作品タイトル不明
僕の婚約者と病弱な従妹
重たい空気だった。
エリーの屋敷の応接室。
磨き上げられた机。静かに揺れる茶の湯気。
けれど、その場にいる誰一人として、香りを楽しむ余裕など持っていなかった。
僕は背筋を伸ばしたまま座っていた。
向かいにはエリー、その隣に、彼女の両親。
そして、僕の両親。
誰もが静かだった。
静かすぎて、喉が焼けるようだった。
先に口を開いたのは父だった。
父は「この度は、本当に申し訳ない」と深く頭を下げる。
母も同じように頭を下げた。
僕も、遅れて頭を下げる。
「エリー、すまない」
声が思ったより掠れていた。
エリーは穏やかな顔で座っていた。
怒っているようには見えない。
泣いてもいない。
だからなのか、妙に遠かった。
もう、僕の知っているエリーではないような気さえした。
父が低い声で言う。
「今回の件について、我々としても軽く考えているわけではない」
エリーのお父上が答える。
「こちらもです」
短い一言、それだけで十分だった。
空気が重く沈む。
僕は拳を握りしめた。
どうして、こんなことになった。
いや、理由は分かっている。
全部、僕の判断だ。
アリシアを放っておけなかった。
それだけだ。
熱を出したと聞けば駆けつけた。
倒れたと聞けば急いで戻った。
それは当然のことだと思っていた。
身内を見捨てない。
一族を大切にする。
父に教えられてきた通りに動いただけだった。
幼い頃から何度も言われてきたのだ。
『家を背負う者は、身内を切り捨てるな』
商会も、貴族も、人の繋がりで成り立っている。
親族を軽んじる者は、最後には誰からも信用されなくなる。
だから、アリシアを放っておく選択肢はなかった。
王都に来たばかりで、体も弱い。
彼女の両親も、僕の両親も留守にしていた。
なら、僕が面倒を見るしかない。そう思った。
けれど、エリーには違って見えた。
婚約者より、従妹を優先する男。そう見えたのだ。
エリーのお父上が静かに言う。
「婚約者を置いて去った」
胸に重く落ちる声だった。
僕は唇を噛む。
違うんだ。誤解だ。
エリーを軽んじていたわけじゃない。
むしろ逆だった。
エリーには、僕が冷たい男ではないと知って欲しかった。
家族を大切にできる男だと。
一族を守れる男だと。
そういう人間だからこそ、安心して嫁げると思ってもらいたかった。
なのに、全部、逆に伝わってしまった。
沈黙のあと、エリーが口を開いた。
「わたくし、最初は理解しようと思っていたのです」
静かな声だった。責める響きはない。
だから、逃げ場がなかった。
「困っている方を放っておけないのは、美徳だと思います」
僕は顔を上げる。
「でも……婚約者との約束を二度壊してまで優先されると、わたくしは、自分が軽んじられているように感じました」
本当に、そんなつもりではなかった。
「違うんだ」
思わず声が漏れた。
全員の視線が集まる。
「僕は、エリーを軽く見ていたわけじゃない。ただ……」
言葉が詰まる。
一族を大切にする姿を見せたかった。
それを、どう言えば伝わる。
「ちゃんとした男だと思って欲しかったんだ」
ようやく出た言葉は、情けないほど弱かった。
エリーは少しだけ目を伏せた。
「わかっています」
その一言が、余計につらかった。
父が深く息を吐く。
「婚約の件は、白紙に戻す方向で話を進めたい」
頭が真っ白になった。
本当に終わるのか。エリーとの未来が。
あの穏やかな時間が、カフェで笑った顔も。
好きな苺のケーキを嬉しそうに選ぶ姿も。
その時だった。
慌ただしく扉が叩かれる。
「失礼いたします!」
使いの声だ。
「テリウス様! アリシア様が高熱を出されまして……!」
空気が止まる。
使いは息を切らしながら続けた。
「お戻りいただきたいと」
父の眉間に深い溝が刻まれる。エリーの両親の視線は、もはや怒りすら通り越し、憐れむような色を帯びていた。
エリーはゆっくりと瞬きをしていた。
当然だ。
今は婚約破棄の話し合いの最中なのだから。
本来なら、父が対応するべき話だ。
けれど、父は今ここにいる。
動けない。
なら、と思う間もなく、口が動いていた。
「僕が行きます」
父が鋭く僕を見る。
婚約者を諦めた今、一族だけは守る。
だから、僕は立ち上がる。
放っておけない。
高熱を出しているのなら、なおさらだ。
婚約は白紙になるかもしれない。けれど、せめて一族を見捨てない高潔な男としての矜持を、エリーに見せたかった。
◆◇◆◇◆
安心して嫁げる この部分は彼の言葉です。 彼の意識はこうなっていました。