作品タイトル不明
第388話:『軍師の自責と、悪戯な生還者』
遠くから響いていた鬨の声が、分厚い布を隔ててくぐもった音に変わる。
平原の熱狂からやや離れた安全地帯。四方に『影』の気配が張り巡らされた後方の陣幕へと、私はセラとヴォルフラムに両脇を固められるようにして歩を進めていた。
「残党の動きなど、まだ何があるか判りません。安全が確認されるまではこちらで」
セラの鉄壁の配慮には、一切の反論を許さない圧があった。
天幕に入り、重厚な木の椅子に腰を下ろす。
カチャリと金属音を立てて銀の仮面を外した瞬間、ピンと張り詰めていた背筋の糸がぷつりと切れた。
「……ふぅ……」
深く、長い息が唇からこぼれ落ちる。肩の力が抜け、身体が鉛のように重く感じられた。
「……なんとか、なった。もう、ゆっくりして良いかな……」
陶器のすれる微かな音がして、目の前に湯気の立つ茶が差し出された。
「陛下へのご報告は、シュタイナー中将が直々に向かわれております。今はただ、心をお休めください」
セラが私の傍らにそっと寄り添う。その指先が、私の冷え切った髪を優しく梳いた。
「……さすがでございます、リナ様」
頭上から降ってくるセラの声は、静かな熱を帯びていた。
「長年に渡り、どうしようもなく……ただ流血と侵略を食い止める事でしか護れなかったこの北の地を、根本から安定させてしまった。他の誰にもなしえなかったことです。数百年、いや、おそらくそれよりもずっと長く続いていた、不安定なこの地を」
心からの称賛。
だが、その言葉が私の耳を通り抜けても、胸の奥の澱みは少しも晴れなかった。
両手で包み込んだ茶の温もりが、逆に私の指先の感覚を麻痺させていく。水面に揺れるオレンジ色のランプの光が、赤黒い血の海へと反転する。
そこに沈んでいく、見開かれた灰色の瞳。
(……本当に、私は上手くやれたのだろうか?)
歯の根が微かに鳴る。
彼に情報のコントロールを委ねたのは、私だ。彼が矢面に立つ危険性を、私は心のどこかで「盤面を動かすための有効な手段」として、無意識の計算に組み込んでしまっていなかったか。
視線を落とすと、自分の小さな手のひらが、べっとりと彼の血で濡れているような錯覚に襲われた。
どんなに綺麗事を並べて北の未来を語ろうとも、誰かの命をすり潰して成り立った平和。喉の奥に苦い胃液がせり上がり、私はただ深くうつむくことしかできなかった。
陣幕の中を、沈痛な静寂が満たしていく。
その時だった。
「――天翼の軍師様は、居られますでしょうか?」
幕の外から、北の地特有の訛りを持った、控えめだが芯のある女性の声が響いた。
チャキッ。
ヴォルフラムが反射的に剣の柄に手をかけ、警戒の姿勢で幕をわずかに開いて外を確認する。
その蒼い瞳が、限界まで見開かれた。
「……エノク老師です」
「…………!?」
心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がった。
ガタッ! と椅子を蹴立てて立ち上がり、幕の外へ駆け出そうとする。
だが、その肩をセラの細く力強い手がスッと押さえ込んだ。
「落ち着いて、お迎えくださいませ」
セラの声音が、乱れた私の呼吸を強制的に現実に引き戻す。軍師としての威厳を保つよう静止され、私はギリッと足の裏で土を踏みしめた。
セラが外に向かって「どうぞお入りください」と声をかける。
幕がゆっくりと開き、カナンの巫女に押されて一台の車椅子が入ってきた。
そこに乗っていたのは、頭から足の先まで、まるでミイラのように分厚い白布でぐるぐる巻きにされた姿だった。布の端々には、まだ微かに赤黒い染みが滲んでいる。
痛々しすぎるその姿に、私の喉は完全に干からび、声の出し方を忘れてただ呆然と立ち尽くした。
しかし。
幾重にも巻かれた包帯の隙間から覗く、その灰色の瞳。
驚愕に固まる私を見据え、その目尻がゆっくりと、三日月の形に細められた。
まるで仕掛けたイタズラが成功した悪ガキのように。あるいは、命がけの値切り交渉に勝った老獪な商人のように。
声こそ出さないものの、彼はニヤリと、確かな悪戯っぽさを含んで笑いかけていた。
目の奥が猛烈に熱くなり、視界がぐにゃりと歪む。
張り詰めていた涙腺のダムが決壊する寸前、私の胸の中で強烈な一つの感情が爆発した。
(……ドッキリですかっ!!!)
ランプの火が、小さくパチリと爆ぜた。