作品タイトル不明
第十七話 兄に会うには手を洗ってから
毛利琴は、兄から届いた文を握りしめていた。
何度読み返しても、そこに書かれている言葉は変わらない。
『柴田邸にて療養することになった。
傷が癒え次第、戻る。
心配は要らぬ。
新介』
短い。
短すぎる。
心配は要らぬ。
そう書かれている時点で、心配しかなかった。
「兄上の、馬鹿……」
琴は、震える手で文を握った。
兄は昔からそうだった。
自分のことを、軽く扱う。
痛いとも言わない。
苦しいとも言わない。
大きな怪我をしても、平然とした顔で「少し切った」と言う。
熱があっても「問題ない」と言う。
問題がないわけがない。
琴には、もう兄しかいなかった。
父も母もいない。
家と呼べるものはあっても、琴にとって本当に頼れる家族は、兄の新介だけだった。
その兄から届いた文が、これである。
療養することになった。
傷が癒え次第、戻る。
心配は要らぬ。
心配しかない。
「療養って……どれほどの傷なのですか……」
指を怪我したのか。
腕を斬られたのか。
腹を刺されたのか。
それとも、動けぬほどなのか。
傷の具合も、どこを傷めたのかも、何一つ書かれていない。
兄は、たとえ死にかけていても「少し傷を負った」と書く人だ。
あり得る。
本当にあり得る。
琴の頭の中で、最悪の想像が次々に膨らんでいく。
兄が青ざめて寝ている姿。
熱に浮かされている姿。
布団の上で、もう起き上がれない姿。
もう家へ戻せぬほど悪いのではないか。
最期に妹へ会わせるために、柴田邸へ呼ばれたのではないか。
そこまで考えた瞬間、琴は立ち上がっていた。
文を懐に入れ、最低限の身支度だけをする。
家の者に何か言われた気もしたが、よく覚えていない。
ただ、走った。
柴田邸へ。
兄がいるという屋敷へ。
道中、何度も文を握りしめた。
何度も、兄上、兄上、と心の中で呼んだ。
どうか無事でいて。
どうか、私を置いて行かないで。
そう祈りながら、琴は柴田邸の門へ飛び込んだ。
「毛利新介の妹です!」
息が切れていた。
声も震えていた。
門番が驚いてこちらを見る。
「兄に、兄に会わせてください! 兄上は、兄上は無事なのですか!?」
門番は、一瞬目を丸くした。
それから、すぐに表情を改める。
「毛利様の妹君にございますか」
「はい!」
「新介様は奥にて療養中にございます」
療養中。
その言葉で、琴の心臓が冷えた。
「やはり、悪いのですか」
「いえ、命に別状は」
「命に別状は、ということは、命以外には別状があるのですか!?」
門番が困った顔をした。
「い、いえ、その」
「兄上はどこですか!?」
琴は門番に詰め寄った。
その時、屋敷の奥から若い家人が駆けてきた。
「毛利様の妹君ですね!」
「はい!」
「では、まず手を洗ってください!」
琴は固まった。
「……手?」
「はい!」
若い家人は、真剣な顔で言った。
「新介様にお会いになるなら、まず手を洗ってください。煮た湯を冷ましたものを用意しております。爪の間までお願いいたします」
琴の視界が揺れた。
手を洗う。
爪の間まで。
そこまで清めなければ会わせられないほど、兄は悪いのか。
傷が膿んでいるのか。
熱があるのか。
それとも、もう弱っていて、外から病を持ち込めないのか。
「そんなに……」
琴の声が震えた。
「そんなに兄は、悪いのですか……?」
若い家人が慌てる。
「いえ、そういうわけでは」
「では、なぜ手を」
「我らが藤の方様に叱られますので!」
「藤の方様……?」
聞き慣れない言葉に、琴は瞬きをした。
柴田のお藤の方。
その名なら、琴も聞いたことがある。
鬼柴田の妻。
桶狭間の折、子を産んだばかりだという柴田勝家様の奥方。
だが、今は考える余裕がなかった。
案内された水場には、すでに湯と布が用意されていた。
一度煮た湯を、ほどよく冷ましたものだという。
「こちらでお願いいたします」
「はい……」
琴は言われるがままに手を洗った。
指の間。
爪の間。
手首まで。
家人が真剣に見ている。
その様子が、余計に恐ろしかった。
「兄上……」
涙が滲む。
