作品タイトル不明
第386話(閑話):『無敵のボスの泥遊びと、神の暴露』
赤茶けた砂塵が、乾いた風に乗ってゴズの顔をバチバチと打ち据えていた。
だが、彼は目を細めることすら忘れ、平原の中央で繰り広げられる死闘に釘付けになっていた。
左右の丘には、陽光を反射してギラギラと輝く白銀のバケモノたち(帝国軍)が、微動だにせずこちらを見下ろしている。後ろに下がれば、あいつらにすり潰される。かといって、前には見えない死神の領域が広がっている。
完全に退路を断たれ、槍を握る手は汗で滑り、ゴズの両足は地面に縫い付けられたように動かなかった。
彼らにできるのは、前方に孤立した自軍の将軍たちが、南の族長たちとタイマンを張るのを、遠巻きに見物することだけだった。
「いけーっ! ボルガス様ァッ!」
ゴズは、カチカチ鳴る奥歯を食いしばりながら、思わず声を張り上げた。
彼の所属する部族の長、ボルガス。あの丸太のような腕から繰り出される巨大な戦斧は、北の荒野で幾度となく敵を肉塊に変えてきた。
「あんな南のジジイなんか、一捻りだぜ! 叩き潰してくれッ!」
ガァァァァンッ!!
遠く離れたゴズたちの位置まで、耳を 劈(つんざ) く鋼の激突音がビリビリと響いてくる。
ボルガスの戦斧が空気を裂く。だが、相手のジジイ(ゴード)は全く退かない。それどころか、刃が交わるたびに、ボルガスの巨体がわずかに押されているように見えた。
「……あ、あれ? ボルガス様、なんか動きが……」
ゴズは目を丸くした。
普段なら一撃で相手を粉砕するはずの将軍の斧が、空を切り、泥を叩いている。遠目にも、ボルガスの肩が激しく上下し、息が上がっているのが分かった。
そして。
ゴードの放った一撃が、ボルガスの構えを正面から打ち砕いた。
ドゴォッ、というひどく生々しい音が風に乗って届く。ボルガスの分厚い装甲が砕け散り、あの無敵を誇った巨体が、まるで糸の切れた人形のように泥水の中へドシャリと崩れ落ちた。
「えっ……?」
ゴズは、ポカーンと口を半開きにした。
まばたきを数回繰り返す。
「嘘だろ……? あのボルガス様が……負けたの?」
頭の処理が追いつかない。最強のボスが、辺境のジジイに力負けした。
ゴズの隣にいた兵士たちも、信じられないものを見る目で静まり返っていた。
その沈黙を破り、巨大な咆哮が平原を震わせた。
「――情けないッ!!」
覇王クルガンだ。
大剣を担ぎ、激怒に身を任せて前へ突き進む。その巨躯から放たれる殺気は、遠く離れたゴズたちの肌さえも粟立たせるほどだった。
「覇王様が動いた……! やっぱ、あの人はやべぇ……」
ゴズがゴクリと唾を飲み込んだ時、クルガンの前に、一枚のボロ布のような老人がふらりと立ち塞がった。
「――哀れよのぅクルガン。落ちぶれたものよ」
風に乗り、老人の声が異様なほどはっきりと響いてきた。
「お前たちに配られた薬には、クルガンが毒を混ぜていたのだ!!」
「お前たちの家族が苦しみ、血を吐いて倒れたのは呪いのせいではない! 全てこの男が、己の支配を盤石にするため、お前たちを恐怖で縛り付けるために仕組んだ悪行なのだ!!」
その言葉が耳に届いた瞬間、ゴズの頭の中で、ゴォンと鈍い鐘が鳴った。
数日前の光景が、鮮明にフラッシュバックする。
『隊長……腹が、焼けるように痛てぇ……!』
口から黒い泡を吹き、土の上をのたうち回って死んでいった若い部下。あの時、皆で「見えない呪いだ」と震え上がった。
だが、あいつが倒れたのは、覇国から配られた『恩賜の薬』を飲んだ直後だった。
「……嘘、だろ」
ゴズの顔から、さァーッと血の気が引いた。
呪いじゃなかった。覇王が、俺たちに毒を盛った?
従わなければ殺すと脅し、最前線で肉壁にさせ、その挙句、背後から毒を飲ませて間引いていたというのか。
「マジかよ……。俺たちのこと……最悪じゃんか」
ゴズの胸の奥で、恐怖が急速に冷え、代わりにどす黒い嫌悪感と呆れが広がっていった。
周囲の兵士たちも同じだった。彼らは顔を見合わせ、槍の柄を握る力を完全に失った。クルガンへの忠誠心など、音を立ててマイナスに振り切れていた。
「あんなバケモノのために……」
誰かが吐き捨てた言葉に、ゴズも深く頷いた。
遠くで、赤い血飛沫が舞った。
クルガンの大剣が、あの老人を紙屑のように吹き飛ばしたのだ。
続いて、額に赤い化粧をした 若造(アラン) が、クルガンに向かって白刃を突きつけている。
ゴズたちは、完全に冷めた目でその光景を眺めていた。
(あーあ、あの若造もミンチかよ。……どっちも勝手にやってくれ)
予想外にもその若造は粘った。意外とやる奴なのかもしれない。だが、怒り狂ったクルガンの巨体が膨張し、大剣が天高く振り上げられる。
誰もが、若造が真っ二つになる光景を予想した。
だが――。
ギャイィインッ!!!
太陽が爆ぜたかのようなオレンジ色の火花が、クルガンの顔の横で弾けた。
ゴズの目には、何が起きたのか全く見えなかった。
ただ、無敵のはずのクルガンが、突如としてよろめき、大剣を握る腕を背後へ弾き飛ばされ、最大の隙を晒したようにしか見えなかった。
「……え?」
その瞬間、若造の刃が下段から閃いた。
クルガンの胸元から、凄まじい血柱が噴き上がる。
巨体がぐらりと傾き、地響きと共に土煙を上げて倒れ伏す。
さらに若造は歩み寄り、残ったクルガンの利き腕を無残に切り落とした。
風が土煙を払う。
若造が、血に濡れた剣を天に突き上げた。
「――クルガンは、ここに倒れた!!」
その声が、静まり返った荒野に轟く。
ゴズは、ぽっかりと口を開けたまま、瞬きすら忘れてその光景を見つめていた。
「クルガン様……死んだ……?」
その意味が、単純な脳細胞にゆっくりと染み渡っていく。
……もう、あの理不尽な命令で死地に立たされることもない。見えない呪いに怯えながら歩くこともない。毒を飲まされることもない。
ガンッ。
ゴズの手から、持ち直していた重い槍が再度零れ落ち、乾いた土を打った。
膝から力が抜け、ゴズはその場にドスリとへたり込んだ。
周囲の兵士たちも、次々と武器を放り投げ、糸が切れたように座り込む。歓喜の雄叫びなど上げる気力もなかった。
「……助かったぁ……」
誰かの絞り出すような声に、ゴズは深く、深く息を吐き出した。
生きて帰れる。
その安堵感が、空腹と疲労困憊を思い出させ、身体を泥のように重くした。