなったら、兄上が悲しみます。斯波様も困ります。柴田様も、藤の方様も、皆様心配なさいます」
琴は膝の布を見た。
「だから、怖いです」
服部様は黙った。
先ほどまで軽口を叩いていた顔から、少しだけ笑みが消える。
「……そうか」
「はい」
「なら、大人しくしておく」
「お願いします」
服部様は、渋々といった様子ではあったが、膝を伸ばしたまま布団に戻った。
その様子を見ていた斯波様が、静かに言った。
「お琴殿は、よく見ておられる」
琴は、そちらへ目を向けた。
斯波様は布団の上に座り、書を膝の上に置いていた。
腕の傷は、かなり塞がってきている。
頬の傷も浅くなった。
足の傷も、最初ほど痛まないようだった。
けれど、昨日、斯波様が立ち上がる時、一瞬だけ重心を片足に寄せたのを琴は見ていた。
「斯波様もです」
「私も?」
「昨日、立たれた時、右足を庇われました」
斯波様が、少しだけ目を見開いた。
「見ていたのですか」
「はい」
琴は頷いた。
「足の傷は塞がってきています。でも、まだ長く立つのは早いと思います。腕も、槍を握るにはまだ早いです」
斯波様は、ゆっくりと自分の腕を見た。
「槍を握るには、ですか」
「はい」
「私は何も言っていませんが」
「考えておられたのでは?」
琴がそう言うと、斯波様は少しだけ黙った。
そして、困ったように笑った。
「お琴殿には、敵いませんね」
琴は、思わず頬が熱くなるのを感じた。
「い、いえ。そのような」
「本当に、よく見ておられる」
「毎日、見ていますので」
言ってから、琴はさらに恥ずかしくなった。
毎日見ている。
兄上だけではない。
柴田様の肩も。
斯波様の腕と足も。
服部様の膝も。
布を替える時、於光様や家人たちの手伝いをしながら、自然と覚えてしまった。
昨日より赤みがあるか。
熱を持っていないか。
腫れは引いているか。
痛みを隠していないか。
誰がどの時に顔をしかめたか。
誰がどの動きを避けているか。
琴は、ただ兄上が心配で見ていた。
けれど、気づけば、四人全員の傷を見ていた。
それは、兄上を生かして帰してくれた人たちだからだ。
兄上の隣にいてくれた人たちだからだ。
ちゃんと治ってほしい。
そう思っていた。
「兄上」
琴は、兄の方へ向き直った。
「指を出してください。布を替えます」
兄は大人しく手を出した。
この十五日で、兄上は手当ての時だけは本当に素直になった。
最初は、それすら驚いた。
今は少しだけ慣れた。
琴は、布をほどく。
噛み傷は、ずいぶん落ち着いてきた。
最初は赤く、熱もあり、見るだけで胸が痛くなる傷だった。
今は腫れが引き、熱もない。
膿もない。
それでも、まだ油断はできない。
藤の方様が何度も言っていた。
人の口は汚い。
噛み傷は怖い。
よくなっているように見えても、急に悪くなることがある。
だから見る。
毎日見る。
昨日と比べる。
一昨日と比べる。
「良くなっています」
琴が言うと、兄は少しだけ頷いた。
「なら、そろそろ」
「駄目です」
「まだ何も言っていない」
「動こうとしました」
「……琴」
「兄上は、考えていることが顔に出ないようで、こういう時だけ分かりやすいです」
服部様が吹き出した。
斯波様も口元を押さえた。
兄上は、少しだけ困ったように目を伏せる。
「兄上の指は、確かに良くなっています。でも、噛み傷は怖いと藤の方様が仰っていました。私もそう思います」
「琴が、そう思うのか」
「はい」
琴は兄をまっすぐ見た。
「だから、もう少し大人しくしてください」
兄は、少しだけ間を置いた。
それから、静かに頷いた。
「分かった」
琴は、ほっと息を吐く。
その時だった。
襖の向こうで、衣擦れの音がした。
琴が振り返る。
襖が開き、そこに藤の方様がいらした。
今日も、きちんと打掛を羽織っている。
産後から十五日。
まだ本調子ではないはずなのに、髪は整えられ、背筋は伸び、姿勢に乱れはない。
色は淡いが、質のよい打掛だった。
派手ではない。
だが、ひどく品がある。
そして、やはり怖い。
怒っているわけではない。
だが、そこにいるだけで、この部屋の者たちが背筋を伸ばす。
藤の方様は、琴を見て、静かに微笑んだ。
「お琴さん」
「はい」
「よく見ていますね」
琴は、思わず背筋を伸ばした。
「いえ、私は」
「私に叱られるから止めるのではなく、その方の傷が悪くなるから止める。お琴さん、それはとても大事なことです」
