作品タイトル不明
わたしの従兄。あるいはわたしの王子様
王都の空気は、領地の土の匂いとは違って、どこか甘く、そして残酷なほどに華やかでした。
父は辺境支店での務めを終え、ようやく本家で執務を任されることになったのです。
馬車から降り立ったわたしが見上げた本家の屋敷は、夢に見ていたものよりも、ずっと壮麗でした。
そして、その中心にいた彼はまるでおとぎ話の王子様そのものでした。
安定した大商会の会長の一人息子。
優しく、誰からも慕われる、わたしの理想そのもの。
一族の集まりでは遠くから見つめるしかなかった彼が、今はすぐそばにいるのです。
両親は引き継ぎに追われ、会長夫妻は隣国で起きた急用のため屋敷を空けていました。
そのわずかな空白は、わたしには天から与えられた好機のように思えたのです。
この機会を逃さず、彼を手に入れる、そう決心しました。
「少し都会の空気に当てられたようです」
寝台に横たわり、わたしは弱々しく微笑みました。
駆けつけてくれた彼は、心配そうに眉を下げ、そっと額に手を当てます。
「慣れない場所だと心細いよね。大丈夫、僕がついているから」
彼がそう言ってくれる、その言葉が欲しかった。
体調が戻ると、彼は王都のあちこちへわたしを連れ出してくれました。
街の至る所で彼に声がかかります。
彼はそのたび、少し誇らしげに、それでいてどこか距離を置くような口調でわたしを紹介しました。
「従妹なんだ。ずっと辺境にいたから、会うのは久しぶりでね」
そして、その時、彼女に会いました。
彼の婚約者。
洗練された、美しい女性。
彼女は、わたしの卑屈な視線を真正面から受け止め、それでも聖母のように穏やかに微笑みました。
「お噂はかねがね。不慣れな王都で困ったことがあれば、わたくしにも頼ってくださいね」
凛とした彼女の言葉に、わたしは頭を下げることしかできませんでした。
胸に広がったのは、どうしようもない敗北感。
けれど、その感情こそが、わたしを突き動かしたのです。
鏡の前でリボンを結んでいた時、ふと思い出しました。
彼女の美しい髪を飾っていた、リボンを象った宝石の髪飾り。
あれは、きっと彼から贈られたものなのでしょう。
「邪魔をしてしまえばいい」
その思いつきは、リボンを結ぶよりも簡単に形になりました。
彼が彼女と会う約束をしている日に合わせ、具合が悪いと使いを出したのです。
まさか、本当に彼が駆けつけてくれるとは思っていませんでした。
けれど彼は、彼女を置いて、わたしのもとへ来てくれた。
その事実が、わたしをさらに深みへと引きずり込んでいったのです。
「ごめんなさい、呼び出したりして。あの方、怒っているでしょう?」
上目遣いで尋ねるわたしに、彼は困ったように笑いました。
「うん。怒ってるって手紙が来たよ。明後日、また同じ店を予約したよ。機嫌を取らないと」
なら、その約束も壊してしまえばいい。
わたしは同じことを繰り返しました。
彼が彼女を迎えに行く馬車へ、当然のように同乗したことさえあります。
「顔色が悪いわ。今日はもう、お帰りなさい」
彼女は、冷徹なほど冷静でした。
だからこそ、わたしは何度でも、二人の時間を引き裂き続けたのです。
彼は迷いながらも、わたしを選びました。
そして、ついに届いた報せ。
婚約解消。
わたしは、一人で歓声を上げました。
これで彼は、わたしのものになる。
そう信じていました。
けれど彼を待っていたのは、薔薇色の未来ではありませんでした。
「息子に、何をしてくれたんだ」
会長室に呼び出された際、報告を受けた親族たちの視線は、氷よりも冷たかった。
怒りすら通り越し、汚物を見るような呆れの色。
そして隣に立つ彼もまた、わたしが見たこともないほど冷え切った目で、わたしを見下ろしていました。
彼はわたしの願いを断ればよかったのです。
いくらでも断れたはずなのに。
いつも、断る言葉を飲み込んで、代わりに微笑みを返してくれました。
だから、わたしは彼の優しさにつけ込んだ毒婦。
そう呼ばれました。
ここで負けるわけにはいかない。
「わたしだって商会の役に立ちます! 商会長夫人として働けます。母が領地でしていた仕事を、ずっと見てきました!」
必死に叫ぶわたしに、彼の父である会長は吐き捨てるように言いました。
「跡継ぎ? 何を勘違いしている」
その声は、あまりにも冷たかった。
「次代を継ぐのは、留学中の兄の息子だ。兄が若くして亡くなったから、わたしが代わりに継いでいただけにすぎん。知らなかったのか?」
会長の言葉に、頭の中が真っ白になりました。
「こいつは、あちらの家へ婿入りし、両家をつなぐ予定だった。それを、お前が台無しにしたんだ。一族に仇なしたんだ」
彼は、一度もわたしを見ませんでした。
その後、彼の父は、彼を外国へ逃がしました。
わたしは、商会で働くことになりました。
そうです。一族はわたしを見捨てませんでした。
誰の目にも留まらない、片隅の仕事。
華やかな王都の中で、灰に埋もれて行くような日々。
これから先、わたしは、ひとりで、この長い灰色の道を歩いていくのでしょう。