軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第387話(閑話):『美味すぎるスープと、単純な胃袋』

へたり込んだ乾いた土から、微かに生ぬるい血の匂いが立ち昇ってくる。

ゴズは力なく投げ出した両手を見つめ、ひび割れた唇から深く、長い息を吐き出した。

終わった。あの狂った覇王が死んだ。

もう、見えない死神に怯えながら歩くことも、理由もなく同胞が切り刻まれるのを見ることもない。

張り詰めていた神経が泥のように溶け出し、全身の筋肉がズシリと重くなる。周囲の兵士たちも同じように地面に転がり、ただ荒い呼吸を繰り返していた。

ズン……ッ。

その安堵の空気を、重く硬質な足音が容赦なく踏みにじった。

ゴズは弾かれたように顔を上げる。

平原の中央に、使い込まれた革鎧と鉄の胸当てを纏った漢が進み出ていた。『岩窟の民』の族長、ガルドだ。

その背中から立ち上る、死をも恐れぬ凄絶な気迫。

「えっ……あのオッサン、まだやる気かよ……?」

ゴズの顔面から、再びさぁーっと血の気が引いていく。

勘弁してくれ。もう戦いは終わったじゃないか。俺たちはもう、槍なんて握りたくないんだ。

ガタガタと震え始めた膝を抱え込もうとした、その時だった。

ドドォォォォンッ!!

後方の丘から、雪崩でも起きたかのような凄まじい地鳴りが轟いた。

ゴズが目を剥いて振り向くと、斜面を蹴り下りてくる巨大な白馬と、それに跨る「白銀の塊」が、猛烈な土煙を上げて平原へ突っ込んでくるのが見えた。

「な、なんだ!? 」

それは、文字通りの怪物だった。

白銀の装甲を纏った巨漢が、ガルドの目の前で馬を降りる。

死を決したガルドが、全身の筋肉をはち切れんばかりに膨張させ、戦斧を盾のようにして渾身の迎撃態勢をとった。その気迫たるや、遠目に見ているゴズの肌すら粟立たせるほどだ。

だが、白銀の怪物は、そんなガルドの決死の構えを――正面から、まるで紙屑でも払うかのように粉砕した。

ゴッ!! バキィッ!!!

大剣の峰がガルドの鉄の胸当てをひしゃげさせ、返す刀で顎をカチ上げる。

一切の抵抗すら許さず、北の猛将が宙を舞い、泥の上に叩きつけられて白目を剥いて痙攣した。

ゴズの口は、あんぐりと開いたまま塞がらなかった。

瞬きすら忘れて、白銀の巨漢を見上げる。

「……なんだ、あの白いの。意味わかんねぇ……」

あれは人間が立ち向かっていい存在ではない。覇王クルガンですら、あんなバケモノの前ではただの肉塊に過ぎなかったのではないか。

ゴズの奥歯がカチカチと鳴る。

「……戦わなくて、本当に良かった……」

もしあのまま進軍して、あのバケモノどもの群れとぶつかっていたら。想像するだけで胃の腑が裏返りそうだった。

◇◆◇

白銀の漢が去り、今度こそ戦場に本当の静寂が降りた。

張り詰めていた恐怖と緊張の糸が完全に千切れた瞬間。

ギュルルルルルゥゥゥ……ッ!!

ゴズの腹の底から、雷のような盛大な音が鳴り響いた。

途端に、胃酸が喉の奥をジリジリと焼き、目の前がチカチカと暗転しかける。

「……腹、減った……」

思えばここ数日、まともな飯など一切口にしていない。狂った強行軍と、見えざる呪いへの恐怖で、水すら満足に喉を通っていなかったのだ。

冷たい北風に乗って、暴力的なまでの「匂い」がゴズの鼻腔を殴りつけた。

ジュウウッ、と獣の脂が弾ける香ばしさ。

甘く焼けた小麦の匂い。

そして、鼻腔の奥をツンと刺激する、食欲を狂わせる油と塩の匂い。

「……なんだ、この匂い……?」

ふらふらと立ち上がったゴズの前に、敵だったはずの北辰同盟の若者たちが、手押し車を引いてやってきた。

荷台には、湯気をもうもうと立てる巨大な鉄鍋と、山のように積まれた木箱。

「ほらよ、食え」

若者が無造作に、ゴズの手に木の器を押し付けた。

そこに乗っていたのは、見たこともない食べ物だった。

茶色くて丸い、ふっくらとしたパン。その間から、肉の焼けた分厚い塊と、緑の葉っぱが顔を覗かせている。隣には、黄金色に揚がった細長い芋の山。そして、真っ白でフカフカと湯気を立てる丸い玉。

「……毒が、入ってるかもしれねえ……」

ゴズは震える手でその「丸いパン(ハンバーガー)」を持ち上げた。

覇国が配った薬には毒が混ざっていた。これも、罠かもしれない。

しかし、鼻先をくすぐる酸味のあるソースと、肉の焼けた強烈な匂いが、ゴズの残されたわずかな理性を容赦なく吹き飛ばす。

胃袋が「食え」と悲鳴を上げている。どうせ一度は諦めた命だ。

ゴズは目を閉じ、思い切りその丸いパンにガブリと噛み付いた。

――ジュワァァッ……!

「…………ッ!!?」

ゴズの瞳孔が、限界まで見開かれた。

噛みちぎった瞬間、口の中に溢れ出した暴力的なまでの肉汁。

それを優しく受け止める、ほんのりと甘いフカフカのパン。

シャキッとした野菜の歯ごたえと、濃厚で酸味の効いたソースが、肉の脂と絡み合い、舌の上で奇跡のような調和を生み出している。

「う……」

次に、黄金色の細長い 芋(フライドポテト) を口に放り込む。

サクッ。ホクッ。

絶妙な塩気が、干からびた身体の隅々にまで電撃のように行き渡る。

「うめェ……」

鉄鍋から注がれた温かいスープを啜る。

野菜と肉の旨味が溶け込んだ熱い液体が、冷え切った内臓を芯から温め、溶かしていく。

「う、うめェェェェェェェェッ!! なんだこれ!? 肉がジュワッて! パンが甘ぇ!!」

ゴズの目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。

クルガンの下で、石のように硬い干し肉を齧り、泥水のような酒を啜っていたあの日々は一体何だったのか。毎日「明日は死ぬかもしれない」と震えながら食う飯と、この温かく、信じられないほど美味い飯。

天と地ほどの差だ。

ゴズは、涙とソースで顔をぐしゃぐしゃにしながら、一心不乱にパンを貪り食った。

周囲を見渡せば、さっきまで恐怖に震えていた数万の覇国兵たちが、皆一様に武器を放り出し、涙を流しながら無言で顎を動かしている。

サクッ、ムシャッ、ジュワッ。

荒野を満たすのは、怒号でも悲鳴でもなく、ただただ幸せな 咀嚼音(そしゃくおん) だけだった。

ゴズの単純な頭の中で、小難しい理屈や部族の誇りなどは、肉汁と共に完全に胃袋へと消化されていった。

一つの揺るぎない真理が、彼の脳髄に刻み込まれる。

(……これからは、この美味い飯をくれる奴らについていくのが、一番賢いに決まってる)

かくして、数万を誇った北の覇国軍は、一滴の血を流すこともなく。

温かいスープとジャンクフードの前に、完全なる無条件降伏を遂げた。