琴は、何も言えなくなった。
見られていた。
自分が四人を止めていたところも。
傷の状態を言ったところも。
兄上の指を確かめていたところも。
藤の方様は、すべて見ていたのだ。
「怖かったでしょう」
藤の方様が言った。
琴は、少しだけ目を見開く。
「怖い、ですか」
「はい。柴田様を止めるのも、服部様を止めるのも、斯波様に申し上げるのも、新介殿の指を見るのも。怖かったでしょう」
琴は、言葉に詰まった。
怖かった。
本当は怖かった。
相手は、桶狭間で功を立てた方々である。
柴田様は、鬼柴田と呼ばれる武将。
斯波様は、守護家の名を持ち、信長様の道を開いた若武者。
服部様は、今川義元へ一番槍をつけた方。
兄上だって、義元を討ち取った人だ。
琴が口を出してよい人たちではない。
本来なら、そう思う。
けれど。
「……怖かったです」
琴は小さく答えた。
「でも、傷が悪くなる方が、もっと怖かったのです」
藤の方様の目が、少しだけ柔らかくなった。
「そうですね」
「はい」
「その怖さを、忘れないでください」
琴は顔を上げた。
藤の方様は、部屋に並ぶ四人を見た。
「怪我人は、すぐ自分の傷を軽く見ます。動けるから大丈夫だと言います。歩けるから大丈夫だと言います。痛みを隠します。食事を残します。眠れていないのに眠ったと言います」
服部様が目を逸らした。
兄上も少しだけ目を伏せた。
斯波様は静かに姿勢を正した。
柴田様は無言だった。
藤の方様は、続ける。
「だから、見る者が必要です。昨日と今日で違うところを見つける者。熱があるか、腫れているか、痛みを隠しているか、布がずれているか、食事を残していないか。そういう小さな変化を見る者が」
藤の方様は、琴へ視線を戻した。
「お琴さんは、それができます」
琴は息を呑んだ。
「私が、ですか」
「はい」
「私は、兄上が心配で見ていただけで」
「最初は、それでよいのです」
藤の方様は、きっぱりと言った。
「誰かを心配するから、見るのです。見ているうちに、気づくようになります。気づいたなら、次は残します」
「残す……?」
「記録です」
琴は瞬きをした。
「記録、ですか」
「はい。赤み、腫れ、熱、痛み。昨日と今日でどう違うか。覚えているだけではなく、書いて残します」
琴は、思わず兄上を見た。
兄上も、少しだけ驚いたように藤の方様を見ている。
服部様が小さく呟いた。
「手当てにも帳面があるのか」
藤の方様が、服部様を見る。
「あります」
服部様は即座に黙った。
藤の方様は、琴へ向き直る。
「お琴さん。今日から布替えの記録をつけてみますか」
「私に、できますでしょうか」
「できます」
藤の方様の声は、迷いがなかった。
「お琴さんは、見ています。なら、次は残すことを覚えましょう」
琴の胸が、少し熱くなった。
ただ兄が心配で走ってきただけだった。
泣きながら手を洗い、兄が思ったより元気でへたり込んだだけだった。
兄の指が悪くならないように、必死で見ていただけだった。
それなのに、今、藤の方様は自分に役目をくれようとしている。
「……はい」
琴は、深く頭を下げた。
「教えてください」
藤の方様は、満足そうに頷いた。
「では、まず新介殿の指から」
兄上が静かに言った。
「私の傷で教えるのですか」
「はい」
藤の方様は、にこりと笑った。
「お兄様ですから、お琴さんも真剣に覚えるでしょう?」
兄上は何も言えなかった。
服部様が笑いを堪え、斯波様が目を伏せる。
柴田様は、低く呟いた。
「よいことだ」
琴は、布を手に取った。
兄上の指を見る。
昨日より良い。
でも、まだ治りきってはいない。
赤み。
腫れ。
熱。
痛み。
布を替える時の兄上の顔。
そういう変化を、これからは書き残す。
藤の方様の目に止まったのだと気づいて、琴は少しだけ緊張した。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
兄を守るためのことなら。
そして、この部屋にいる人たちをちゃんと治すためのことなら。
覚えたいと思った。
「まず、日付を書きます」
藤の方様が、於光様に目配せをする。
すぐに、小さな板と紙と筆が用意された。
「誰の傷か。どこを見たか。昨日と違うか。熱はあるか。痛みはどうか。本人がどう言ったか。見た者がどう感じたか」
琴は、真剣に聞いた。
「本人がどう言ったか、と、見た者がどう感じたかは、分けるのですか?」
「分けます」
