作品タイトル不明
第390話:『獅子たちの誓い、百年の射程』
平原を包んでいた血と泥の狂騒が、夜の 帳(とばり) のなかにゆっくりと溶けていく。
戦場からやや離れ、荒野を一望できる高台の岩棚。そこにはシュタイナーが配置した一分の隙もない精鋭護衛部隊の鉄の壁に囲まれて、ユリウス、レオン、ゼイドの三人が佇んでいた。
吹き下ろす北風は彼らの頬を容赦なく叩き、外套を激しくはためかせる。だが三人は寒さすら感じていないかのように眼下に広がる平原を、ただ無言で見つめ続けていた。
遠く平原の中央では、数万の覇国の兵士たちが武器を捨て、あちこちで炊き出された温かいスープの湯気に群がっている。
狂王が倒れ、三将軍が泥に沈み、そしてあの岩窟の将すらも、白銀の武神の一撃によって生かされた。
すべてが、終わった。
「……すごい。これが……」
ユリウスの乾いた唇から、掠れた呟きがこぼれ落ちた。
言葉はそれ以上続かなかった。ただ胸の奥からせり上がる圧倒的な熱量が、彼の喉を塞いでいた。
時が過ぎるのも忘れていた。
リナ――いや、銀の仮面を纏った『天翼の軍師』が、あの薄暗い砦の作戦室で静かに盤面をなぞったあの日。
彼女の指先が動かした駒の通り、数万の大軍は勝手に内側から腐り、将たちは虚栄心に駆られて自ら先陣へ飛び出し、最後は一千メートル先からの見えざる鉄槌によって精神を粉砕された。
血を流して敵を殲滅するのではない。
敵が自らの重みと矛盾によって自壊していく。
「すべては、あの御方の手のひらの上だったわけか……」
レオンは冷たい風にさらされながら、手元の紙の束を見つめた。
行軍の遅延、情報の遮断、将軍たちの対立。彼が必死に書き留めた記録のすべてが、一枚の美しい織物のように、完璧な「結末」へと向かって収束していた。
レオンは眼鏡の位置を直そうとしたが、その指先が微かに震えていることに気づいた。知略で彼女を支えるなどと、自分はいかに傲慢な夢を見ていたのか。あの小さな書記官の背後に広がる深淵は、自分の浅薄な知識など一瞬で飲み干してしまうほどに深く、広かった。
「僕は……」
ゼイドが腰の剣の柄に置いた手を、白くなるほどに強く握りしめた。
「ただ剣を振り回し、敵を倒すことだけが強さだと思っていた。だが、リナ様が示したのは、そんな小さな武功ではない」
ゼイドの瞳には、かつてないほど熱く、鋭い決意の光が宿っていた。
「帝国軍の圧倒的な武力を『ただ見せる』ことで敵を沈黙させ、北の民自身に彼らの王を討たせた。……あれは彼らの誇りを守るため。そして、彼らが自らの足で立つための、唯一の道だったんだ」
その言葉はユリウスの胸の最も深い場所を直撃した。
帝王学の書物には、敵をいかに効率的に討ち滅ぼすか、いかに領土を広げるかばかりが記されていた。
だがリナがこの地で行ったのはその逆だ。
攻め取れば帝国の国庫に底なしの穴を空けるだけの不毛な荒野。そこを力で支配するのではなく、パンとスープの温かさで心を侵略し、交易という名の確かな恩義で縛り付ける。
「目に見えるものが、全てではないんだな」
ユリウスはぽつりと呟いた。
視界の先、暗闇のなかにぼんやりと浮かび上がる建設中の『道の駅』。あそこに茶室を造り、足湯を設け、おにぎりの妖精のマスコットを配る。一見お遊びにしか見えなかったあの計画のすべてが、数万の飢えた兵士たちの心を一瞬にして帝国へと繋ぎ止める最大の武器となった。
「目の前のちっぽけな戦果や、 面子(プライド) に囚われていては、本当の流れは見えない」
レオンが紙の束を強く抱きしめながら顔を上げた。
「彼女が見ているのは、今日明日の勝利ではない。……この戦いの裏に流れる百年先まで帝国と北が協調して歩むための、巨大な大河の底流だ。すべての行いは繋がり、巡り巡って未来の礎となる」
「百年先の策……。見事だ、リナ殿」
ユリウスは拳を固く握りしめた。
胸の奥でかつてないほどの熱い感情が、ごうごうと音を立てて燃え上がっていた。
圧倒的な『天翼の軍師』という壁の高さ。しかしそれは彼らにとって絶望ではなかった。自分たちがこれから進むべき、遥か高みを示す絶対的な道標。
「レオン。ゼイド」
ユリウスが振り返り、二人の側近の目を見据えた。
「俺は最高の皇帝になる。目の前の 泥濘(ぬかるみ) に足を取られず、遥か先の大河の流れを見極め、この国を導く男に」
「……ええ」
レオンが眼鏡の奥の瞳を熱く燃え上がらせ、不敵な笑みを浮かべた。
「その大河が正しく、淀みなく流れるよう、僕は生涯をかけて貴方の一歩先を照らす。……あの小さな軍師殿に、いつか『よくやっている』と、笑って認められるために」
「俺の剣は、その未来を守る盾となる」
ゼイドが剣を鞘から引き抜くことなく、ただその魂を込めるように胸に当てた。
「いかなる暗雲が立ち込めようとも、お二人の見る視界をこの命に代えても遮らせはしない」
三人は互いの目を真っ直ぐに見つめ合い、無言のままその手を重ね合わせた。
夕闇の風が彼らの重ねた手を、そしてその瞳に宿る確かな「統治者」としての覚悟を、優しく、しかし強く包み込んでいく。
遠くでパチパチと爆ぜる篝火の火の粉が、夜空にきらきらと輝きながら舞い上がっていた。
少年たちの模索の夜は終わり、彼らの胸の中には百年の未来を射抜く、静かで強大な光が灯り始めていた。