作品タイトル不明
レオン 1
最初にエリーを見た瞬間のことを、俺はたぶん一生忘れない。
王都の一角。
石畳の広い通りに面した屋敷の前で、俺は思わず足を止めていた。
「本当にここか?」
見上げた先には、地方ではまず見ない規模の屋敷がある。
白い壁、手入れされた庭。
正面扉に立つ使用人。
これ、貴族の本邸じゃないのか。
そう思った俺の横で、おじが鼻を鳴らした。
「何を固まってる。入るぞ」
「いや……人が住む家に見えなくてな」
「田舎者丸出しだな」
「実際、田舎者なんだが」
そう返すと、おじは呆れた顔をした。
遠縁。
本当の伯父ではない。
だが「おじと呼べ」と言われているので、そう呼んでいる。
王都で働くようになってから、何かと世話になっている人だ。
そのおじに連れられて、今日ここへ来た。
婚約者候補に会わせる、と。
正直、気が重かった。
どうせ王都の令嬢だ。
地方育ちの俺を見て、内心ではがっかりするだろう。
それなら最初から断られたほうが楽だと思っていた。
そんなことを考えながら応接間へ通されて――
俺は、言葉を失った。
窓際に、一人の女性が立っていた。
柔らかな光が、淡い髪を透かしている。
静かで、綺麗で、けれど近寄りがたい冷たさはない。
むしろ、高貴で可愛い聖母みたいだと思った。
なのに、目が合った瞬間。
その人は少しだけ困ったように笑った。
「はじめまして、エリーです」
声まで柔らかかった。
あ、駄目だ。一目で、好きだと思った。
同時に理解した。
釣り合わない。
こんな人の隣に立てる男じゃない。
俺は地方領主の補佐官として働いてきた。
仕事には誇りがある。
それなりに成果も出してきた。
だが、王都の社交なんて知らない。
流行も知らない。
言葉遣いも洗練されていない。
服だって、地方で「きちんとしている」と言われる程度だ。
この人の隣に並んだら、笑われる。
そう思った。
だから最初に、逃げ道を作った。
「婚約の話は、気にしないで欲しい」
俺は頭をかきながら言った。
「俺はこういう男だ。王都の付き合い方もわからないし、令嬢相手の振る舞いも知らない」
エリーは静かに聞いている。
その視線が優しくて、余計に情けなくなる。
「だから、嫌なら遠慮なく断ってくれ。嫌なことをしたら、はっきり言って欲しい」
沈黙。
ああ、終わったなと思った。
だが。
「はい」
返ってきた声は穏やかだった。
「では、そうします」
「え?」
「嫌なことがあったら、ちゃんと言います」
エリーは少し笑った。
「だからレオン様も、思ったことはちゃんと話してくださいね」
断られなかった。
それどころか、普通に話しかけてくれた。
笑ってくれた。
それが信じられなかった。
だから努力しようと思った。
せめて。
この人の目に入る場所に立てる男になりたい、と。
最初に変わったのは仕事だった。
王都勤務になってから、俺は誰よりも早く出勤するようになった。
朝の文官棟は静かだ。
窓から差し込む光の中、机に積まれた書類を開く。
中央独特の書式。
根回し。
会議用語。
貴族社会の婉曲表現。
地方では「結論を言え」で済んでいた。
だが王都は違う。
まず相手の顔を立てる。
責任の流れを整理する。
断定を避ける。
正直、面倒だった。
だがエリーは、それを自然にやっている。
なら俺も覚えるしかない。
夜遅くまで書類を読み込み、古参文官の会話を盗み聞きし、知らない単語を書き留める。
地方訛りも直した。
ある日、同期に笑われた。
「お前、最近しゃべり方おかしくないか?」
「そうか?」
「無理して王都風にしてるだろ」
「駄目か?」
「ぎこちないな」
笑われた。
でも、やめなかった。
エリーの隣に立つなら、必要だと思ったからだ。
服装も変えた。
同期に頭を下げた。
「王都で恥をかかない服を教えてくれ」
「お前、急にどうした?」
「必要なんだ」
真顔で言ったら、相手は吹き出した。
「好きな女でもできたか?」
図星すぎて黙った。
「うわ、本当にいるのか」
「うるさい」
「ははっ、なるほどなぁ」
結局、そいつは服屋まで付き合ってくれた。
髪型も理髪師に相談した。
礼儀作法も覚えた。
何度も失敗した。
舞踏会の夜のことを今でも覚えている。
緊張で手のひらが湿っていた。
エリーがいる。
その一点だけを意識しながら、俺はぎこちなくステップを踏んでいた。
踏む。また踏む。危ない。
「レオン様」
エリーが小さく笑った。
「足元より、わたしの目を見てください」
言われた通りにしたら、なぜかうまくいった。
それからは少しだけ、怖くなくなった。
だが、そのたびに覚えた。
エリーの隣で浮かないように。
「婚約者が田舎者でかわいそう」なんて言われないように。
ある日の夜。
仕事帰りの廊下で、偶然エリーと会った。
「レオン様、まだ残っていたんですか?」
「少し仕事を」
「最近、頑張りすぎでは?」
「そうか?」
「前より無理してます」
どきりとした。
エリーはこういうところが鋭い。
誤魔化せない。
「エリー」
「はい?」
「俺は田舎者だからな」
ぽつりと本音が落ちた。
「王都では足りないことが多い」
エリーは静かにこちらを見る。
「あなたは綺麗で、頭も良くて、仕事もできる」
俺は視線を逸らした。
「だから、せめて恥をかかせたくない」
言った瞬間、後悔した。
重い。
格好悪い。
こんなのただの劣等感だ。
だが。
「レオン様」
エリーの声は柔らかかった。
「わたし、初めて会った時から思っていました」
「なにを?」
「真面目な人だなって」
俺は目を瞬いた。
「それに、一番にしてくれる人だなって」
エリーが少し笑う。
「王都風じゃなくても、わたしは今のレオン様が好きですよ」
心臓が止まるかと思った。
好き。
今、好きって言ったか?
頭が真っ白になる。
たぶん、間抜けな顔をしていた。
エリーが慌てる。
「あ、えっと、その、人としてという意味で……」
「いや、十分だ」
「十分?」
「今ので半年は頑張れる」
真顔で返すと、エリーが吹き出した。
廊下に、柔らかな笑い声が響く。
その笑顔を見ながら思った。
もっと頑張ろう。
この人の隣に立てる男になろう。
できればいつか。
その笑顔を、俺だけに向けてくれる日が来るといい。