藤の方様は頷いた。
「本人が痛くないと言っても、顔をしかめることがあります。痛いと言っても、傷そのものは良くなっていることもあります。言葉と、見るもの。両方残します」
琴は、はっとした。
兄上は、痛くないと言う。
でも、布を替える時に、ほんの少し指が強張ることがある。
服部様は、平気そうに笑う。
でも、膝を動かす時、無意識に息を止めることがある。
斯波様は、静かにしている。
でも、立つ時に足を庇う。
柴田様は、痛まぬと言う。
でも、肩を動かす時だけ目がわずかに細くなる。
それを、分けて書く。
本人の言葉と、自分が見たものを。
「……分かりました」
琴は、筆を取った。
手が少し震える。
藤の方様は、それを見て静かに言った。
「上手な字でなくてよいのです。後で見て分かればよい」
「はい」
「続けることが大事です」
「はい」
琴は、兄上の指について書き始めた。
新介殿。
指。
赤み、昨日より薄い。
熱なし。
痛み、あり。
本人、痛みはあると言う。
布を替える時、わずかに指が強張る。
そう書くと、藤の方様が隣で頷いた。
「よく見ています」
琴は、胸の奥が少し温かくなった。
兄上も、静かにその記録を見ていた。
「琴」
「何ですか」
「字が丁寧だ」
「兄上の傷ですから」
「そうか」
兄上は、それだけ言って黙った。
けれど、目元が少しだけ柔らかかった。
次は服部様の膝。
服部様は少し嫌そうな顔をした。
「俺も書かれるのか」
「はい」
琴は頷いた。
「服部様の膝も大事です」
「逃げ場がない」
「逃げないでください」
「はい」
服部様は大人しく膝を見せた。
琴は、膝の周囲を見て記録する。
腫れ、かなり引いた。
ただし、昨日より少し熱あり。
本人、少し曲げたと白状。
痛み、少し。
藤の方様が、その文字を見て微笑む。
「白状、と書くのですね」
琴は、はっとした。
「す、すみません」
服部様が吹き出した。
「いや、合っている。白状した」
兄上が静かに言う。
「正確だ」
斯波様も頷く。
「記録として分かりやすい」
琴は顔を赤くした。
藤の方様は、楽しそうに目を細める。
「そのままでよいでしょう」
「よいのですか」
「後で読んで状況が分かりますから」
服部様は天井を見た。
「俺の膝の記録に、白状と残るのか」
兄上が言った。
「自業自得だ」
「新介、お前本当に容赦ないな」
「事実だ」
その言葉に、部屋に小さな笑いが起きた。
次は斯波様の腕と足。
琴は、少し緊張した。
斯波様は、静かに腕を差し出してくださった。
「お願いします」
「はい」
琴は、布を見た。
赤みは薄い。
傷は塞がってきている。
だが、腕を動かす時、まだ少し硬い。
足は、立つ時に庇っている。
琴はそれを書いた。
斯波様。
腕、塞がってきている。
熱なし。
動き、少し硬い。
足、立つ時に右を庇う。
本人、痛いと言う。
槍はまだ早い。
書いてから、琴は自分で「槍はまだ早い」と書いたことに気づき、少し慌てた。
「すみません、余計なことを」
斯波様は、記録を見て小さく笑った。
「いえ。正しいです」
「ですが」
「槍は、まだ早いのでしょう?」
琴は、少し迷ってから頷いた。
「はい」
「なら、書いておいてください」
斯波様は穏やかに言った。
「私が忘れぬように」
その言葉に、琴は少しだけ胸が高鳴った。
忘れぬように。
自分の書いたものが、この方の無理を止めるものになる。
それは、怖くもあり、誇らしくもあった。
最後に、柴田様の肩。
琴は、かなり緊張した。
柴田様は無言で肩を出した。
於光様が布をほどく。
傷は塞がってきている。
だが、肩を上げる動きはまだ硬い。
琴は、慎重に記録した。
柴田様。
肩、塞がってきている。
熱なし。
動き、硬い。
本人、痛まぬと言ったが、のち少しと言い直す。
藤七丸様を抱くには、まだ無理は禁物。
書いた瞬間、部屋が静まった。
琴は、筆を持ったまま固まった。
書きすぎた。
絶対に書きすぎた。
柴田様を前に、何を書いているのだ、自分は。
しかし、藤の方様は記録を覗き込み、満足そうに頷いた。
「よろしいです」
「よろしいのですか」
「はい。とてもよいです」
柴田様は、記録を見た。
そして、低く言った。
「藤七丸を抱くには、か」
琴は震えながら頭を下げる。
「も、申し訳ございません」
「謝ることではない」
柴田様は、短く言った。
「正しい」
琴は、ゆっくり顔を上げた。
柴田様は、それ以上何も言わなかった。