手を洗いながら、琴はもう最悪の想像しかできなかった。
兄は、どれほどの状態なのだろう。
指を噛まれたと聞いた。
けれど、噛み傷だけで済むはずがない。
戦場から戻り、柴田邸で療養し、妹に短い文だけ送る。
兄ならば、本当に死にかけでもそうする。
「兄上の、馬鹿……」
「え?」
「何でもありません……」
手を洗い終えると、清潔な布で拭かされた。
そこまで済んで、ようやく奥へ通される。
琴は文を握りしめたまま、廊下を進んだ。
足が震える。
息がうまく吸えない。
奥から、かすかに人の声が聞こえた。
男たちの声。
その中に、聞き慣れた声がある。
兄の声。
琴は顔を上げた。
声がする。
ちゃんと、声がする。
けれど、まだ安心できない。
弱々しい声かもしれない。
熱に浮かされた声かもしれない。
琴は案内役が襖を開けるのを待ちきれず、ほとんど飛び込むように部屋へ入った。
「兄上!」
部屋の中には、布団が並んでいた。
四つ。
その一つに、兄がいた。
毛利新介。
布団の上に、座っていた。
顔色は悪くない。
背筋も伸びている。
指には布が巻かれているが、それ以外は思ったよりずっと元気そうだった。
しかも。
兄は、隣の布団に座る斯波様と、兵法書を広げていた。
「……琴?」
兄が顔を上げた。
いつもの落ち着いた顔で。
琴は、その顔を見た瞬間、力が抜けた。
その場に、へたり込む。
「琴」
新介が少しだけ慌てた声を出す。
珍しい。
兄が慌てている。
けれど、琴はそれどころではなかった。
「兄上……」
涙が溢れた。
「死にかけでは……ないのですか……?」
部屋の中が、一瞬静まり返った。
新介は、少しだけ目を瞬かせた。
「死にかけてはいない」
「では、なぜ療養などと!」
「療養が必要だからだ」
「そういう書き方をするから、死にかけだと思ったのです!」
琴は、文を取り出して兄へ突きつけた。
涙で視界が滲む。
「柴田邸にて療養することになった。傷が癒え次第、戻る。心配は要らぬ。こんな文を送られて、心配しない妹がどこにいるのですか!」
新介は、しばし沈黙した。
それから、静かに言った。
「すまない」
「謝るくらいなら、もっと詳しく書いてください!」
「次からそうする」
「次があるような怪我をしないでください!」
「それは難しい」
「兄上!」
新介は少し困った顔をした。
本当に少しだけ。
琴はそれを見て、また涙が出た。
兄は生きている。
思ったより元気だ。
座って、兵法書まで読んでいた。
その事実が、安心と怒りを同時に連れてきた。
「兄上の馬鹿……」
「すまない」
「本当に、馬鹿です……」
「そうか」
「そうです!」
その時、隣から控えめな声がした。
「新介殿は無事です」
琴は顔を上げた。
そこにいらしたのは、斯波様だった。
兄が文で何度か名を出していた若武者。
戦場で道を見た方。
兄と服部様と共に、今川義元へ届いた方。
斯波様は布団の上に座っておられた。
腕には布。
足にも傷の手当て。
頬にも薄い傷。
それでも、穏やかな目で琴を見ていた。
「指の傷は、藤の方様が見てくださっています。煮た湯で洗い、布も替えています。熱も、今のところありません」
「藤の方様が……」
「はい」
斯波様は静かに頷いた。
「心配されるのは当然です。ですが、新介殿はきちんと手当てを受けています。どうか、ご安心ください」
その言葉で、琴はまた泣きそうになった。
いや、もう泣いている。
泣きながら、琴は深く頭を下げた。
「兄を……兄を連れて帰ってくださって、ありがとうございます」
斯波様は少し目を見開いた。
「私が連れて帰ったわけではありません。新介殿は、自分で帰ってきました」
琴は首を横に振る。
「兄は、自分のことを軽く扱います」
新介がわずかに視線を逸らした。
図星だった。
「きっと一人なら、療養などしません。指の傷も、自分で布を巻いて終わりにしたと思います。でも、今ここにいて、手当てを受けて、布団にいてくれる。それは、皆様がいてくださったからです」
琴は、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございます」
