作品タイトル不明
第385話(閑話):『ゴズ兵士長の憂鬱、見えざる呪いと銀の壁』
時は少し遡り、場所はボルガス将軍の部族の部隊にて。
北の乾いた風が、赤茶けた砂塵を巻き上げて顔を打ち据える。
だが、ゴズの意識は頬の痛みなどとうに感じていなかった。
丸太のように太い腕。これまで素手で北の熊の首をへし折り、荒野の略奪を生き抜いてきた屈強な肉体が、今は薄い枯れ葉のように小刻みに震えている。
握りしめた槍の木柄が、手甲に当たってカチカチと情けない音を立てていた。
まぶたの裏に、昨日の光景がねっとりと張り付いて離れない。
少し離れてはいたが、斜め前を歩いていた他の部族長の分厚い鎧が、何の音もなく内側から弾け飛んだのだ。
血の雨。そして、遅れて空気を切り裂いた甲高い風鳴り。
胃袋に冷たい鉛を詰め込まれたように重く、吐き気がこみ上げてくる。前に進めば、あの見えない雷が自分の頭をスイカのように吹き飛ばす。首筋の産毛が逆立ち、冷や汗が背筋を滝のように流れ落ちていた。
「さっさと歩けェッ! 貴様ら、足に根でも生えたか!!」
背後から、ボルガス将軍の野太い怒号と共に、鞭が空気を裂くビシィッという音が響いた。
「へ、へいッ! ボルガス様ァッ!」
ゴズは裏返った声を張り上げる。周囲の屈強な部下たちも、一斉に威勢の良い返事をした。
しかし、誰の足もまともな歩幅で前に出てはいなかった。
つま先から踵へ。まるで薄氷の上を歩くかのように、ほんの数寸ずつしか土を踏みしめない。大の大人が、それも荒野の猛者たちが、血走った目に大粒の涙を浮かべながら、すり足でちょこちょこと進んでいる。
鞭の音が鳴るたびに肩をビクッと跳ねさせるが、絶対に前のめりには歩かない。見えない死神の鎌を避けるように、全員が首をすくめ、密集して 蠢(うごめ) くその行軍は、滑稽を通り越して異様な光景だった。
やがて、軍勢が視界の開けた平原へと押し出される。
前方の土煙の向こうに、バラクたち北辰同盟の旗印が風に 翻(ひるがえ) っているのが見えた。
「全軍進め!! あの逆賊どもを一匹残らずすり潰せェェッ!!」
覇王クルガンの咆哮が、ビリビリと空気を震わせた。
黒い巨馬が前へ飛び出す。それに急き立てられるように、ボルガスたち三将軍も「続けェッ!」と怒鳴り散らし、馬の腹を蹴り飛ばした。
将軍たちの巨体が、猛烈な砂塵を巻き上げて平原の中央へと突進していく。
しかし。
ゴズの足は、完全に大地の泥に縫い付けられていた。
隣の兵士も、その後ろの兵士も、将軍たちの背中を急ぎ追う事ができない。遅れてのろのろと。そして、後方の軍勢は歩みを止めていた。
砂埃を上げて猛進する将軍たちの背中が、みるみるうちに小さくなっていく。
「あ、あれ……?」
ゴズは、カチカチと鳴る歯を食いしばりながら、隣の副官と顔を見合わせた。
「後ろの奴ら、誰もついて来てねぇぞ……」
「前になんて行けるわけねぇですよ。あそこ、絶対死ぬ 領域(ゾーン) じゃないすか」
「……だよな。俺たちも、ここで……」
将軍たちの怒号が、遠くの風に掻き消されていく。
彼らは背後に数万の軍勢を引き連れているつもりで、その実、ただ平原の中央で完全に孤立していた。
ゴズたちは、安全な後方からボスの奮闘を見物する、特等席の観客へと成り下がっていた。
その時。
ズズズズズズ……。
足元の赤土が、腹の底を揺らすような低い震動を帯びた。
ゴズが左右の丘陵へ目を向けた瞬間、彼の喉から「ヒュッ」と空気が漏れた。
太陽の光を、暴力的なまでに反射する白銀の波。
丘の稜線を埋め尽くすように湧き出たのは、一点の曇りもなく磨き上げられた装甲を纏う帝国軍だった。
風に揺れる軍旗の音すら揃っている。盾の重なり、槍の角度、微動だにしない足並み。幾千の兵士が、まるで一つの巨大な鋼鉄の怪物のように、ただ冷ややかにこちらを見下ろしている。
「……うわぁ」
ゴズの乾いた口から、魂の抜けたような声がこぼれた。
いつも泥と血にまみれ、略奪と騙し合いで戦っているゴズの常識からすれば、あんな傷一つないピカピカの連中はあり得ない。あれは人間ではない。死の概念を持たない、別次元の化け物たちだ。
後ろを振り返るまでもなかった。
左右の丘から放たれる無言の圧力が、退路を完全に塞ぎ、彼らをこの平原の底に閉じ込めている。
ゴズの指先から力が抜け、太い槍がズルリと滑り落ちた。
カランッ。
乾いた音が足元で鳴る。
それを合図にしたかのように、周囲から次々と、武器が土に落ちる鈍い音が連鎖していった。
「終わった。……俺たち、死んだわ」
もはや逃げる気力すら湧かない。
もとより無くなりかけていた戦意という熱は、足元から急速に冷えていく泥の中に完全に吸い込まれていた。
ゴズはただ両腕をだらりと下げ、平原の中央で馬を降りた自分たちの将軍・ボルガスが、南の族長に向けて巨大な戦斧を構える姿を、虚ろな瞳で傍観することしかできなかった。
風が、乾いた砂塵を舞い上げ、両者の間をゆっくりと通り抜けていく。