作品タイトル不明
第389話:『岩陰の秘術と、老商人の算盤』
時系列は少し戻る。
土と血の匂いが充満する、薄暗く冷たい岩陰。
クルガンの大剣を浴びたエノクの視界は、赤黒く明滅し、意識の端が急速に崩れ落ちようとしていた。
泥に塗れた視界の端に、銀の仮面をつけた少女が駆けつけてくるのが見えた。
彼女の顎から、透明な雫がぽろぽろと零れ落ち、エノクの頬を濡らす。
少女の両手がエノクの胸にかざされ、震える唇が微かに動いた。
「《……周囲に居るあまねく命を……》」
鼓膜を打つその独特の音の連なり。
瞬間、エノクの血塗られた記憶の底で、カナンの血脈に刻み込まれた古い知識が警鐘を乱打した。
(馬鹿な、なぜこの少女が『あの言葉』を……!)
エノクは、すでに感覚を失いかけていた死に体の肉体に、無理やり鞭を打った。
ガシッ!
血に塗れた太い指が、少女の細い手首を鷲掴みにする。
「それは成らんぞ! 天翼の!」
絶叫し、強引にその手を押し退けた。
この少女は、カナンの失われた故郷を取り戻すための、唯一にして絶対の希望だ。その希望を、自分一人の命と引き換えにここで消費させるなど、商人としての計算が絶対に許さない。
これ以上彼女をここに留めておけば、盤面が崩れる。
エノクは瞬時にそう判断すると、首をガクリと落とし、気絶した「ふり」をして岩肌にばたりと倒れ込んだ。極限の痛みの中でも失われない、商人の冷徹なしたたかさ。
巫女頭が毅然とした態度で少女たちを戦場へと押し返し、遠ざかっていく足音。
やがて、風が岩を撫でる音だけが残った。
「……行ったか?」
エノクが薄く目を開ける。
巫女頭が小さく頷いた。「はい。完全に」
巫女頭はすぐさま懐から古い革袋を取り出した。中から清らかな水をエノクの凄惨な傷口に静かに垂らし、古きカナンの祈りを唇で微かに紡ぎ始める。
光は、一切発しない。
だが、垂らされた水が意思を持つように傷口を覆い、裂けた肉が微かに蠢き、見えない糸で縫い合わされるように血がピタリと止まっていく。
その静かで神聖な治癒の過程は、知る者が見れば、あの『聖女マリア』が使う奇跡の治癒魔法と酷似した 理(ことわり) を感じさせるものだった。かつて北の交易を牛耳り、あらゆる知識を集積していたカナンならではの、秘匿された術。
しばらくの後、傷口が完全に塞がり、巫女頭が額の汗を拭って細く息を吐いた。
「何とかなりましたが……本当に無茶をなさいましたね」
「なに、必要な事じゃったし、ほれ、もう大丈夫……あたたたた!」
エノクは強がって笑い、不用意に上体を起こそうとして、全身を貫く激痛に顔を歪めた。
「傷が深すぎます。しばらくは絶対安静です」
巫女頭に冷たく 窘(たしな) められ、岩肌に背を預け直す。
痛みを堪えながら、エノクの灰色の瞳が真剣な色を帯びた。
「……しかし驚いたな。天翼殿から、あの言葉が放たれるとは」
巫女頭も深刻な顔で頷く。
「ええ。神に近づき、自我を世界に溶かす破滅の言語。何処であの危険な言葉を……」
エノクはフッと息を抜き、老獪な商人の顔に戻った。
「分け前はしっかり戴かんといかんしな。落ち着いたら警告がてら、会いに行かねばならんな」
命を救われた恩を売りつつ、彼女の背負う危うさを心底案じる古狼の顔。
そしてエノクは、薄暗い岩陰の天井を見上げ、カナンの未来に思いを馳せた。
「……我らカナンの民は……うむ。まずはここにいる者は休ませよう。その後、地方に散っている者と入れ替わりながら、体制を整えんといかんじゃろうなぁ。我らなりのルールとかも決めねばなるまい。ああ、忙しくなるぞ……つ! いたたたた……」
脇腹を押さえ、激痛に顔を歪める。
だが、その不規則な呼吸の音には、長年失われていた「希望」と、「未来の算盤を弾く喜び」が、確かに力強く満ちていた。