斯波様は、返答に困ったように兄を見た。
兄は静かに言った。
「琴、頭を上げなさい」
「嫌です」
「嫌なのか」
「兄上がちゃんと治るまで、私は嫌です」
「何が嫌なのか分からない」
「私にも分かりません!」
部屋の隅から、吹き出すような声が聞こえた。
琴は、はっとしてそちらを見る。
そこには、服部小平太様が布団の上で膝を伸ばしておられた。
膝にはしっかりと布が巻かれている。
服部様は笑いを堪えながら言った。
「新介、お前の妹、なかなか強いな」
新介は淡々と返す。
「私の妹だ」
「それで説明になるのか」
「なる」
琴は、服部様を見た。
そして、その向こうにもう一人、恐ろしく大きな方が布団に入っておられることに気づいた。
柴田勝家様だった。
鬼柴田。
兄が療養している屋敷の主。
岡部元信を討った武将。
その方が、布団に入っている。
肩に布を巻き、険しい顔をして、しかし大人しく布団の中にいる。
琴は混乱した。
なぜ。
なぜ、兄と斯波様と服部様と柴田様が、同じ部屋で布団を並べているのか。
「……兄上」
「何だ」
「なぜ、柴田様と、斯波様と、服部様と、兄上が、同じ部屋で布団を並べておられるのですか」
新介は、少し考えた。
「療養だからだ」
「療養とは、こういうものなのですか?」
「この屋敷では、そうらしい」
琴は、ますます分からなくなった。
服部様が横から言う。
「俺もよく分からん」
斯波様が静かに言った。
「慣れろ」
「斯波様は、なぜそんなに諦めた顔をしておられるのですか」
琴が思わず聞くと、斯波様は遠い目をした。
「経験です」
「経験……」
「藤の方様の療養からは、逃げられません」
「逃げる必要があるのですか?」
「時と場合によっては」
その瞬間、襖の向こうから声がした。
「義銀?」
斯波様の背筋が伸びた。
服部様が布団の中で固まる。
兄も兵法書を閉じた。
柴田様まで、ほんのわずかに姿勢を正した。
琴は、目を丸くした。
何が起きたのか分からない。
襖が開き、そこに女性がいらした。
産後間もないはずだった。
けれど、その方はきちんと打掛を羽織り、髪も整え、背筋を伸ばして座しておられた。
顔色はまだ白い。
疲れがないわけではない。
それでも、身なりに乱れはなく、姿勢も崩れていない。
柔らかな色の打掛が、かえってその場の空気を引き締めていた。
綺麗だった。
とても綺麗だった。
そして、怖かった。
怒鳴っているわけでもない。
睨んでいるわけでもない。
ただ、整った姿でそこにいるだけで、部屋の者たちが背筋を伸ばす。
この方が、柴田のお藤の方様。
鬼柴田の妻。
琴は慌てて頭を下げた。
「毛利新介の妹、琴にございます。突然押しかけ、申し訳ございません」
藤の方様は、柔らかく微笑んだ。
「お琴さんですね」
「はい」
「来てくださってありがとうございます。新介殿は、ちゃんと療養しています」
ちゃんと。
その言葉に、兄が少しだけ目を伏せた。
藤の方様は、兄を見る。
「新介殿」
「はい」
「妹さんへの文は、もう少し詳しく書きましょう」
琴は、はっと顔を上げた。
藤の方様は、にこりと笑っている。
しかし、その声には妙な力があった。
「療養することになった。傷が癒え次第、戻る。心配は要らぬ。これでは、お琴さんが心配します」
新介は、静かに頭を下げた。
「以後、気をつけます」
「よろしいです」
琴は、ぽかんとした。
兄が、素直に従っている。
兄が。
あの兄が。
家でも、琴が何を言っても「問題ない」で済ませる兄が。
「兄上……」
「何だ」
「素直ですね」
「藤の方様の言葉は理に適っている」
「私が同じことを言っても聞かなかったのに」
「琴は泣きながら怒るからだ」
「泣かせる兄上が悪いのです!」
服部様がまた笑いを堪えた。
斯波様は口元を押さえている。
新介は少しだけ困った顔をした。
藤の方様は、その様子を見て、少し表情を和らげた。
「お琴さん」
「はい」
「新介殿の指の傷は、油断はできません。でも、すぐに命に関わるようなものではありません。きちんと洗って、清潔な布を巻いて、熱が出ないか見ています」
