作品タイトル不明
エリーのその後
文官棟の廊下は、今日も静かだった。
抱えた書類の角が腕に食い込む。
積み上がった紙の重さに、わたしは小さく息を吐いた。
「終わらない……」
思わず漏れた声に、すぐ後ろから低い声が返ってくる。
「それ、第三管理室の追加分か?」
振り返ると、レオン様が立っていた。
父に紹介された遠縁の青年。
一応、婚約者候補。もちろん周囲には秘密だ。
地方領主の補佐官をしていたらしく、今年から研修で王都勤務になったばかりだと言っていた。
背が高くて、真面目そうで、そのぶん、驚くほどあか抜けない。
初めて会った時も、困ったように頭をかきながら、こんなことを言っていた。
『婚約の話は気にしないで欲しい。こんなもっさりした男だ。王都の令嬢との付き合い方もわからないし、王都の流儀もわからない。だから嫌なことがあったら、はっきり言ってくれ』
その時は、変な人だと思った。でも、不思議と嫌ではなかった。
「追加分です」
そう答えると、レオン様はわたしの抱える書類を見て眉を寄せた。
「多くないか?」
「多いですね」
「手伝う」
「レオン様も仕事があるでしょう?」
「ある。でも終わった」
あっさり言う。
わたしは少しだけ瞬きをした。
本当に、この人は変に飾らない。
「では、数字の確認をお願いします」
「はい、確認ですね」
レオン様は素直に椅子へ座った。
それから二人で黙々と作業する。
紙をめくる音。
ペン先が擦れる音。
窓の外から聞こえる鐘。
静かな時間だった。
けれど、不思議と気まずくない。
沈黙が、重くない。
しばらくして、レオン様がふと顔を上げた。
「エリー」
「はい?」
「その書類、間違ってる」
「え?」
慌てて覗き込む。
本当だった。日付が一日ずれている。
「あ……」
わたしは思わず額を押さえた。
「疲れてるな」
「そうかもしれません」
「休んだほうがいい」
「まだ終わってません」
「終わらなくても死なない」
「文官は締切で死ぬんです」
真顔で答えると、レオン様が真剣な顔で黙り込んだ。
そして。
「王都は怖いな……」
本気の声音だった。
わたしは吹き出してしまった。
「なんですか、それ」
「地方役所はここまでじゃなかった」
「中央は魔境です」
「知ってる。来て三日で理解した」
真面目な顔で言うから余計におかしい。
肩が震える。
笑いを堪えきれない。
するとレオン様が、じっとこちらを見ていた。
「なんです?」
「いや」
彼は少しだけ視線を逸らして。
「エリー、きれいだな」
その瞬間、わたしの手が止まった。
胸の奥が、変に熱くなる。
こういうことを言い慣れている感じじゃない。
だから余計に困る。
「あ、ありがとうございます……」
これ、王都風なんだろうか。
それとも地方風なんだろうか。
わからない。
でも、妙に心に残った。
それから数日後。
わたしたちは仕事帰りに食事へ行くことになった。
最近人気のおしゃれな店。
貴族向けというより、若い文官や商人が集まるような場所だ。
席についた途端、レオン様が難しい顔でメニューを見始めた。
「どうしました?」
「量がわからない」
「はい?」
「王都は料理名がおしゃれすぎる」
わたしはまた吹き出した。
「なんですか、それ」
「田舎は焼いた肉は焼いた肉って書いてある」
「ふふっ」
「笑うな。重要な問題だ」
本気で言っている。
そこがもう面白い。
結局、料理はわたしが決めた。
運ばれてきた料理を見て、レオン様は素直に感心した顔をする。
「うまいな」
「でしょう?」
「だが量が少ない」
「王都ですから」
「王都は怖いな……」
またそれを言う。
もう駄目だった。
わたしは声を上げて笑ってしまった。
周囲が少しこちらを見る。
でも、不思議と気にならない。
笑いながら顔を上げると、レオン様が真面目な顔でこちらを見ていた。
「エリー」
「はい?」
「この前、おじに言われた」
「なんと?」
「お前は気が利かないから、絶対に格好つけようとするなって」
「……」
「だから聞く」
レオン様は、まっすぐわたしを見る。
「今日、嫌だったことはあるか?」
わたしは目を丸くした。
そんなことを聞かれたのは初めてだった。
エスコートがどうとか。
店選びがどうとか。
会話が上手いとか。
そういうことを気にする男性はいた。
でも。
わたし自身が嫌だったかどうかを聞かれたのは、初めてだった。
少し考える。
今日のことを思い返す。
仕事帰りで疲れていた。
でも笑った。
楽しかった。
「ありません」
自然に答えていた。
するとレオン様が、ほっとしたように息を吐く。
本当に安心した顔だった。
それがなんだか可笑しくて。
そして少しだけ、胸が温かくなる。
この人となら。
ちゃんと話せるかもしれない。
無理をしなくても。
格好をつけなくても。
ちゃんと隣を歩けるかもしれない。
そう思いながら、わたしは、運ばれて来たデザートにスプーンをつけた。