けれど、怒ってはいなかった。
藤の方様は、少しだけ嬉しそうだった。
「お琴さん」
「はい」
「明日からも、お願いできますか」
琴は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「はい」
「兄上だけでなく、皆様の分も」
「はい。私でよろしければ」
「もちろんです」
藤の方様は、はっきりと言った。
「お琴さんがよいのです」
その言葉で、琴は息を呑んだ。
お琴さんがよい。
そんなふうに言われたことは、あまりなかった。
琴は兄の妹である。
毛利新介の妹。
それが、自分の立場だった。
兄上がいて、兄上を心配して、兄上に置いていかれないように必死でいる。
それだけだった。
けれど今、藤の方様は琴自身を見てくれている。
兄の妹としてだけではなく。
怪我人を見て、記録し、止めることのできる者として。
琴は、深く頭を下げた。
「務めます」
兄上が、静かに琴を見ていた。
その目が、少しだけ誇らしそうに見えたのは、琴の気のせいではないと思いたかった。
その日の午後。
療養部屋では、新しい決まりができた。
琴が傷の記録をつけること。
四人は、痛みや違和感を隠さず言うこと。
布を勝手に外さないこと。
勝手に歩かないこと。
勝手に槍を握らないこと。
勝手に藤七丸様を抱きに行かないこと。
最後の一つだけ、柴田様のための決まりだった。
「それは、某だけではないか」
柴田様が低く言う。
藤の方様は、にこりと微笑んだ。
「はい」
「……うむ」
柴田様は、それ以上言わなかった。
服部様が小声で呟く。
「完全に負けている」
兄上が答える。
「藤七丸殿が関わると、勝家殿は弱い」
斯波様が言う。
「叔母上が一番強い」
琴は筆を置きながら、そのやり取りを聞いていた。
この部屋は、本当に不思議だ。
鬼柴田が布団にいて。
斯波様が兵法書を読み。
服部様が膝を動かそうとして怒られ。
兄上が指を見られて大人しくし。
藤の方様が打掛姿で部屋全体を支配している。
そして琴は、なぜかその真ん中で、傷の記録をつけている。
少し前の自分なら、想像もできなかった。
けれど、今は思う。
兄がここにいる。
生きている。
そして、自分にもできることがある。
それだけで、十分だった。
夕方になり、部屋の外が少し涼しくなった頃。
琴は、今日の記録をもう一度見直していた。
新介殿、指。
服部様、膝。
斯波様、腕と足。
柴田様、肩。
拙い文字だ。
けれど、そこには確かに今日の四人が残っている。
昨日より良くなったところ。
まだ危ないところ。
本人が隠そうとしたところ。
琴が見つけたところ。
「お琴殿」
声をかけられて、琴は顔を上げた。
斯波様だった。
「はい」
「ありがとうございます」
「え?」
「私たちの傷を、見てくださって」
琴は慌てた。
「そ、そんな。私は、藤の方様に教えていただいているだけで」
「それでも、助かっています」
斯波様は、穏やかに言った。
「私たちは、自分の傷を軽く見ます。お琴殿のように見てくださる方がいるのは、ありがたいことです」
琴は、返事に困った。
胸が温かくなる。
けれど、顔も熱い。
「……私は、兄上が心配で」
「はい」
「でも、皆様にも、ちゃんと治っていただきたいのです」
「はい」
「兄上を、生きて帰してくださった方々ですから」
斯波様は、少しだけ目を伏せた。
それから、静かに言った。
「ならば、ちゃんと治します」
琴は顔を上げた。
「本当ですか」
「はい」
「槍はまだ早いです」
「記録に書かれてしまいましたからね」
斯波様は少し笑った。
琴も、つられて少しだけ笑った。
その様子を、兄上が静かに見ていた。
服部様は、にやりとしかけた。
だが、ちょうどそこへ藤の方様の視線が飛んできたため、服部様はすぐに真顔になった。
療養部屋は、今日も平和だった。
いや。
平和というには、少し見張りが厳しすぎた。
それでも、琴は思う。
この厳しさは、命を守るためのものだ。
生きて帰ってきた人たちを、ちゃんと生かし続けるためのものだ。
だから、自分もその一部になりたい。
兄上を守るために。
この部屋の人たちを、ちゃんと治すために。
琴は、筆を握り直した。
明日もまた、見る。
赤みを。
腫れを。
熱を。
痛みを。
そして、無理をしようとする顔を。
藤の方様の療養部屋は、今日も無事に包囲を続けている。
その包囲の中に、琴もいつの間にか加わっていた。