「……はい」
「だから、大丈夫です」
その言葉で、琴の肩から力が抜けた。
大丈夫。
兄本人が言う大丈夫は信用ならない。
でも、藤の方様の言う大丈夫は、不思議と信じられた。
この人は、傷を軽く扱わない。
心配を大げさだと笑わない。
だからこそ、安心できた。
「ありがとうございます……」
琴は、また涙をこぼした。
藤の方様は、少し困ったように微笑む。
「泣かせてしまいました」
「違います。安心したら、力が抜けてしまって」
「それなら、よかった」
藤の方様は、部屋にいる四人を見た。
「皆様も、ちゃんとお琴さんを安心させてくださいね」
「はい」
斯波様が答える。
「承知しました」
兄が答える。
「……はい」
服部様も答える。
「うむ」
柴田様も答えた。
琴は、さらに混乱した。
なぜ、柴田勝家様まで返事をしておられるのか。
藤の方様は、やはりただ者ではない。
その時、奥から小さな泣き声がした。
赤子の声だった。
藤の方様の顔が、ふっと柔らかくなる。
柴田様が反射的に起き上がりかけた。
しかし、藤の方様の視線が向いた瞬間、柴田様は途中で止まった。
そして、静かに布団へ戻る。
琴は、信じられないものを見た。
鬼柴田が。
赤子の泣き声で起きようとして。
妻の目で止まり。
布団へ戻った。
服部様が小声で言う。
「何度見てもすごいな」
兄が静かに答える。
「藤の方様の統率力だ」
斯波様が呟く。
「生存本能とも言う」
琴は、思わず口元を押さえた。
笑っていいのか、いけないのか分からなかった。
藤の方様は奥を気にしながらも、琴へ視線を戻す。
「お琴さん。よければ、しばらくこちらにいらっしゃいますか」
「え?」
「新介殿の傷の具合も見られますし、お兄様が大人しく療養しているか、妹さんの目で見張っていただけると助かります」
新介が顔を上げた。
「藤の方様」
「何でしょう」
「琴にまで見張らせるのですか」
「はい」
即答だった。
「新介殿は、自分の傷を軽く扱いそうなので」
新介は何も言えなかった。
琴は、涙を拭った。
それから、少しだけ背筋を伸ばす。
「私でよろしければ、見張ります」
「琴」
「兄上は信用できません」
「私は兄だが」
「怪我に関しては信用できません」
新介は黙った。
藤の方様は満足そうに頷く。
「では、お願いできますか」
「はい」
琴は、兄の指を見る。
布に包まれた指。
生きている兄。
布団にいてくれる兄。
そして、なぜか隣に並ぶ、柴田様、斯波様、服部様。
状況はまだよく分からない。
本当によく分からない。
だが、一つだけ分かった。
この屋敷では、怪我人は逃げられない。
藤の方様の目からも。
屋敷の者たちの手からも。
そして、妹の目からも。
琴は、文をそっと握りしめた。
もう、あの短すぎる文だけで不安に震える必要はない。
兄はここにいる。
生きている。
布団にいる。
少し変な状況ではあるけれど。
琴は、深く息を吐いた。
「兄上」
「何だ」
「本当に、無事でよかったです」
新介は、しばらく琴を見ていた。
それから、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「心配をかけた」
「本当にです」
「すまない」
「次から文は詳しく」
「分かった」
「怪我を軽く書かないでください」
「努力する」
「努力ではなく、約束してください」
新介は、少し考えた。
それから言った。
「約束する」
琴は、ようやく笑った。
涙でぐしゃぐしゃの顔だったけれど、笑えた。
その笑顔を、斯波様が静かに見ていた。
兄がそれに気づいたのか、斯波様へ目を向ける。
斯波様は少しだけ慌てたように視線を逸らした。
服部様は、それを見てにやりと笑いかけた。
だが、藤の方様の視線が服部様へ向いた瞬間、彼はすぐに真顔に戻った。
柴田邸の療養部屋は、今日も平和だった。
いや。
平和というには、少し緊張感がありすぎた。
けれど、琴にとっては。
兄が生きていて、布団にいて、ちゃんと手当てを受けている。
それだけで、十分すぎるほどありがたかった。